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──悲しい夢をふたつ見て目を覚ました。
フレイレ公爵令嬢アマリア。
彼女は俺の宝石、俺の花、俺の太陽、俺の月、俺の光。
幼い日、王宮の中庭で引き合わされて、俺は一瞬で彼女に恋をした。
しかしすべては出会う前から決まっていた。
ふたつの公爵家は、王家が御者をするオリベイラ王国という車を牽く二頭の竜。
フレイレ公爵家の娘は王太子の妻に、モレーノ公爵家の息子である俺は王太子の親友に。陽だまりの仔猫のようにフワフワした金色の髪を揺らして微笑む彼女は、どんなに望んでも俺のものにはならない。
早くに母を亡くした俺を抱き締めてくれた優しい温もりも、親友になることを望まれながらも王太子に憎まれ口を叩き続けた俺に諫言してくれた澄んだ声も、いずれは王太子、未来の国王に独占されてしまう。
それを知っている王太子は、俺の気持ちに気づきながらも放置していた。アマリアに愛されている自分を見せつけていた。
彼女に愛されていることに自信を持つあまり、愚かにもほかの女との恋愛遊戯を楽しんでいた。
王国の貴族子女が通う学園に入学した王太子がアンビサオン伯爵家のヴィシア嬢と付き合い始めたときも、いつもの恋愛遊戯だと思った。
どんなに愚かな行為をしてもアマリアに愛されている自分を確認するため、絶対に叶わない想いに身を焦がす俺を嘲笑うためにやっているのだと思っていた。
だから、王太子がアマリアとの婚約を破棄してヴィシア嬢を王妃にしたときは驚いた。頭がおかしくなったのかと……いや、実際頭をおかしくされていたんだったな。
いいや、違う。あれは夢だ。
最後の瞬間までは幸せな夢だった。
王太子に婚約を破棄されたフレイレ公爵令嬢に新しい縁談は来なかった。どんなに父や重臣達に咎められても婚約者を決めていなかった俺以外には。
彼女が困ったような顔で頷いてくれるまでには数年かかったが、十年以上の片想いの日々に比べれば一瞬だった。
俺達はひとつになり、結果モレーノ公爵家とフレイレ公爵家も同じ方向を向くこととなった。ヴィシア嬢と結婚し、王として即位した王太子の言動が異常だったせいもある。
とはいえ、政治に関わるのは俺とアマリアの弟君の役目だった。モレーノ公爵夫人としては普通ではないことだったけれど、俺は彼女を国王夫婦とは会わせなかった。
俺に愛されて、アマリアはこれまで以上に美しく幸せになっていった。
自惚れではない。
彼女の弟君にも俺の弟達にも言われた。なかなか子どもはできなかったものの、それで彼女を責めるものはだれもいなかった。夫婦の仲が良過ぎても子どもが出来にくいというのはよく聞く話だったし、俺達はまさしくその例に当て嵌まっていた。
俺はアマリアと国王夫婦を合わせはしなかったが、彼女を閉じ込めていたわけではない。
国王夫婦さえ出席していなければ、彼女はモレーノ公爵夫人として社交の場へ赴いていた。親しい友達との私的なお茶会でない限り、俺も彼女に同行していた。
迎えと称してお茶会に顔を出して怒られたこともあるけれど、俺は彼女になら怒られても嬉しかった。
あのときは俺も一緒だった。
一緒だったのに、どうして彼女を助けられなかったのだろう。
……いや、落ち着け。あれは夢だ。すべてすべて、悲しいだけのただの夢だ。
アマリアの友達が開催した園遊会で、なぜかお忍びで来ていたヴィシア嬢、王妃が彼女を刺したのだ。
傷は深くなかったが、あの女が俺のアマリアを刺した短刀には毒が塗ってあった。さすが広大な薬草園で知られるアンビサオン伯爵家の令嬢といったところか。薬は使い方次第で毒にもなる。
崩れ落ちたアマリアを抱き上げたのは俺ではなかった。苦しそうな息の下、彼女は自分を抱き上げた相手に微笑んで、言った。
サロモン殿下──良かった。殿下に婚約を破棄されたのは悪い夢だったのですね。
悪い夢。
悪い夢。
悪い夢。
