第十四話 仮病
北条新九郎氏康 北条家当主
北条左京大夫氏綱 北条家前当主
西堂丸な 北条家嫡男
加瀬幸衛門直治 北条家侍医
武千代 綱成の嫡男
古河公方様=足利晴氏 古河公方
寿桂尼様=中御門寿 義元と雪の母
義元殿=今川義元 今川家当主
義御祖母様=近衛時子 氏綱の妻
三浦左衛門尉氏員
武田陸奥守信虎 武田家当主
関東管領=上杉憲政 山内上杉家当主
天文十年(1541年) 五月 相模国足柄下郡小田原城 前ノ間
北条新九郎氏康
「父上、お加減は如何で御座いますか?」
「………大事無い」
五月に入ってすぐの事、父上が箱根の温泉宿で倒れられた。知らせが来るとすぐに、侍医の加瀬幸衛門を箱根へ向かわせ、私もその日の夕方には駆けつける事が出来た。
………病状は頭を打った事よる眩暈と打撲……だけだった。なんでも、長湯で逆上せて転んだとか。勿論、命に別状は無く、念の為にも幸衛門には今日の様に度々様子を見てもらっている。……………全く、隠居されてから緩み過ぎではないだろうか?
「お歳なのですから、気を付けて下さい」
「そう何度も言うで無い。………反省はしておる」
父上の診察が終わり、幸衛門の方を見るが今日も頷くだけだった。やはり、たいした怪我では無かった様だ。
「西堂丸が御見舞いに来ております。入れても良いでしょうか?」
「おぉ!そうであったか!……西堂丸、遠慮する事は無い。入ってきなさい」
口調も当主であった時と比べて、私や弟妹達に対しては変わらないが、西堂丸や武千代と言った孫に対しては威厳を捨てて親しみやすい話し方になられた。西堂丸は直ぐに慣れた様だが、先月から小田原城に越して来ていた武千代は、まだ慣れていない様である。
「失礼します!」
西堂丸は部屋に入ると、最初に奥に座っていた幸衛門の方を凝視した。幸衛門に会ったのは今日が初めてであったな。
「西堂丸、そこに居るのは侍医の加瀬幸衛門直治だ。お主が病に罹ればこの者が診る事になる」
「幸衛門、私の嫡男の西堂丸だ」
紹介が終わると、幸衛門が先に頭を下げた。それに続いて西堂丸が少しだけ頭を下げた。
「御祖父様、以前相談されていた事を、今返答したいのですが?」
……相談?私は何も聞いていないが。
「うむ。申すが良い」
父上は了承すると、西堂丸の方へと体を向けた。どうやら、大事な話の様だ。
「……………」
「どうした?申してみよ」
いざ、話し始めるかと思ったが西堂丸は黙ったまま幸衛門の方を見ていた。
「あぁ、幸衛門ならば問題ないぞ。………此奴は一門の者じゃ」
……成程。幸衛門が退室するのを待っていたのか。
「此奴の妻は儂の末の妹でな。……此処で聞いた事を漏らす事はない」
「そうで御座いましたか。………それでは、話させて頂きます」
西堂丸がそう言うと、部屋の中に音が無くなった。大人三人が六歳の幼子の話を聞く為に、己から出る音ですら小さくしようと努めている。側から見れば随分と不思議な光景である。
「……………二月後の七月半ば頃、御祖父様は亡くなります」
「………………」
………突然何を言い出すかと思えば。死ぬと言われた父上は何も言わずに黙っておられる。
「若様。……失礼ですが、御隠居様のお怪我は命には関わりません。後数日もすれば完治致します」
幸衛門が反論するが、西堂丸は首を振るだけだ。
「いいえ、御祖父様はこの怪我が原因で二月後に亡くなります」
「いや、ですから…」
「よい、幸衛門。………西堂丸、儂は何をすれば良い?」
幸衛門が再度反論しようとするが、今度は父上が幸衛門を静かにさせ、西堂丸に話の続きを催促した。
「はい。………御祖父様には残り二月の間に三つ程、して頂きたい事があります」
「うむ」
「まず一つ目は、御祖父様の死後に古河公方様と父上の間で軋轢が起きない様に、事前に父上と御祖父様とで古河公方様に当主交代の挨拶に行って頂く事」
……確かに。父上が亡くなれば北条家と古河公方家の同盟が続く保証はない。今川家が良い例だ。同盟を結んだ時の当主同士が互いを認め合ったから手を組んだのだ。それが次代の当主も認められる事にはならない。今川家とは講和したとは言え、今の平穏は古河公方家との同盟あってこそだ。それが無くなるとなると………。
「二つ目は、当主としての器量を心配した御祖父様に、父上へ向けて訓戒状を残して頂きたいのです。………そうですね。……十七ヶ条程」
「……………」
………何も言い返せないな。私は父上や御祖父様に比べれば、当主としても一人の武士としてもまだまだであろう。……西堂丸と比べても……。
「うむ。……ちと多くないか?……西堂丸は氏康が当主では心配か?」
「いいえ。……父上であれば、十年も掛からずに両上杉家を関東から追い出せます。甲斐の武田や越後の長尾の邪魔が無ければ、関東全域も手中に出来ると思っております」
…………西堂丸。……私の事をそれ程までに評価してくれていたとは。
「うむ!……良かったではないか氏康」
「……はい…」
……堪えるんだ。武士たるもの子の前で泣いてはいかん。
「西堂丸の事だ。……それも考えあっての事だろう。良かろう、明日には完成させておこう」
「……父上、それはあまりにも早過ぎませんか?」
今日と明日とでは、……やはり早過ぎると思うが。
「何を言っておる?……西堂丸はお主であれば〝大丈夫〟だと言ったが、儂は言っておらん。……お主にまだ教えねばならん事がある。今の事だってそうだ。……家族の前では、己の弱さを見せても良い。泣いて良いのだ。無理に見栄を張ろうとするな」
「……有難き御言葉。肝に銘じます」
「御祖父様、父上、良いですか?」
「うむ。…最後の三つ目を申してみよ」
「はい。三つ目は、古河公方様への挨拶が終わり次第、御祖父様には駿河へ行って頂きます」
……駿河か。古河公方様と同じく、父上亡き後に私と義元殿が仲違いする事を心配しているのだろうか?
