表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北条家の四代目  作者: 兜
第一章   幕開
11/32

第九話   評定

西堂丸=後の北条新九郎氏親

御本城様=北条左京大夫氏綱 北条家当主

青鑑=風魔小太郎   風魔衆頭領

太田源七郎景資  補佐役

横井三郎時堯  補佐役

笠原弥太郎康勝  補佐役

間宮次郎右衛門信頼  補佐役

若様=北条新九郎氏康  北条家嫡男

綱成=北条左衛門大夫綱成  氏綱の養子

綱房=北条孫二郎綱房  氏綱の養子 綱成の弟

為昌=北条彦九郎為昌 氏康の弟 氏綱の次男

氏堯=北条十郎氏堯 氏康の弟

金石斎=大藤信基  北条家家臣  氏綱の軍師

義堯=里見刑部少輔義堯 里見家当主

古河公方様=足利左兵衛督晴氏 古河公方

殿=織田弾正忠信秀 織田弾正忠家当主

久介=滝川八郎資清 織田信秀の忍び


天文九年(1540年)  九月  相模国足柄下郡小田原城 一ノ丸

太田源七郎景資




「源七郎、お主に風魔の知り合いはおるか?」

「…風魔、にございますか?」

「そうだ」

補佐役を拝命してから五ヶ月が経った。共に補佐役となった三人は歳も近く、打ち解けるのにもそう時は掛からなかった。しかし、西堂丸様には未だに慣れない。


他の三人はそれぞれに西堂丸様を指南する時間がある。|三郎(時堯)殿は礼儀作法と和歌を、|弥太郎(康勝)殿や|次郎右衛門(信頼)殿は武芸や水練を教えている。それに比べて私は…、補佐役にはなったかが、普段は若様の小姓として仕えているか御馬廻衆の仕事をするばかり。西堂丸様とは話す機会もそう多くはない。


今日とて、急に櫓に行きたいと言い出したと思えば、今度は忍びの知り合いはいるかと聞いてくる。何を考えているのか全く分からん。


「申し訳ありません。某に忍びの知り合いはおりませぬ」

「…そうか」

何故(なにゆえ)にそのような事を?」

いつもならば、このまま会話を終わらせていただろう。…しかし、ふと思ったのだ。私は知らなければならないと。この方は何を思い、何を考え、何を知ろうとしているのかを。


「私は知りたいのだ」

「何をでございますか?」

「他国の事をだ」

「…御本城様や若様は教えてくださらないのですか?」

「いや、教えてくださる。…しかし、聞かねば教えてもらえぬ」

いまいち分からぬ。自分の手足ととなる忍びが欲しいという事だろうか?


「では、忍びが欲しいと頼めば宜しいのでは?」

「…頼む?」

「はい。教えてくださると言う事は、別段(べつだん)隠したい訳でもないと言う事。お願いすればきっと、忍びをつけてくれましょう!」

「…いや、しかし」

どうされたのだ?先程までの大人びた態度は崩れ、そこらの子供の様にあたふたと困惑され始めた。


「……そ、それでは、まるで我儘ではないか?」

「…西堂丸。我儘は子供の特権にございます」

普段は大人びた方だが、此度は珍しく子供の様に戸惑われている。私が思っているよりも、西堂丸様は普通の子供と同じなのかもしれない。ただ、親に甘えるのが苦手な子供というだけの。

