10年前
ラース……ラーシフェル、そしてミカエラは天上人。
人間とは似て非なる生き物であり、それを人は、神と呼ぶこともあれば、天使と呼ぶこともある。
信仰の対象とすることは、彼等の自由……だが天上人には天上人の理があり、祈ったところでそれが届いたりはしない。
美しく、高潔で、正しい──それはある意味で彼等の真実である。自然の力を借り、生まれ、生きる天上人に性はなく、彼等が尊ぶのは自然そのもの。
人間は彼等、天上人にとっては『天上人のなり損ね』であり、他のどんな生き物よりも醜く、穢らわしい存在とされていた。
ゆえに、他の生き物や自然の為に、人間を粛清することもある。
ミカエラがここに来たのも、あくまで星が美しく輝くこの地の為だった。──よもやその地が、10年前の因縁の空の下だとは、思いもよらなかったが。
ミカエラは天上人の中でも特に人間を厭わしく思っていたが……それが殊更に酷くなったのは、他でも無い、ラースに原因があった。
「また下界を眺めてらっしゃるのですか? ラーシフェル様」
ラースは美しい天上人の中でも取り分け見目麗しく優秀だが、同時に変わり者でもあった。
彼は、穢らわしいはずの人間の感情や行動に興味を持ち、下界が映る水瓶から、よくそれを眺めていた。
ラースへ敬愛に似た感情を抱いていたミカエラは、それが解せず、むしろ不快ですらあった。
「ミカエラ……人というものは、君が思っているほど単純な生き物ではない。 感じぬか? 仄暗い中に揺らぐ炎の様な、不思議な魅力を」
「私にはわかりません。 濁り、ねばついた泥の様な、穢らわしさしか」
そう断じるミカエラに、ラースの瞳こそ揺れる炎が如く、哀しげに揺蕩う。
その儚さにミカエラの胸はざわめき、無性に苛立った。
天上人は人間に比べて感情や思想にさして差がないとはいえ、全く同じではない。
ミカエラは他の者よりも強く、下賤な人間共を忌んでいたが、ラースが興味を抱くことでそれはより顕著になっていった。
決定的な出来事は10年前に起きた。
「──下界へ降ったと……そう申したか?!」
「は!」
故無く下界へと降ること──
それは天上人にとって、赦されざる禁忌。
ミカエラは自ら申し出て、他数名とラースの討伐に向かった。
激しい攻防の末、ラースはその背に深傷を負い……文字通り、堕ちた。
その際の決戦の場が、この地の遥か上空であった。
「……追わなくても? ミカエラ様」
「──……よい。どのみちあの傷では、どうにもなるまい」
だが、もしも生きていたなら──
下界に……人間に絶望し、戻ってくるならば。
その時は、力になろう。
この、私が。
★★★★★
国とは言えぬ程に小さなこの国でも、未来の王妃となる重圧は、まだ6歳のヘザリントン公爵家令嬢シャーロットに、並々ならぬ負担を強いていた。
唯一の自由な時間は、乗馬の練習を兼ねた自領の森への散歩のみ。
当然、周囲には従者や警備の兵はいるものの……心地好い森の空気と周りとの適度な距離は、小さなシャーロットの気持ちを落ち着かせ僅かでも癒やしてくれる、大切な時間。
「──あら」
シャーロットはそれを見付け、馬を止めた。
深く傷付いた、漆黒の羽根を持つ大きな鳥。
「お嬢様、いけません。 野生の鳥はどんな穢れを持っているか」
「……でも、怪我しているわ」
ヘザリントン公爵家……『公爵』という地位などは名ばかり。他国に準じた形で与えられた名称に過ぎず、実のところこの国では他の特権階級と特別な差などはないに等しい。
あくまで、優秀なかつての祖先の名残。
シャーロットの、世に美しいと謳われる母から受け継いだ容姿も、そこまで突出した魅力ではない。
その上、婚約者の優秀な王子アルヴェロは真に美しく……また、白金で碧眼。凡庸な茶色の髪に鳶色の瞳のシャーロットは、彼の隣に並ぶにはどうしても見劣りした。
血と泥で汚れた、黒くみすぼらしい鳥──
……これがもし鷹ならば、或いは美しい鳥ならば、助けたと言うのだろうか?
シャーロットは傷に苦しむ鳥に、自分を見た気がして、上着を脱いで包み、そっと抱き上げた。
「素手では触らないわ、これならばいいでしょう。 ……帰ります。 そこの貴方、それを私に頂けますか」
従者の一人が持つ、比較的荷の少なそうな肩掛けのサブザックを貰い受けると、中身を出して首に掛け、紐を短くし……そこに上着ごと鳥を慎重に入れる。
なるべく揺れない程度の速度で馬を走らせながら、シャーロットは語り掛けた。
「ごめんなさいね、少しの間辛抱してね」
「……」
僅かに開いた、紅い瞳。
そこに微かに映る少女の姿を、ラースは一時も忘れたことがない。
柔らかな茶色の前髪が、風に揺れていた。
公爵邸に戻ってからも、シャーロットは獣医の指示に従い、献身的に介抱を行った。
口さがない者のこれ見よがしな陰口も、気にすることなく。
いつしか鳥は消えていた。
窓の縁にひとつ、バニラのような香りのする、薄紫の花を残して。