「今川家と再び争うと心配しておるのか?」
「いえ、今川家の事は心配しておりません。………そうですね、もしもの時の援軍を取付けて頂きたいのと、後は言葉の通りなのですが」
西堂丸は寿桂尼様と毎月文の遣り取りをしていたな。そこまで親密になれば、今川家を信頼しているのも分かるが。
「援軍の事だが、今川家では直ぐには出せないだろう。………少なくとも今年は難しいであろうな。まだ、内政に専念しなければならないであろう」
「はい。援軍は直ぐでなくて構いません」
「うむ。で、あれば問題なかろう」
直ぐで無くて良いと言う事は、父上が亡くなっても両上杉家は大軍で攻めて来ないと思っておるのか。
「後は良いのか?」
「そうですね、……義御祖母様には確りとお話下さい。義御祖母様には辛い思いをさせてしまいますから」
「うむ」
そして翌朝、十七ヶ条の訓戒状を持った父上が私の部屋へ来られた。昨日、仰っていた事は本当であったのだろう。父上から見れば私は当主としては、依然として安心出来る程ではないのだ。気を引き締めねばならんな。
古河公方様への挨拶は十日後になった。一応、他国には知られない様に移動しなければならず、風魔衆から工作に十日程掛かると言われた。今月の内であれば支障はないので、それで許可を出した。
後で全容を聞かせられた時は、再び西堂丸に驚かされた。六歳であれ程考えられるものとは……。その西堂丸が、私ならば関東を治められると言ってくれたのだ。父としても、その期待には応えねばなるまい。
天文十年(1541年) 六月 駿河国庵原郡横山城 謁ノ間
三浦左衛門尉氏員
「義兄上、お久しゅう御座いまする」
「うむ。…久しいのう、氏員」
今、儂の前には妻の兄にして、北条家の前当主・北条左京大夫氏綱様がおられる。………先月の事だった。何時もの様に駿府館へ出仕すると、御屋形様に呼ばれた。聞けば、義兄上が駿河へお越しになるとの事で、その接待を仰せつかった。何でも、駿府館には義兄上に会わせられない人物が来られるとの事で。
「花倉の折は、御見方出来ず申し訳ありませんでした」
「過ぎた事よ。……それに、もし氏員が儂に味方しておれば駿河は北条の領土となっていただろう。……そうなっておれば、儂は父上にも伊都伯母上にも、顔向出来なくなっておった」
……やはり、義兄上も今川家との戦は不本意であったのか。
「それよりも、だ」
「はっ。……本題に御座いますか?」
「うむ。……単刀直入に言うとだな、北条家が窮地になった時に援軍を出して欲しいのだ」
「……援軍に御座いますか?」
「うむ」
「して、如何程でしょうか?」
「うむ。………五千程かのう」
……五千か。…義兄上には悪いが、今は無理だな。他国に五千も割けるほどの余裕が今の今川家にはない。
「……それは、些か難しいかと」
「いや、直ぐではない。……二年か三年程は、助けを求める事はないだろう」
「であれば、問題ないかと思いまする」
私が承諾すると、義兄上は満足そうに頷かれた。御屋形様には事前に、義兄上の願いには極力応える様に言われている。御屋形様も今では北条家を信頼されている。当初は猜疑心が強いお方だったが、近頃はその面影すら感じない程に優しくなられた。
「……して、義元殿は何処に?」
……やはり、気になられたか。隠さなくて良いとは言われたが………。
「………本日は駿府にて、武田陸奥守様を接待されております」
「……なるほどの」
義兄上と陸奥守様は長い間争っておられる。我ら今川もそうであったが、今は御屋形様の義父でおられる。御屋形様が応対しないわけにはいかないからな。
「武田は佐久郡を攻めていたのではなかったか?」
「えぇ、その様ですが。………佐久郡の領主が関東管領に助けを求めたとかで。……その要請を受けて佐久郡へ出兵を。山内上杉家と同盟を結んでいる武田家は、山内上杉家を敵に回すのを恐れて撤退された様です」
「うむ。それはいつの事だ?」
「一昨日に御座います」
「であれば、氏康のところにも知らせは来たか頃か」
北条家には、風魔衆という忍びの集団がいたな。雪斎様もその諜報能力を羨んでおられた。
「それで、何故に駿府に来たのだ?」
「何でも、御屋形様に嫁がれた奥方様の様子を見に来たとか」
「うむ。……領土を失った直ぐにか」
「はい」
「よく武田の家臣はそれを許したものだな」
……確かに、義兄上の言う通りだ。武田家の領内は只でさえ飢饉で食糧難だと聞いたが、領土を失った直後に当主が他国に出てるなど、危険の様な気がするが。………いや、今はそれどころではないな。
「ささぁ、義兄上。……本題も終わりましたので今宵は飲みましょう」
「うむ」
妻も義兄上に会いたがっていた。倅にも会わせておかねばな。………誠、北条家と今川家の和睦成ってよかった。
北条家の家系図を作成しました!
他にもあった方が分かりやすいな、と思う家が有ればお気軽に感想欄に書いて下さい!