「そ、そうだな!……うむ。今度、御祖父様にお願いしてみるとしよう」

そう言うと、初めてお会いした時のような大人びた作り笑顔ではなく、子供らしい屈託のない笑顔を向けられた。


「して、西堂丸様はどこの国が気になりますか?」

「まずは武蔵。次に下総だ」

「武蔵とは、西堂丸様も両上杉家は気になりますかな?」

武蔵国は南と西を北条家が、北は山内上杉家が、東は扇ケ谷上杉家が領有し戦の絶えぬ地だ。父上達の住む江戸城も武蔵国にある。


「次に北条が大戦を起こすとすれば武蔵で間違いない」

「…某も噂では聞いております」

両上杉の最前線である河越城に地黄八幡の孫九郎(綱成)様が入られたのが何よりの証拠だ。あのお方がいるところはいつも戦場になる。

「西堂丸様、武蔵もいつかは落ち着きましょうか?」

北条家の直轄地である相模や伊豆は戦がなく比較的平和な土地だ。最近では上総も治安が良くなったと聞いた。…しかし、武蔵は。


「源四郎、案ずるでない。私が断言しよう、五年の内に武蔵全土は平穏の地となる。…我が北条家の手によって」

「………」

御機嫌取りに適当に相槌を打てば良かったのかもしれないが、何も言葉が出てこなかった。…この方が言うと真の事の様に思えてくる。


「如何した、源七郎?」

「あ、いえ。…何でもございまん」

…不思議なお方だ。知ろうとすればする程、余計に分からなくなる。…ただ、このお方にお仕えすれば夢にも見ぬ頂を見れる気が…。


「源七郎!急ぎ母上の部屋に参るぞ」

突如、西堂丸様が声を上げた。

「なっ、何かございましたか?」

西堂丸様のこの慌て様、今まで見たことがない。何だ?何が起きたというのだ?

「…光や松千代丸達が昼寝から起きる頃だ!早く会いに行かねば!」

「………」

…期待は些か早すぎたようだ。

 



天文九年(1540年)  十月  相模国足柄下郡小田原城 会ノ間

西堂丸 




十月に入って直ぐの事。御祖父様の命で御一門衆、御家来衆、奉行衆の主だった面々が会ノ間に集められた。私も末席で参加するように言われ、補佐役の中から三郎(時堯)を連れて参加した。一門衆は殆ど知っているが御家来衆や奉行衆となると前世を含めて会った事が無い者もいる。御祖父様や父上と家臣との取次ぎを務める三郎は、北条家臣全ての名前と顔を知っているらしい。いざという時の解説役だ。


御祖父様が来られるまでしばらく時間があり、早速三郎に私の知らない御家来衆と奉行衆の紹介をしてもらった。三郎は名前だけでなく、どこの城主を務めているだとか、出身地や婚姻関係などの情報も織り交ぜて説明してくれた。おかげで印象に残りやすく、今回出席している面々は全員覚えることが出来た。復習も兼ねて一から確認してみる。


まず、私と三郎が座っているのは部屋の最後尾の左端。視線の先には御祖父様が座るであろう上段の席が何とか見える。はっきりと見えないのは、私の目の前に奉行衆が横二列に座っており、その更に前には左一列に御一門衆が、右一列に御家来衆が座っているからだ。


私に最も近い席に座る奉行衆の面々は、山角刑部少輔定吉(さだよし)、伊勢備中守貞辰(さだとき)、石巻下野守家定(いえさだ)、松田主税康定(やすさだ)、安藤豊後守綱満(つなみち)、関信濃守為清(ためきよ)の六人。この六人は奉行衆の中でも年長者であったり、特別優秀な者達だ。部屋の大きさからして奉行衆全てを参加させ事は出来ない為、この者たちが代表して参加しているらしい。


私がこの中で知っているのは伊勢備中守だけだ。前世で何度か会ったことがある。それに、伊勢という性からも分かる様に備中守は政所執事・伊勢家の出身だ。北条家も元は伊勢家。つまり、備中守は北条の親戚と言う事だ。…三郎が言うには備中守と御祖父様は従兄弟の関係にあたるとか。その上、幕府の申次も務めていた経験もあり政務能力もお墨付きだ。


結果、備中守は北条家に仕えてからまだ六年の新参者ではあるが、奉行衆の中で一番の出世頭となっている。三郎の情報では知行は三百貫文で奉行衆の中では一番の高給取りだとか。三百貫文は石高にすると千八百石。一人の文官が受ける知行としては破格の金額だろう。


因みに、御家来衆の中で一番の出世頭は孫九郎(綱成)叔父上だ。孫九郎叔父上は元は駿河の出。他国の外様である上に後ろ盾となる実家や両親も幼い時に無くしている。それでも、身一つで数々の武功を重ねられ、今や華叔母上を娶って御一門衆に列せられた上、河越城の城主にまで任されている。北条のみならず、関東の中でも一番の出世頭ではないだろうか。


