魔人と魔王
【魔人】が迫る。
磔にしたアルムを見捨て、最早異形の怪物【魔人】と呼べるものと成り果てたミリアマリン。それはゆっくりと、明確な攻撃性を剥き出しにしていた。
傷を庇い体をくの字に曲げ、その様を彼は見ていた。一部始終。ただ見ていた。アルムの磔を。
彼は、手を出せなかった。再三【魔人】の魔法光を退けたオイルライターなら、まだスペアが手元にあった。これならアルムの体を串刺しにした怪物の髪の毛を焼き払うこともできただろう。
ここに来た、今までの彼ならば、できたことだ。しかし彼はできなかった。
自らの不始末と最初に彼は言った。【魔人】をなんとしてでも仕留めてみせると意気込んでここまで来たのだ。
だがここにきて、彼はーーーー萎えていた。
この怪物を倒す意味と、アルムを助ける資格が自分にあるのか、わからなくなっていた。
ここからあの怪物の体をバラバラにして剣を取り出してとどめを刺す? ありえない。意味がない。できるはずがない。そんな希望はない。
この怪物に帝国を明け渡し、この魔法樹の海に飲み込まれてしまったほうが、まだこの国は続いていってくれるのではないか? ……なんて、考えてしまっていた。
そんなことを考える男には、アルムを救うことなど選べるはずもない。ただヒトらしく、自分らしく、希望と生きる活力に満ち満ちた生者の選択が、できるわけがないのだ。
ーーーーかつて。
彼は仲間とともに、かの地にて預言を受けた。
「滅びの時が来る」と。「世界を滅ぼす魔王が現れ、この千年帝国の未来を燃やし尽くすだろう」というものだ。
ひとりは言った。「魔王より俺が強くなればいい」。彼は天に登った。
ひとりは言った。「俺がヒトに害をなす魔獣を従えよう」。彼は地を駆けた。
ひとりは言った。「私が魔王に負けない強い帝国に育てよう」。彼女は宮に篭った。
ひとりは言った。「それなら私がヒトを支えよう」彼女は辺境に身を消した。
ーーーーそして、俺は言った。「魔王に打ち勝つ法則を見つけ出そう」
彼は仲間と離れた。たったひとりで旅を続けた。帝国を離れ、海原を越え、山を抜け、異国を見て回った。
滅亡を迎えたいくつもの歴史を省みては、その結末を「再現」する。
ある異国は病に倒れた。ある異国は革命に呑まれた。ある異国は敵国の侵略に殺された。ある異国では王族が内乱で死に絶えた。ある異国は暴君が勝手に滅ぼした。
ーーーーいずれの異国にも「魔王」の影はなかった。
数えきれない国々の滅亡の中に、帝国を救う糸口はなかった。
何度目かの「再現」のうちに、彼は諦めを知った。
他の誰かの計画に任せた。彼はいつしか国の滅亡を書き記す機械に変わっていた。
機械には血は通わない。既に血は枯れ、肉は腐り果てていた。
空になった毛細血管の中に、やがて、なにか別のものが棲み着いた。
別のものの操縦に任せて彼は動く。怨嗟と哀悼の炎を喰らい、国の滅亡を吸い込みーーーーいつしか、最も滅びから遠ざけたい帝国に戻ってきていた。身体中に浸食した抑えきれない「滅びの炎」とともに。
ーーーー「魔王」など、はじめからいなかったのだ。
この俺が探し求めた姿形は、この世界のどこにもいなかった。
なぜなら、この俺が、滅びをもたらす「魔王」なのだ。
誰でもいい。誰か俺を止めてくれ。そう願ってやまない。
その願いはやがて、そこかしこに影法師を焼き付ける。それらは手足を生やして動き回り、勝手気ままに「魔王」の危機を喧伝する。広告する。頭の悪い落書きを触れ回る。
影法師が建物の隙間から現れて、夢見枕に姿を現し、ひどいときは神様じみた態度で善良なヒトに憑依した。そうして警告するのだ。学び蓄えた千差万別の終わり方を。
「信用するな」「隣人を疑え」「友人を疑え」「旅人を疑え」「市政を疑え」「食べ物を疑え」「悪魔がいるぞ」「魔獣の大群の前触れだ」「疫病が来るぞ」「本当にそれはお前の子供か?」「このまま眠って無事にこの夜を越せると思っているのか?」「信用するな、お前自身さえも」
