第十六話 午後三時
北条長順 西堂丸達の学問の師匠 北条長綱の三男
西堂丸 北条家嫡男
武千代 綱成の嫡男 西堂丸の従弟
賢千代 盛秀の嫡男 西堂丸の従弟
御本城様=北条氏康 北条家当主
河越殿=北条綱成
母上=今川雪
光=北条光
華=北条華
北条彦九郎為昌 氏康の弟
孫次郎=北条綱房 綱成の弟
詠存=太田原資清 元那須家臣
大関美作守=大関宗増 那須家家臣
直治叔父上=加瀬直治 北条家侍医
山本勘助晴幸 武田家家臣
御屋形様=武田太郎晴信 武田家当主
天文十年(1541年) 九月 相模国足柄下郡小田原城 学ノ間
北条長順
「それでは武千代、ニの段を言ってみなさい」
「おう!にいちがに、ににがし、にさんがろく………あとは、わからん!」
三までか。しかし、昨日よりは増えたか。
「…ふぅ、…良しとしましょう」
「武千代!段々と言える様になってきたではないか!」
「おう!」
全く。西堂丸様はお優し過ぎる。
「西堂丸様、武千代を甘やかさないで下さい。西堂丸様と賢千代は既に九九を覚えられたのですから、武千代も追いつかねばならぬのです」
西堂丸様が聡明なのは聞かされていたが…これ程とは。賢千代も西堂丸様には及ばないが、秀才と言っても過言ではない。武千代も武芸では河越殿の様な才能の片鱗を見せている。
「おや、そろそろ八刻ですか」
「よし!」
「うむ。皆、私の部屋へ参ろう」
「今日は何でしょうか?」
西堂丸様が考案された八刻。未の刻から申の刻の間に軽食を摂る事。何でも空腹の状態で学んでいても身に付き難いとか。御本城様も西堂丸様が言うのであれば間違いないと直ぐに許可を出された。
「お師匠も来られますか?」
「……そうですね。御言葉に甘えさせて頂きます」
「皆、たんとお食べなさい」
「母上、有り難う御座います!」
「おばうえ、ありがとう」
「いただきます!」
……来るのではなかった。てっきり女中達が菓子などを持ってくるのかと思ったが、実際は御方様が大量の握飯を持って、御子息と御息女も連れて来られた。部屋には拙僧と三人の教え子、御方様、光姫様、松千代丸様、春姫様がおられる。何とも居心地が悪い。
「たけちよさま、こちらのおにぎりをどうぞ」
「おう!ありがとな、てる!」
「何だ光?兄には渡してくれぬのか?」
「あにさまは、ごじぶんでとってください」
「なっ!………」
何があったのだろうか?少し考え事をしていた間に、西堂丸様が深く落ち込んでおられる。
「長順殿、気になさらないで下さい。いつもの事ですから」
「あぁ、いえ。……御方様、お気遣い有り難う御座います」
……初めてお会いしたが、随分と綺麗なお方だ。西堂丸様の端正な顔立ちは御方様に似たのだな。
「ささぁ、長順殿もお疲れに御座いましょう。……この大きいのをどうぞ」
「…忝のう存じます」
…なんとも大きい握飯じゃ。形は些か悪いが、量は申し分ないな。
「ししょう、それ、たぶんだが、おれのははうえだ」
武千代の母君と言う事は、………華様か!なんとも、あの方らしい。
「ん?……てことは」
「えぇ。そうですよ、武千代。先程着いたところです」
廊下から人数分のお茶を持って、もう一人女性が現れた。
「は、ははうえ!」
学問の時には、答えられなくても一切慌てる事がなかった武千代が、華様を前にしただけで大層慌て始めた。
「何故、そんなに慌てるのですか?」
「い、いえ!けして、がくもんのしなんに、ついていけてない、とかではなくて」
……武千代。それでは、ついていけてないと言ってるも同然だぞ。
残りの休憩の間、武千代はずっと華様に叱られていた。指南態度も決して良くはなかったので、これを機に改めてくれれば助かるのだが。西堂丸様が元服した後は、あの二人が両腕となるであろう。その三人の学問の指南を任されたのだ、私も気を引き締めねば。
天文十年(1541年) 十月 相模国足柄下郡小田原城 執ノ間
北条彦九郎為昌
「領内の収穫量は如何であった?」
「……良くはありません。しかし、なんとか冬は越せるかと」
「そうか。……間に合って良かった」
ここ数年は凶作が続いている。それでも、領内で餓死する者が少ないのは、事前に干物の大量生産や米の買占め、狩猟の獲物を干し肉にするなど、出来る限りの対策を行った。また、凶作に備えて税制も変えた。凶作具合で税の重さが変わる様にと、西堂丸様が御提案された。今のところは上手く機能している。
「伊豆国の一部では免税三の適用も致し方ないかと」
「そこまで深刻か!」