話題にも出たところで孫九郎叔父上の座る左一列の御一門衆の顔ぶれを見る。当然のごとく良く知る顔が並んでいる。先頭から、父上(氏康)駿河(長綱)大叔父上、彦九郎(為昌)叔父上。十郎(氏尭)叔父上、常陸(綱高)伯父上、孫九郎(綱成)叔父上。その後ろに更に四人座っている。しかし、私はこの四人を知らなかった。前世含めて話した事はおろか、会った記憶すらない。


当然の様に三郎に説明してもらい、彼らの事を知ることが出来た。前から順に横井出羽守時綱(ときつな)、小笠原兵部少輔元続(もとつぐ)、高橋郷左衛門尉氏高(うじたか)、北条三郎時長(ときなが)。言われてみれば名前は聞いたことがある者達だ。


出羽守(時綱)は相模河村城の城主で三郎の父親だ。そして、出羽守の姉は今は亡き御祖父様の前室である國御祖母様。つまり、出羽守は御祖父様の義弟になる。尾張赤目城主である兄と兄弟喧嘩の末、御祖父様を頼って小田原に来たのが三十年前。この人も備中守(貞辰)孫九郎(綱成)叔父上と同じで、身一つで出世した人だ。


他家ならば血縁関係だけで出世する事もあるが、北条家はその点に関して言えばかなり厳しい家だと思う。弟や息子、親族であろうと、出世したくば己の力でが基本方針だ。まぁ、そのおかげで御一門衆は優秀な人材が揃っているのだが。


続いて小笠原兵部少輔元続。この小笠原家と北条家の繋がりは御曾祖父(ひいおじい)様(伊勢宗瑞)の代まで遡る。御曾祖父様の正室にして御祖父様の生母である躑躅(つつじ)御曾祖母(ひいおばあ)様の御実家が小笠原家であった。兵部少輔は御曾祖母(ひいおばあ)様の甥に当たり、御祖父様とは従弟(いとこ)の関係になる。


小笠原家と言えば、宗家であり、ここ相模に近い信濃の守護を務める信濃小笠原家が一番有名だろう。次点で四国の阿波小笠原家や山陰の石見小笠原家。他に、遠江や三河にも存在する。しかし、御曾祖母(ひいおばあ)様や兵部少輔(元続)の出身はこのどれでもない。小笠原家の支流に京都小笠原家というものがある。二人はこの家の生まれになる。


京都小笠原家とは、宗家である信濃小笠原家の七代当主・小笠原治部大輔貞宗(さだむね)の弟・貞長(さだなが)が興した家で、代々幕府の奉公衆を務めている。更に室町幕府六代将軍・普広院《義教》様の代からは将軍家の弓馬師範も任されており、将軍家からの信頼も篤い家柄だ。


兵部少輔も当初は将軍家に仕え奉公していたが、前将軍・法住院《義澄》様が将軍職を廃され京より追放されると、出羽守(時綱)と同じ様に御祖父様を頼って小田原に着いた経緯を持つ。しかし、将軍家との関わりが完全に無くなった訳ではなく、兵部少輔の兄・民部少輔稙盛(たねもり)は現将軍・義晴様の奉公衆を務めている。


その為、北条家の幕府への取次ぎは幕府での奉公経験がある備中守(貞辰)兵部少輔(元続)に任されている。今現在、北条家と将軍家の関係が良好を維持しているのはこの二人の功績が大きい。


昨年の話になるが、将軍の使者が小田原に来訪したことがあった。目的は北条家の幕府への忠節を称し鷹を送る為だ。些細な事に思えるかもしれないが、北条家にとってこの事実は一国を得るよりも大きい。関東管領家と争う北条家の忠節を褒めるという事は、北条家による関東平定を幕府が明確に支持している事を示す。幕府が関東管領家の権威を否定した事は、上杉に味方する国衆にも少なくない衝撃を与えたことだろう。


この使者の来訪を実現させたのも二人の献身あってこそ。今や北条家にとって二人は、なくてはならない存在だ。


三人目は高橋郷左衛門大尉氏高(うじたか)。この人は常陸(綱高)伯父上の弟だ。しかし、二人の関係は些かややこしいものになっている。二人について語る為、もう一度御曾祖父(ひいおじい)様の代まで遡る。