『疑え、疑え、疑え、疑え! 滅びが来るぞ、魔王が来るぞ!』『お前の全部をはぎ取っちまうくらいの無数の魔の手を持ってくるぞ!』『無貌の魔王はお前をつるりと飲み込んじまうんだ!』
ーーーーバカな話だと、彼はどこかで諦めていた。
その滅びは誰が呼ぶ? この俺だ。こんなの警告じゃない。ただの『呼び火』だ。これこそ滅びを引き連れる笛の音に過ぎない。
ヒトの中に産まれた不安や悪心が絡み合い、やがて大きなエネルギーとなってーーーー滅びたくないと訴え願って作り上げた大きな力が、抗いようのない人工の「機械仕掛けの神」を作るのだ。
さあそして現在はここに。ーーーーこの帝国に降りた【魔人】は、今この目の前に。
来る。正当な怒りを元凶に向けてくる。殺したいのだろう。そして殺すのだろう。
ーーーーどうやって? あの爪で引き裂くのか? それとも炎で焼き殺すのか? 雷で感電死? ……ああ、でも、なんでもいいか。殺して、止めてくれるのならば、なんだって。
ーーーーやっと。この俺の、たったひとつの望みが叶う。
顔がほころぶ。魔王の旅は終わり、その果てに生み出した【魔人】は、彼が最も守りたかった帝国を、蹂躙し尽くして地ならしし、最強の女王ひとりの庭園に作り替えるのだろう。
かつての彼と仲間たちが守りたがったヒトのための帝国は潰え、新たな一人の王を囲うためだけの墓標が残るのだろう。
それでも良い。既に希望はない。それなら真の「滅亡の魔王」を殺し、これ以上の邪悪を生み出さないように。それが彼の最後の願いだ。
ーーーーだが、彼は考えていない。真の「滅亡の魔王」を殺したモノが、はたしてただ【魔人】のままで終わるだろうか?
彼はこうべを垂れ、首を差し出す。隙だらけの彼に【魔人】は躊躇しない。
ーーーーふいに、耳障りな雑音がガサガサと爪を立てる。
気のせいか。聞き間違いか。幻聴か。聞こえた言葉は「私が希望になる」という一節。
彼はそれが、自分がアルムに望んだものだと理解した。アルムに頼み、押し付け、それなのに今では見ないフリをした、彼自身の望み。
ーーーーそれは、単なる幻であったかもしれないが。
彼に再び、たった一瞬、その手に種火を握らせるには十分だった。
【魔人】の爪先。発光し、鋭利になり、今まさに脳髄をえぐり出そうと突き立てられたそれを紙一重で避け、彼はその胸倉に掌底を打ち込んだ。
震える衝撃。骨身の痺れとともに熱は拡散する。彼は自虐じみた薄笑いを浮かべる。
「どうした? 化け物の先輩。いまさらはしゃいでどうするつもりだ? まだ生にしがみつきたいか? 生き恥を晒し続けたいと?」
【魔人】さえも首をかしげる。【魔王】である彼は答えない。打ち込んだ手は重力に従って、掴んだはずのかがり火のきらめきごと失墜した。
ーーーー今更、変わるわけがない。
希望を守る勇者の真似事をしたところで。一体、一体、一体、一体。今更何が変わってくれる? この積み上げた黒泥の余罪が蒸散し、輝ける明日が掴み取れるとでも?
馬鹿馬鹿しい。そんなことが、今更許されるはずもない。
勇気を振るい、希望を謳い、光を切り拓く。そんなものはおとぎ話のなかにしかいない。この理不尽極まる世界にそんなモノが残っているとすれば、それは余程の世間知らずに違いない。
忘れられた伝説を携え、見えるはずのない幻を想い、まばゆいばかりの理想を抱き、夢と希望の剣を掲げる。
ーーーーそうだ。だからこそ。
彼女の金色の剣を腰に差したあの佇まいは、この俺に、失われた遠い日の夢を思い出させた。
「アルム!!」
腐り切った筈の魂に火が灯る。かがり火は熱量を上げ、その身にまとわりつく邪悪なるものを燃やし尽くすように。
人生最期の熱を、握り込んだ。