免税三は納める年貢が全て免除される。年貢を納めれば民の命に関わる程の凶作と言う事だ。他国ではまず有り得ないだろう。
「はっ。海の方へ出ていた者達も多く例年の半分もないとか」
「うむ。……それでは仕方あるまい」
畿内の方では戦火が広がっていると聞く。三好が再び挙兵した。此度は岳父となった丹波国守護・波多野備前守秀忠を伴っての挙兵と聞いた。畿内六カ国を巻き込んでの戦となったらしい。上方での飢饉はまだまだ続きそうだな。
「兄上、どうやら里見が動き始めたように御座います」
「……やはりか」
宗徳から知らせがあった。落慶式の翌日に講和交渉を行い合意した筈の里見家が、北条家に従属している真里谷家で内紛を起こさせようと暗躍していると。
「如何致しますか?」
「……何もするな」
「…宜しいのですか?」
里見家の企みが成せば上総に出兵せねばならない。真里谷の領地を取られれば、些か面倒な事になる。
「真里谷の土地は直轄地としたい。……上総の国衆は大方が北条に与しておるからな。真里谷が里見に寝返り次第、兵を向けよ」
「成程。左様に考えておられましたか」
流石は兄上だ。私も常々、里見の制圧には真里谷の土地が必須だと思っていた。そこに旗色が鮮明でない家臣など。……一番厄介なのは、信ずるに値しない味方だからな。敵に回ってくれた方が何倍も助かるというものよ。
「そう言えば、兄上」
「如何した?」
先程、小姓から報告があった事を思い出した。
「河越の孫次郎から文が届きました。……なんでも、詠存と名乗る男が兄上に目通りたいと」
「何処かで聞いた事があるな。………下野国の那須家の家臣にその様な男がいなかったか?」
まさか、ご存じだったとは。
「はい。那須七騎が一つ、大田原氏の当主であった男です。同じ那須家臣であった大関美作守の讒言を受けて失脚したとか」
「あぁ、知っている。……父上が智勇に優れる男だと仰っていた」
…なんと!父上がそこまで評価されていた方とは。
「その様な男が私に用とは。……面白いな。その詠存は今は何処だ?」
「小田原の城下まで来ております」
……たしか、直治叔父上のところに泊まらせていたな。
「よし、会ってみるか。…そうだな……西堂丸も同席する様に伝えてくれ」
「西堂丸様ですか?」
此度は一門でもなければ味方でもないが。合わせるのは危険ではないだろうか?
「案ずるでない。詠存の目的も大凡は検討がつく。北条に害は与えぬであろう」
いかんな、兄上に気を使わせてしまった。兄上も考えての事だ、私が心配する事ではない。
「いや、其方は其方で詠存の目的を探って欲しい。なんせ、父上が褒められていた程の男だ。腹の中で何を考えているかは分からんからな」
全く、兄上にはいつも見透かされてしまうな。
「承知しました」
天文十年(1541年) 十一月 甲斐国山梨郡躑躅ヶ崎館 当ノ間
山本勘助晴幸
「お呼びでしょうか、御屋形様」
「うむ。お主に調べて欲しい事がある」
部屋に入ると御屋形様が寝転んでおられた。先代様を駿河へと追い、家督を継がれたは良いが、小山田や穴山などの国衆が指示に従わない。それに我慢のならない御屋形様が政を放棄しておられる。……今は調べるよりもそちらの方を優先して頂きたいが。
「案ずるでない。お主が心配しておる事は数日後には解決しておる」
「………」
「板垣が奔走してくれてな。小山田以外は儂の下知に従うと起請文を寄越してきた。……それに気付かぬ小山田ではあるまい。明日か明後日には、この館に来るだろう」
なんと、既に解決しているではないか。私が知らぬ間に御屋形様は動いておられたとは。
「左様で御座いましたか」
「うむ。……して、お主に調べて欲しい事は今川と北条の戦の事だ」
今川と北条の戦と言うと、……河東の戦か。
「はっ。……して、戦の何を?」
「今も戦は続いているのかを調べて欲しい」
「………」
どういう事だろうか?今川と北条は花倉以降であるから、五年もの間争っている筈だが。
「気づかぬか?……ここ二年の間に今川と北条の間で戦が起きておらん。儂は既に両家の間では、和睦が成ったのではないかと思っておる」
……まさか。さすれば、今川は同盟相手である武田にも知らせると思うが。
「両家の間で何か条件があったやもしれぬ。……出来る限りで良い、調べてくれ」
「はっ。畏まりました」
そうと決まれば直ぐにでも出なければ。今川と北条で和睦が成ったとすれば、武田も早めに手を打たねばなるまい。両家の真意、探らせてもらうぞ。