オレより別の話をしよう
真っ暗な世界。
音を吸い込む黒い空間。
乱れた自身の心音さえ鼓膜に響かない凪いだ世界。
空に這わせた指先はなにも捉えられず、足元は奇妙なほど凹凸にできている。
自分を支える確かさがない。自分を縁取ることができない。
意識が迅る。襲い来るものがいる現実は明確だった。暗闇の主。怪物。
しかし気配はしない。殺気などするはずもない。
目に見えない緊張感が全身を突き刺す。その内側からの危機感だけが自分の実像を結んでいる。
自分の胸を押さえ、奥歯を噛み締め、脂汗を垂らす。指先の震えが止まらない。
この震え。この鼓動は確かにある。
ーーーー熱量は未だ衰えず、この手の中に。
ふいに、目を見開く。
閃光が体を貫く。感覚。圧迫感。暗闇が覆い潰さんとする。
迫ってくる。逃げなくては。どこに? どうやって?
できない。できるはずがない。自分の足一本踏み出すことさえ億劫なこの空間に絡め取られたままで。
迫ってくる。闇の濃度がより高くなる。
空気に鉛が溶け込んでいる。それを吸った肺を少しずつ重くしていく。
それは血管を伝い、細胞の隅々にまで入り込む。体が鈍る。体が鉛に犯される。
圧迫感は加速する。にじり寄る。
正確に精密に確実に明瞭に、あの魔獣は首を狙い、鋭い鎌刃を闇の色に溶かしている。
迫ってくる。逃げ場はない。立ち向かうしかない。
しかし丸腰ではとても切り抜けられない。武器はない。
迫ってくる。
逃げられない。勝てない。打つ手がない。それが現実。
ーーーーいいや。それでも。
この鼓動は活きている。熱量はこの手の中に。意思を羽金に。現実を断ち切る刃を。
圧迫感が来る。
鉄塊同然の大戦斧が暗闇ごと抉り取らんと襲いかかる。
直感に従い、我武者羅にジャンプした。足元で暗闇が弾ける。火花が散り、一瞬だけ戦斧を叩きつけた豪腕が網膜を灼いた。
ーーーーきている。すぐそこに。
天井も着地点もデタラメに飛び上がったせいでそこら中にめちゃくちゃになってぶつかった。受け身さえ取れずにゴロゴロと転がっている。
あの斧から遠のいているのか。近づいてしまったのか。理解できない。
自分は立っているのか。膝をついているのか。手はあるか。足はあるか。それさえ理解できない。
ーーーーただ、熱量はある。
空間を埋め尽くす黒が泥のように重くなる。圧迫感が肺を潰す。あの大戦斧が来るのだ。
ーーーーある。
それは稲妻のような感覚の閃き。この黒い世界にいすぎたために死んでしまった五感が、生き残りを賭けた共振だった。
本能に従って手を伸ばす。
そこに「何かはある」。理解する。
そして【ソレ】がなんであるのか、理解できず、実感もなくーーーーなのに不思議と、確信を持つ。
ーーーーもう虐殺的な質量の暴力が目前に迫っている。
【ソレ】を手に取る。
「柄」を握り、「鞘」を腰だめに置き。
今まさに掴んだばかりの【ソレ】をーーーー「剣」を、横一文字に閃いた。
白刃の輝きが暗闇を斬りはらう。
暗闇の奥。赤い双眸で斬り裂いた大戦斧を睨む。
そしてーーーー。
「オレ」は「剣」になっていることに気がついた。