今より三十二年前の明応七年。御曾祖父(ひいおじい)様は南伊豆にあった深根城を落とし見事伊豆を平定したわけなのだが、この時に最も活躍したのが常陸(綱高)伯父上と左衛門(氏高)従兄伯父(おじ)上の父親である高橋左近将監高種(たかたね)大伯父上。


大伯父上(高種)はこの時の功績で御曾祖父(ひいおじい)様の養女を娶り、北条家(この時は伊勢家)の一門に迎えられた。その養女との間に生まれたのが常陸(綱高)伯父上。しかし、この女性は常陸伯父上を生んで直ぐに亡くなられた。


これにより北条家と高橋家の婚姻関係が終わり、大伯父上の北条一門としての立場も微妙なものになってしまった。ただ、伊豆平定以降も領地経営から戦時の武功などと功績を重ねていた大伯父上。その働きに応える為、御曾祖父様は再度北条家より姫を大伯父上に嫁がせた。


その女性の名前は(さと)御曾祖父(ひいおじい)様の長女にして御祖父(おじい)様の長妹。正真正銘の北条家の姫だった。里大叔母上は今もご健在で、毎年正月になるとお歳暮に反物や毛皮を送って下さっている。お会いした事はないが、きっと優しい人だと思う。


そして、その里大叔母上との間に生まれたのが左衛門(氏高)従兄伯父上。こうなってくると困るのは後継者問題だ。常陸(綱高)伯父上も左衛門(氏高)従兄伯父上も母親は北条家の娘ではあるが、養女と実娘では話が変わってくる。


大伯父上も相当悩まれ決めかねていたそうだが、ここで常陸(綱高)伯父上が己の力で解決して見せた。元服を済ませた常陸伯父上は、それ以降戦場に出るたびに数々の手柄を挙げられた。その功績の中でも特に大きかったのが、大永四年の江戸城奪取だ。当時、江戸城は扇谷上杉家の居城でこの城を攻略した武功は計り知れないものがる。


その功績をもって常陸伯父上は御祖父様の猶子として迎えられ、他にも偏諱、御家号、相模玉縄城主も与えられる破格の恩賞だったとか。以降、常陸(綱高)伯父上は北条常陸介綱高と名乗るようになり、左衛門(氏高)従兄伯父上と家督を争うことなく自力で別家を興すことに成功した。


少しややこしくなったが、常陸(綱高)伯父上は北条本家の一門で御祖父様の猶子。父上にとっては義兄(あに)で、私からすれば伯父。そして、左衛門(氏高)従兄伯父上は北条親族の一門で御祖父様の甥。父上にとっては従兄(いとこ)で、私からすれば従兄(いとこ)伯父(おじ)。以上が二人の説明となる。


最後に北条三郎時長(ときなが)。この人は駿河(長綱)大叔父上の嫡男で、左衛門(氏高)従兄伯父上と同じく御祖父(おじい)様の甥に当たり、父上の従弟(いとこ)になる。当然の様に私からすれば従弟(いとこ)叔父おじの関係だ。


駿河(長綱)大叔父上には他に、元服を済ませた二人の男子がいるが今回の集まりには呼ばれていない様だ。名前は確か…、北条新三郎氏信(うじのぶ)と北条長順(ちょうじゅん)。長順従弟叔父(おじ)上は駿河大叔父上の後を継ぐ為、箱根権現に入寺し修行の日々を送られている。その修業が間もなく終わるらしく、近々お会いすることがあるかもしれない。


御一門衆の確認も終わったところで、次は右一列の御家来衆を見てみる。前から順に、三宿老衆・松田尾張守盛秀、同・大道寺駿河守盛昌、同・遠山丹波守綱景、軍師・根来金石斎、譜代衆・富永左衛門尉直政、同・笠原越前守信為、同・多目長門守元興、新参衆・真里谷八郎太郎信隆・風魔衆頭目・風魔青鑑。


三宿老衆とは、御曾祖父様の頃より北条に仕える譜代衆の中でも特段功績の多い三家の事で、別格の御一門衆を除く御家来衆の最高格の立場を持つ。他家で言えば家老といったところだろう。