俺との結婚生活は、アマリアにとって悪い夢だったのだ。
足元の地面が無くなるような感覚だった。
そのまま彼女は逝き、抜け殻となった俺は弟に爵位を譲り……気が付くと、さっきのように自室のベッドの上で目覚めていた。その後、頭をすっきりさせるため、こうして屋敷の中庭で剣の素振りを始めたのも同じだ。
涙と汗が混ざり合い区別がつかなくなったとき、俺は決意した。
……アマリア、俺のアマリア。
彼女は俺の宝石、俺の花、俺の太陽、俺の月、俺の光。
アマリアの幸せのためなら、俺の気持ちなんかどうでもいい。
彼女が王太子以外愛せないというのなら、その願いを叶えてやろう。
俺はアンビサオン伯爵家の内情を探り、ヴィシア嬢を王太子の前から消す方法がないか調べた。濁った闇の底に潜んでいた魚は思っていた以上に大きかった。
アンビサオン伯爵家は薬草に隠して麻薬の原料となる植物を育てていたのだ。
毒を育てているのは以前から知っていた。アンビサオン伯爵家は我が家モレーノ公爵家の寄り子だったことがあり、当時は毒を使った汚い役目を任せていたのだ。王国を牽く竜の仕事は綺麗ごとだけでは済ませられない。
だからといって麻薬の栽培まで許したことはなかった。
父に確認すると、さらに噴飯ものの事実がわかった。
母の死は麻薬中毒によるものだったのだ。アンビサオン伯爵家から来た侍女が母の飲む水に麻薬を投入して、本人が気づかぬ間に中毒にしたのだ。
そのときはアンビサオン伯爵家の関与を証明できず、また過去のつながりのこともあって公表できなかった。モレーノ公爵家としては、アンビサオン伯爵家の寄り親をやめることしかできなかった。
モレーノ公爵家の後ろ盾を失ったアンビサオン伯爵家は一時的に力を失ったが、すぐに這い上がってきた。
裏社会とのつながりまではモレーノ公爵家には切れない。
金で買える地位と名誉もあるのだ。
学園入学を利用して王太子に近づいたヴィシア嬢は、淫欲と麻薬で王太子を支配した。
それでもさすがに王太子というべきか、即位した国王はアンビサオン家に操られた異常な言動の狭間で正気を取り戻し、オリベイラ王国の崩壊は防いでいた。
王妃の実家として陞爵し領地替えをし、アンビサオン家の牙を抜いていったのだ。……いや、これは終わった夢の話だったな。
二度目の夢でアンビサオン伯爵家の悪事を暴きヴィシア嬢を処刑台へ送り届けた俺は、薬草園の麻薬畑を焼き払った。
愚かな行動だった。
だがそのときの俺は狂っていたのだ。母の死に対する憎悪もあった。でもそれ以上に悲しかった。ヴィシア嬢がいなければ、婚約が破棄されなければ、アマリアは俺のものにならない。彼女を失う悲しみが、俺の中で荒れ狂っていた。
王太子と結婚し、やがて王妃となったアマリアは不幸せそうに見えた。
俺の願望かもしれない。
国王夫婦の間に子どもはできず、王は愛人を作った。アマリアは醜くはならなかった。傷つけられて流す涙に磨かれて、どんどん美しくなっていった。
モレーノ公爵家は弟に任せ、俺は宰相として国王を支えた。
玉座に座す男を見つめて、死ねばいい、と何度も思った。思った瞬間にいつも後悔した。
アマリアは国王を愛している。こんな男でもいなくなれば悲しむだろう。
彼女は流行り病で亡くなった。
俺が麻薬畑を焼き払わなければ助かっていたかもしれない。
麻薬を誤魔化すために植えられていた薬草が、その流行り病に効く薬効を持っていたのだ。王国中を探しまくって見つけたときは遅かった。効き目はあるが初期に投与しないと意味がなかったのだ。
「……」
夢だ、夢だ、全部夢だ。
素振り用の錆びた剣を庭の隅に投げ捨て、井戸で汲んだ水を頭からかぶる。
愛しても諦めても失うのなら、どちらでも同じことだ。
アマリア、俺のアマリア。
彼女は俺の宝石、俺の花、俺の太陽、俺の月、俺の光。
愛されなくてもかまわない。
この国がどうなろうと知ったことか。
俺は彼女を手に入れる。今度こそだれにも渡さない。王太子にも死神にも。