地下牢②
「彼女を放せ」
唐突に後ろから声が掛かり、私の身体にも男達の動揺が伝わる。
真っ黒な燕尾服──
整った面立ちに、漆黒の髪と、紅い瞳。
その出で立ちからして舞踏会の参加者かと思ったが、一度も見たことのない顔。誰が見ても印象的で美しい男性だ。一度でも見ていたら、忘れる訳がない。
絶対に会ったことも見たこともない……だけど何故か。その深紅の瞳にだけは……懐かしさにも似た、既視感。
彼を貴族と見て動揺した男達など、まるで存在しないかのように、瞳を私だけに向けたままツカツカと歩み寄る。
華奢に感じるほどにスラリとした身体からは、その体躯に似つかわしくない程の圧が感じられたが……
それは、勘違いなどではなかった。
「放せ、と言った」
それは、ほんの数秒。
彼の左腕に奪われた私の身体が感じたのは、彼の腕と胸と肩。そして空を裂くような風と、生温かい……血の飛沫。
抱かれた頭越しに……男がゆっくり倒れてゆくのが見える。
今にももげそうな首。
──下顎から一部が、吹き飛んだように欠損している。
悪夢の様な現実を救うのもまた悪夢の様な出来事だった。なのにどうしてか……私を抱く彼の腕が、酷く優しく感じられる。
「……ひぃぃッ!」
もう一人の男も現実感がなかったのか、遅れ気味に悲鳴を発して腰を抜かした。私の位置からは見えないが、床を這いずる音でそれがわかる──まるであの時の、私。
「……殺して」
私の呪いが通じたのなら。
それで貴方が来てくれたのなら。
耳元で発した私の言葉に、彼は私の傷を労る様にそっと身体を離し、再び目線を合わせた。
「アイツも殺して!」
許さない。
「殿下……アルヴェロも! あの女も……皆殺して!! 皆よ!! 皆みんな……」
絶対に、許さない。
「……私の花嫁になってくれるなら」
「いいわ」
彼が何者であるかなど、問題ではない。
条件も、また。
ふたつ返事で私は了承した。
だが彼は男に見向きもせず、私に口付ける。
「ンンッ……!」
深く……深く口付けされる度、沸き上がるなにか。
霞んでいた視界は晴れ、彼の長い睫毛一本一本が見える。
水分の足らない植物が、勢いよく水を吸うよう。全身に血が巡るのを感じ、私は彼の口付けをねだるように求めていた。
首筋に回す……私の腕。
腕。
肘の先に甦る感覚。
──それは膝の先にも。
熱い。
全身が、熱い。
だがそれは傷の痛みとは違う。
怒りや悲しみを一纏めにして固めたモノが、炎となって私の中で燃え広がっていく……静かに、激しく。
はあ、と一息吐く。
そんな私を見つめ、彼は満足そうに唾液に光る唇を舐めた。
「私の貴女。 …………さあ、思うままに」
ふふ、と笑い声が意識なく漏れる。
『殺して』?
──違うわ。
ええ、そうね。そうじゃない。
私の本当の望みを、彼はわかっていた。
──ペタリ。
いつの間にか生え揃った両足の裏に、ひんやりと床の感触。
閉じ込められていたのは地下牢の一番下だと初めて理解した。
みっともなく失禁しながらも這いつくばって、男は出口となる階段迄辿り着いている。
手に力を込めると青い炎が上がり、巨大な猛獣の爪のようになった。──膝から下目掛けてそれを振るい、自由を奪う。
まるで先程までの私の様に蠢くも、私とは違い、ぎゃあきゃあと泣き叫んで命乞いをした。無論、聞く気などない。
「殺してやる、と言ったでしょう?」
炎は形を変えて、槍のような物へ。
足の傷をいたぶってから殺そうと思っていたけれど、なんだかどうでもよくなってしまい……そのまま燃やす。
男は悲鳴を上げる間もなく灰になった。
躊躇いや、罪悪感などない。
それでももっと……例えば愉悦だとか、他になにかしら感じるかと思っていたが……
なにも、感じなかった。
(初めて人を殺したのに)
やはり私はなにか別のものになったようだ。──あるいは両親を殺された瞬間から心を失ったのだろうか?
(どちらでも、構わないわ)
ヤツ等を、城を、消す。
この手で。
炎の刃を出した右の掌を見つめると、ふわりと大きな掌が重なる。
私に力をくれた彼は、柔らかな笑顔を向けながら跪き、手の甲に唇を落とした。
瞬間、囚人服が漆黒のドレスへと変化を遂げる。
彼の深紅に映る、私の姿──
茶色の髪は、彼と同じ漆黒に。
鳶色の瞳は、彼と同じ深紅に。
そして……
見事なレースで装飾されたこのドレスは、ウェディングドレス。
「……残念だ」
「え?」
「綺麗な色だったのに」
手を取ったまま立ち上がると、彼は逆の掌を私の顔へと運ぶ。
眼の横から頬へと長い指を惜しむように沿わせ、髪を一房摘まんでそれに口付けた。それは愛しそうに。
コンプレックスですらあった、特別でもない元の私の色。……自然と笑みが溢れた。
──ああ、私、まだ……また、笑えるなんて。
聞きたいことは、無いでもない。
彼は何者?
かつてのわたしを知っているの?
だがそんなのは、些細な問題だ。
「いいわ、貴方の色だもの。 ……今の私は嫌い?」
そう尋ねると彼は眩しそうに目を細め、首を横に振る。
もうひとつだけ、尋ねた。
──彼の名前。
「ラーシフェル……ラースと。 シャーロット、私の愛しい妻。 貴女はいつだって美しい」
砂糖菓子の様に甘い言葉を添え、ラースはそう答える。
彼の妻となった私は手を引かれるままに、共に王城へと歩き出した。
私達の宴の為に。