譜代衆は足軽大将以上の身分かつ北条家に仕えて三十年以上の者達。金石斎もこの譜代衆に名を連ねる。平時は万石以上の領地を管理し、戦時になれば多くの兵を従え指揮する。別の言い方をすれば武将と言ったところだろう。


新参衆は足軽大将以上の身分かつ北条家に仕えて三十年未満の者達。立場としては譜代衆に似ているが、士官年数が違うため信用や実績に大きな違いがある。真里谷が北条傘下に加わってから一年も経っていない。しかし、今回の会議に召集されたのはそれなりに信頼を得ている証だろう。


「御本城様が到着されます」

丁度一通りの確認が終わったところ、廊下に控える小姓の一人がそう告げた。

声の聞こえた廊下から部屋の中へと視線を戻す一瞬の間、この僅かな時間で部屋の空気が大きく変わったのを感じた。先ほどまで雑談を交わしていた者達や、いつもはうるさいだけの孫九郎叔父上でさえ、姿勢を正し両手を床について頭を下げている。他の者達も同様だ。最後尾に座る私と三郎も慌てて続く。


直ぐに足音が聞こえ始め、部屋へと近づいてくる。音が少しずつ大きくなり…

「皆、おもてを上げよ」

席に着いた御祖父様の号令により、目の前に座る男たちが一斉に顔を上げる。

「うむ。皆、揃ってる様だな。…では早速、始めるとしよう」

御祖父様が一人一人を確認すると小さく頷いて、始まりの合図を出した。


「初めに孫九郎(綱成)。上杉の動向は如何じゃ?」

最初に指名されたのは孫九郎叔父上だった。

「おう!扇谷と山内の二名に落慶式の招待状を送ったが、三月経っても一つの返書も帰ってこなかった。…参加する気は欠片もないらしい」

「ふっ、であろうな。…自分たちが一切関与しておらぬ鎌倉八幡宮の落慶式など、どの面下げて参加できようか」

叔父上の言葉遣いは今更なので誰も触れない。…それよりも御祖父様、両上杉にも招待状を送っていたとは。両名からすれば嫌がらせだとしか思われないだろうに。


御祖父様が鶴岡八幡宮の造営を始めた当初、山内と扇谷の両家に奉加を求めた事がある。結局は断られてしまったが。…鎌倉以来、武門の守護神たる鶴岡八幡宮は東国武士にとって特別な存在だ。北条家と両上杉家は造営を始めた頃から敵対関係ではあった。しかし、この鶴岡八幡宮の再興事業では協力出来たはずだ。それでも両上杉は、鶴岡八幡宮への奉加を断固として拒絶した。


再興事業を北条家主導で行うことが気に食わなかったらしい。…くだらない理由だ。この時に進んで大金を出していれば、失墜しつつあった上杉の家名も回復しただろう。…まぁ、結果としては、この時に両上杉が奉加を断ってくれて助かったのだが。


「…それで、上杉の家臣共はどうだ?」

「ああ、親父殿の狙い通りになった!多くの国衆が参加したいと」

「うむ、上々だな」

御祖父様が不敵に笑う。弟妹達には見せられない様な悪い顔だ。だが機嫌はかなり良さそうに見える。


主家は参加しないが、家臣は参加する。通常であれば、敵に寝返ったと思われてもおかしくない。しかし、この一件に関してだけは例外だ。渋る主家に代わり、奉加に応じたのが他ならぬ国衆達だったからだ。

「主だった者では、長野宮内大輔、成田下総守、安中宮内少輔、高田伊豆守、羽尾治部少輔、三田弾正少弼、太田左京亮」

孫九郎叔父上が淡々と告げると、彼方此方から驚きの声が聞こえてくる。


当然だろう。今名前が上がった面々は両上杉家では重臣であったり譜代の者ばかりだ。この部屋にお

る者ならばは、彼らが御祖父様の奉加に応じた事も、鶴岡八幡宮の復興に貢献した事も、式に参加する資格がある事も理解している。それでも、本来であれば警戒すべき猛者たちなのだ。土地や城を奪い合い、戦い、憎しみ合っている相手。…それがまさか、仲良く式典に参加する事になるとは思いもしなかっただろう。事実、前世の落慶式では精々使者を送るに留めていたはずだ。


