第十七話 後悔
西堂丸=北条西堂丸 氏康の嫡男
父上=北条氏康 北条家当主
左衛門大夫=太田原左衛門大夫資清 元那須家臣
徳伯母上=北条徳 氏綱の長女 資高の妻
資高伯父上=太田資高 江戸城主
崎叔母上=北条崎 氏綱の三女 康延の妻
康延=堀越康延 堀越城主
源七郎=太田源七郎景康 資高の庶長子 西堂丸の補佐役
母上=今川雪 氏康の妻 西堂丸達の母
光=北条光 氏康の長女
春=北条春 氏康の次女
松千代丸=北条松千代丸 氏康の次男
藤菊丸=北条藤菊丸 氏康の三男
山本勘助晴幸 武田家臣
御屋形様=武田晴信 武田家当主
父上=武田信虎な 武田家先代当主
今川治部大夫義元 今川家当主
母上=中御門寿 義元と雪の母 西堂丸の祖母
天文十一年(1542年) 一月 相模国足柄下郡小田原城 東ノ間
西堂丸
この部屋にも慣れてきた。父上が当主を継がれ、私の部屋が西ノ間から次期当主の東ノ間に移された。前と違うのは少し広くなったのと弟妹達の部屋から離れてしまった事だ。此処だけが解せない。父上にお願いしてみようか?……いや、弟妹達も少し経てば此方へ移ると言っていた。……今は待つか。
話は変わるが、新年を迎えて直ぐに左衛門大夫が父上を訪ねられた。私と父上の予想通り、新年の挨拶の後に大関討伐の援軍を頼まれた。父上が迷う事なく、風魔衆二百人の援軍と百貫を渡すと左衛門大夫も大きく口を開けて驚いていた。大層感銘を受けた様で、翌日には妻と子共らを連れて一家で感謝を伝えに来た。父上達とて下野国に味方が出来ればと、利用価値があると思って決められた事だ。そして最後には、北条の為ならば何時でも参陣すると言ってくれた。とは言っても、下野国に参入するのは両上杉を滅ぼし、武蔵国と上野国を手中に治めてからだな。
家臣達からも新年の挨拶があった。三日からは毎日の様に国衆が挨拶に来た。話す事もする事も、ここ最近は毎日が繰り返しで退屈であった。そんな中でも嬉しい報告があった。江戸の徳伯母上と堀越の崎叔母上が懐妊された。崎叔母上の事は手紙で知ったが、徳伯母上の事は態々(わざわざ)、資高伯父上が伝えに来てくれた。源七郎も知らなかった様で唖然としていたのが面白かった。そして、母上も懐妊された。どうやら落慶式の時の不安そうな様子は父上に原因があったらしい。詳細は聞かせてもらえなかったが、二人の様子を見るに解決したのだろう。光と春が妹を欲しがっていた。母上は既に、私を含めて男子を三人も産んでいる。女子を産んでも責める者は誰もいないので気が楽だと仰っていた。
弟妹達の成長も早いものだ。光も今年で六つになり、私と一緒に学問を学びたいと懇願して来た。妹の可愛い願いを叶える為に、父上と母上に必死に頼み込んだ。この時代では、学のある女性はあまり男性に好まれない。平成を生きた私には共感出来ないが。しかし、その様な価値観に囚われる父上と母上ではない。許可は直ぐに出た。なんせ北条家は、下克上を成し遂げだ一族だ。古き価値観など一番縁のない家だ。
松千代丸も大きくなった。特に秀でたものはないが、何事も卒無くこなす。平穏を愛し、昼寝を尊ぶ性格だ。前世では、私の代わりに辛い思いを、難しい決断をさせてしまった。今世では松千代丸にその様な事はさせたくない。武家の男子である以上、甘い事ばかり言ってはやれないが、今だけでも気楽に過ごして欲しい。
春も四歳になった。松千代丸とは違ってお喋りが大好きの様だ。人の話を聞くのも好きな様で、会いに行くたびに戦の話を強請られる。私は戦に行った事は無いのだが。父上や御祖父様から聞いた事をそのまま話すと、大層嬉しそうにするものだから中々やめられない。勿論、血生臭い事は話していない。四歳の妹に話して良い事ではないからな。
藤菊丸は最近になって走れる様になった。一年前に話せる様になったかと思えば、去年のうちに歩ける様になり、走れる様になった。藤菊丸も初めに喋った言葉は〝あに〟だった。またも母上に睨まれたが、気にはしていない。私の愛情が伝わっていた様で安心したところだ。
今度は妹達が言う様に妹だろうか?それとも弟だろうか?前世では、これから産まれてくる弟妹達とは殆ど交流が無かった。嫡男の重責に耐えるので精一杯だったのもあるが、弟や妹というのにそれ程関心がなかった。しかし、二度目の人生で一人っ子を経験し、兄弟姉妹の有り難味を知った。二度も同じ失敗をする私ではない。今世では目一杯大切にし、守り抜きたいと思う。
天文十一年(1542年) 二月 甲斐国山梨郡躑躅ヶ崎館 当ノ間
山本勘助晴幸
「御屋形様、勘助に御座います」
「入れ」
部屋から御屋形様の声が聞こえ、指示に従い中へ入った。
「……まずは無事の帰還、大儀であった。…それで、如何であった??」
