平均台の上で片足バランス
昼下がりの日曜日。一ヶ月前に初めてオサムさんの家に忍び込んだ時以来、すっかりそれは習慣となった。
怒りや悲しみで酷く醜い表情をしているであろう私を見てはオサムさんは無表情でゆっくりしてけ、と言ってくれるのだ。
最初はオサムさんがいない時に入るのは気が引けていたがいつの間にか気を使わなくなっていた。
「……オサムさん」
「おー、なんだ。AV一緒に見るか?」
「ノーパソぶっ壊しますよ」
「冗談だ。んで?どうした、そんな神妙そうな顔して」
失礼極まりないことを思わせてもらうが、この人は学がなさそうだ。ダルダルの黒いスウェットにいつも生やしている無精髭。適当な言葉使いに常識知らずとも言える下ネタのオンパレード。
なのに時々、今みたいに「神妙」だとか似合わない言葉を使ってくる。それがどうにも違和感を感じさせた。
だがしかし、今そんなことはどうでもいいのだと頭を切り替えて質問を口にする
「なんで人を殺しちゃいけないんですかね」
「あー?ンなこと学校の先生サマにでも聞いとけ。俺だって分かんねーよ」
その時彼は珍しく顔をくしゃりと歪ませた。ここではないどこかを見据えているような瞳を見て緊張する。
「俺だって許されるんなら殺してる奴がいる」
その脳裏にいるのは私と同じように親なのだろうか。願わくばそうであって欲しいと望んでしまう。
この人とはどこまでも似たような存在でいたい。こんなに居心地のよい居場所を手放したくなどないのだ。
「なァおい、真琴。そういえばお前、毎週の日曜ごとにここに来てるけどよ。いいのか?今どきのじぇーけーってのはオトモダチと原宿とかに行くんじゃねぇのか?」
「そうすることもありますけど、それはちょっと疲れます」
山手線原宿駅を出て目の前にある竹下通り。人々がまるで砂糖に群がる蟻の如く犇めくその中へ友人達は嬉々として吸い込まれていく。
でも私はどうにも人混みが苦手でしょうがなかった。なぜ、あんな他人と肌が触れ合うような距離まで近づけるのだろう。何をされるか分からないのに。それ以前に他人が嫌いだというのも原因だろうが。
「オサムさん、JKの発音がおじさんっぽいですよ」
「しょうがねぇだろ。幾つだと思ってんだ」
「……32とか?」
「惜しい。36だ」
「うわ、正真正銘のおじさんですね」
「そのおじさんとこに毎週通いつめてるのは何処の誰ですかねえ」
「変な言い方しないでくださいよ」
「時にはひぃひぃ泣き声まで漏らしてよ」
「帰りますさようなら」
明らかに下ネタ的含みを持たせた物言いに呆れて何も言い返す気がしない。ソファーに横向きになって体育座りをしていたがそれを崩して、立ち上がろうとした。
「ちょ、待てよ」
うまい棒を齧っていた彼が私の肩を少し強めに押した。あ、この人の手ってそういえば大きかったんだと場違いに思い出す。
足がソファーの外に投げ出されたまま、何の抵抗もしてなかった私は横たわる形となる。
無表情なオサムさんが顔の横に手をついた。息を詰めなければ何かが漏れてしまいそうで、必死に浅い呼吸を繰り返した。
「あ、うまい棒のカスが」
鎖骨の窪みの部分に指が這わされた。それが妙に擽ったくて、でもそれを気取られてはいけないような気がしてポーカーフェイスを保つ。
私の肌の上に乗っていたカスを取ってそのまま指ごと口の中に含む仕草が妙に色っぽい。
「……なあ、真琴ちゃんよ」
いつもより低い、吐息混じりの声だった。それが耳朶を犯して脳を痺れさせる。
わざとやっているということは、その意地悪く吊り上げられた口角を見れば分かることだった。なのに私の身体は動こうとしない。僅かにでも動いたら、オサムさんと触れ合ってしまいそうで身動きが取れないのだ。
「続き、するか」
喉が引き攣って声が出せなかった。熱に浮かされた時のような瞳をしたオサムさんから目が離せない。ドクドクと高鳴る鼓動が煩かった。ああ、このままでは血液が血管に入り切らなくて死んでしまう。
あの大きな手が服の裾に入り込んできた。そしてその手が背中に回ってブラジャーのフックに当てられて……
ピンポーン
オサムさんが盛大に舌打ちを打った。服の中に入り込んでいた手がするすると抜けていく。
すまんな、と彼は言って私の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。なんだか無理に子供扱いをしているような不自然さを感じたのはさすがに自意識過剰だろうか。
インターホンが再び呼び出し音を急かすように鳴らしてくる。私は安堵しながら、少し残念に思う自分のことは無視をした。