「上総平定が効いておるようですな」

皆が動揺する中、大叔父上が冷静に答えを述べた。

「…お主もそう思うか、三郎(長綱)?」

御祖父様も同じ考えだった様だ。見渡してみると、父上と金石斎、御家老衆の中にも数人程が頷いているのが見える。

「はい。上総の殆どを手中に収めた事で里見の動きを封じ、兵力では両上杉と肩を並べ、両家の連携も絶つ事に成功しました。北条の勢いはまさしく、飛ぶ鳥を落とすが如く。…今のうちに我等と良好な関係を築きたいと思うは自然な事かと」


少し傲慢な物言いではあるが、大叔父上の仰っている事は事実であり正しい。今の北条家の立ち位置も冷静に見ておられる。…以前父上に教えて頂いた事だが、上総遠征の後、鶴岡八幡宮の再建に協力したいと金銭や材木を送って来た上杉家傘下の国衆が何人かいたらしい。御祖父様が奉加を求めたときに断った者達だ。御祖父様も内心は、〝何を今更〟と思っていたかもしれない。


しかし、北条家としても上杉傘下の国衆とは仲良くしたい。出来る事なら戦をせずに味方に引き込みたい。そういった思いもあり、長文の礼状と大量の謝礼を送っておいた。効果があることを期待したい。


「次に太郎(綱高)。動きを封じた里見だが、落慶式については何と言ってきた?」

上杉の話題が終わると、御祖父様が常陸伯父上に問う。どうやら里見家にも招待状を送っていたらしい。

「はっ。返書では是非参加したいと」

「来ると申すか?」

伯父上の返答は御祖父様にとって良い意味で予想外のだった様だ。表情には出さないが声色で喜んでいるのが分かる。

「当主・刑部少輔義堯殿、嫡男・太郎義弘殿。両名とも出席したいと」

「…ほう。嫡男も出席させるか」

今度は許容量を超えたようで、御祖父様が表情を崩し僅かに笑みを浮かべる。室内には方々から驚きの声が聞こえてくる。


里見家当主自ら式に参加する。これを他家から見たとき、里見家は北条家に屈したのか、あるいは和睦を望んでいるのか、少なくとも関係改善を望んでいるように見えるだろう。両上杉の国衆とは違い、大名家が直々に参加するとなれば意味合いは大きく違ってくる。当主のみならず嫡男も連れてくるとなると、他家からは降参したように見えるだろう。


「…余程、儂の印象を良くしたいらしい。……他にも何かあるな?」

「はっ。会談の席を設けて欲しいと」

案の定、里見は北条との関係改善を望んでいるようだ。

「話し合って如何する?」

御祖父様が素っ気なく聞き返す。

「…和睦すべきかと」

伯父上が〝和睦〟の言葉を口にしたが誰も驚いた様子を見せない。ここまで話を聞いていれば皆も予想はしていたであろう。

「何故じゃ?」

伯父上の真意を測るように御祖父様が問う。


「…領内で飢饉の前兆が見受けられます。それも一部ではなく、関東中にて。里見の治める安房も例外ではありません。もしこのまま飢饉となれば、里見は今までのように伊豆や相模に海賊衆を攻め込ませ、食料を奪っていくでしょう。…和睦が成ればそれも防げます。我らも飢饉が過ぎるまでは、里見と波風を立てぬが上策かと」

…飢饉。これは御祖父様も否とは言えぬ。それに、里見の海賊衆はかなり厄介だ。国土も兵力も里見と北条では比べるまでもなく北条が圧倒しているが、海上戦力だけは未だに里見に劣る。

里見の海賊衆は、船の数に戦術、経験に練度、どれをとっても北条の海賊衆より数段も上である。唯一優っているのは数ぐらいなものだろう。


信濃守(為清)、お主の見立ても同じか?」

御祖父様に名を呼ばれたのは奉行衆の一人、関信濃守為清。奉行衆の中でも農事に精通した者で、領内の田畑管理を任されている。

「…同じに御座います」

信濃守の考えも伯父上と同じの様だ。

「…よかろう。里見とは和睦する」

御祖父様の決断は早かった。二人の発言もあっての事だが、風魔からも事前に報告を受けていたのだろう。時間も掛からず、表情も変わることなく里見との和睦を選ばれた。…もしかすると、初めから和睦を考えていたのやもしれぬ。