…雑談はない様だな。御屋形様もかなり気にされている様だ。
「はっ。……今川と北条、既に和睦しているかと」
「…やはりか」
あまり驚かれていない様だ。元々、調べる様に仰ったのも御屋形様だ。予想はついていたのだろう。
「最後に今川と北条で戦があったのは三年前で御座います。…恐らくはその頃からかと」
「なっ………それ程前からとは」
流石に驚かれたか。…私もこの事を知った時には、冷や汗をかかされた。まさか、これ程も長い間隠していたとは。
「…となると、上杉は危ういな」
「………」
「〝何故〟と、聞かぬのか?」
…大方予想はつくが。
「何故に御座いますか?」
「上杉共は北条が今川とも争っていると思っておる。…全軍を上杉に向ける事は無いと」
…確かに大きな油断だな。更に上杉は自分達を過信し過ぎている。先の河越の戦で敗戦したにも関わらず、偶々負けたのだと吹聴する始末だった。
「さすれば、武田は如何しますか?」
「我らも北条と和議を結ぶ」
…迷わず和睦と仰るか。
「北条は了承するでしょうか?」
武田と今川が和睦出来たのは運が良かったとしか言えない。氏輝様が亡くならなければ、武田と今川の戦は今も続いていただろう。
「北条とて、武田との和睦は望んでいよう」
「何故に御座いますか?」
…今川と和睦した今、武田の脅威は無いに等しい。国力、兵力において武田は北条の脅威にならない。
「北条は何かを企んでいる様だ。……何をするにも味方は多い方がよかろう」
それは…確かに、私も何かあるとは感じたが。北条は今川と和睦した事を公表すれば、両上杉の動きも大人しくなるだろう。しかし、それを敢えて隠すのは何か企んでいるとしか思えてならない。
「では、和睦の条件は援軍を出すと?」
「うむ」
ここまでが予想通りであれば、和睦も成るだろう。
「武田からも要求がある」
「…………」
それは些か図々しいのではなかろうか。
「食糧を買い取らせて欲しい」
「…買うので御座いますか?譲るではなく?」
てっきり食糧を要求するのかと思ったが。今までの武田はそうであったからな。
「勘助、儂を父上と同じにするでない。…買うで良い。今は日の本全土で飢饉が起こっておる。食糧を売っている事すら稀じゃ」
そこまで酷かったとは。一介の家臣に過ぎない私にはそこまでの情報は入ってこないが、御屋形様は三ツ者や歩き巫女の他に、貴族とも交流がある。日の本全土の情報も入ってくるのだろう。
「はっ、畏まりました。……して、誰を北条の使者に?」
「お主に頼む」
「またに御座いますか?」
「頼む」
「…畏まりました」
駿河国の次は相模国か。浪人であった頃よりも他国を歩いている気がするな。しかし、御屋形様の御命令だ。私が断る事も無ければ、失敗する事も無い。
天文十一年(1542年) 三月 駿河国安倍郡駿府館 大奥ノ間
今川治部大輔義元
「母上、…小田原から文が届きましたぞ」
手に大量の文を持って、母上の部屋へ着いた。
「あら、義元殿。…いつの間に侍女の真似事を?」
「母上。…折角、母上が楽しみされている文を届けに参ったのです。私を揶揄うのはおやめ下さい」
……全く。近頃の母上は私を揶揄う事が多くなった。聞けば雪姉上が嫡男の西堂丸とこの様に揶揄いあっているのだとか。それが羨ましいとの事で。
「良いではないですか。…やっと不安が一つ無くなったのです。これぐらいは許しなさい」
…母上には辛い思いをさせてしまった。母上だけではない。家臣や国衆にも辛い思いをさせた。私が北条と今川の繋がりを軽視した上、織田の策略に嵌ったばかりに。
「不安が一つと仰いましたが、他にも?」
「…信虎の事です」
……義父上の事か。確かに母上は最後まで義父上を駿府に住まわせる事に反対でおられたな。
「そればかりは我慢して頂くしか」
「分かっています」
晴信殿との盟約もある。義父上を粗末に扱う事は出来ない。
「それよりも、西堂丸に御座いましたか?」
「西堂丸がどうかしたのですか?」
母上から度々聞かされる姉上の嫡男。和睦交渉の時にも少し聞いたが。
「いえ、一度会ってみたいものだと思いまして」
私が話している最中に、西堂丸と聞いて我慢出来なくなった母上が、その本人から届いた文を読み始めてしまわれた。
「どうやら、直ぐに会える様ですよ」
「……どういう事ですか?」
「駿府へ来るそうです」
「…何時に御座いますか?」
「来月」
……聞いていない。いや、今はそんな事を考えている場合ではない。北条には大きな恩がある。その嫡男が来訪するのだ、粗相など出来ん。誰を接待役にするのか、食事は何を出せば良いのか。そもそも元服前の嫡男なぞ、どの様に歓待すれば良いのだ?
「彦五郎、歓待は私に任せなさい」
「は、母上」
……任せて良いのだろうか?私にも不安が一つ増えてしまったな。