彦九郎(為昌)、鎌倉の方は如何じゃ?」

次に指名されたのは彦九郎叔父上であった。〝鎌倉〟というのは落慶式を行う鶴岡八幡宮の事で、叔父上はその落慶式の総責任者に任じられている。

「はい、準備の方は滞りなく」

色よい返事に御祖父様も〝うむ〟と頷く。

「快元和尚も息災か?」

「はい。落慶式の日を今か今かとお待ちでございます」

快元和尚は鶴岡八幡宮二十五坊の一つ相承院の住職で、此度の再建に最も尽力された方である。また、落慶式の日には導師も務められる予定だ。

「和尚らしいな」

「鶴岡八幡宮の再建は快元様の念願で御座いましたからな」

快元和尚と長い付き合いである御祖父様と大叔父上が可笑しそうに話す。再建を最初期の頃より進めてきた快元和尚は気心の知れた仲なのだろう。


「…父上、少しばかり変更せねばならぬ事態となりました」

一瞬前まで緩やかな空気になっていた室内が、彦九郎叔父上の一言で緊張状態となる。

「何か問題でもあったか?」

御祖父様の語気も強くなる。

「…古河公方様から、落慶式に出席したいとの文が届きました」

「「「……」」」

数秒の間、静寂に包まれた。


「なんと!」

「良かったじゃねぇか!親父殿(おやじどの)!」

正気を取り戻した金石斎が驚きの声を上げ、孫九郎叔父上が祝辞を叫ぶ。御祖父様や父上も狼狽を隠せないでいる。勿論、私も驚いた。

「…他にも用があるようですが」

「う、うむ。…相分かった。歓待の方はお主に任せる」

「畏まりました」

当然の如く古河公方様にも目的あっての事だったが、まさか落慶式に参加して頂ける事になるとは青天の霹靂である。公方様が落慶式に出席して下さるだけで式自体に拍が付く上、宣伝効果は計り知れないものがある。北条の権威や名声も上がるであろう。…この落慶式、ますます失敗できなくなった。


「…他に何かあるものは?」

御祖父様が室内を見渡す。御一門衆から奉行衆へ、奉行衆から御家来衆へと。追加の要件はないようで、皆は姿勢を正すだけだった。

「うむ。…それでは、皆の者。…来月の十一月二十一日、鎌倉にて鶴岡八幡宮の落慶式を執り行う。…各々抜かり無く」

「「「「〝はっ!〟」」」」




天文九年(1540年) 十月 尾張国愛知郡古渡城(おわりのくにあいちぐんふるわたりじょう) 当ノ間

滝川八郎資清(たきがわはちろうすけきよ)




「殿、三河守の就任、誠に御目出度う御座います」

「…うむ」

どうされたのだろうか?あまり嬉しそうには見えない。それどころか、気が進まないように見える。

「如何なさいましたか?」

「…今、三河守を拝命しても名乗る事は出来ぬ」

「何故にございましょう?」

名乗る事はできない?尾張守(おわりのかみ)ならば、斯波(しば)様がおられるから名乗れないのは分かるが、三河守ならば問題ないと思うが。


「今は今川を刺激する時ではない」

「…今川ならば今は東の北条を相手にしてる筈では?駿河の半国程も占領されてるとか。……三河に侵攻する余裕などないと思いますが」

「…うむ」

どうされたと言うのだ。そもそも北条と今川が手切れとなるように仕向けたのは殿であった。その事を忘れている筈もあるまいが。

「…近頃、今川と北条の間で戦がない様だが?」

「それは、北条の方で鶴岡八幡宮の落慶式があるとかで。いくら敵国と言えど、東国武士にとっては邪魔など出来るものではありませんからな」

「…うむ。…儂の杞憂(きゆう)であれば良いのだが」

 

…杞憂か…念のために調べておくとするか。






ブックマークよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