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差のある不幸達へ  作者: ライム
1章目 -隣人-
6/7

碌でもない彼らは

ベランダに出た私は肺いっぱいに夏の暑苦しさを微かに匂わせる空気を吸い込んだ。それを吐き出して目を瞑った。

目の奥の奥の、脳みそに繋がっていそうなところが熱かった。その熱を逃がさんとばかりに涙が滲むのが分かる。


「おーおー泣いちまえよ」


低い、やる気のなさそうな声。久しぶりに聞いた彼の声にハッと目を開く。

その途端に抑えていた涙が零れてしまった。

まだ一言二言しか話していないような他人の前で泣いてしまったことが恥ずかしくて頬が熱を持ったのが感じられる。急いで袖を伸ばしてやや乱暴に目元を擦った。


「すまんなあ。急に甲高い、いかにもヒステリックですよーみたいな声が聞こえてきたから耳すましてたんだよ。そしたら網戸開ける音するし」

「……からかうために出てきたんですか」

「いーや?」

「じゃあ、どうして」


出てきたんですか、という問に対してオサムさんは無造作に生えた顎鬚を擦りながらうーん、と唸った。


「理由は特にない。なんとなく、だよ。そもそも人間の行動に一々意味を求めるなんて馬鹿げてると思うがねえ」

「そうですか。それでは私は部屋に戻ります」

「あの女の匂いがまだ色濃く残る部屋へか?」


まるで私の部屋に入ってきたかのような発言に目を見開いた。オサムさんは右側の口角だけを吊り上げる不器用な笑顔を浮かべながら続ける。


「分かるぜ、その気分。最悪だよな。なんのための個室なんだって思う。勝手に入りやがって他人風情が……って感じだろ?」

「……はい」

「ちょうどいいからよ、オレの部屋来いよ」


その突拍子もない提案に再び目を丸くするはめとなった


「おっと、何もお前を襲っちまおうだとかそういう気は一切ねえよ。そんなに飢えちゃいねえしな。余計なこと言うといーい感じのAVが手に入ったばっかなんだ」

「本当に余計なことを……」


高校生。しかも女相手にこの下ネタ三昧だ。褒められた行為でないことは誰の目にも明らかだ。

それでも私は思わず笑ってしまった。ほの暗い、太陽と言うよりかは真夜中に頼りなく光っている街頭のような危うい明るさを持ったこの人のことが、やっぱり非常に気に入っていたのだ。


「本当に遠慮なく行きますよ?」

「来い来い。あ、でもスマホと鍵は持ってこいよー。あのおばさんが鍵でもかけたら面倒だからな」


言われた通りに制服のポケットに鍵とスマホを突っ込んだ。それらが落ちないように手で軽く抑えながら柵に足をかけて隣へ移動する。


「ようこそ。大豪邸へ」

「私の部屋と同じ間取りでしょう」

「それを言ったら風情がないだろ。大事なのは気分だよ」


靴下の裏についた砂を軽く払って中へ入らせてもらった。

その部屋は私の部屋と同じ広さであるはずなのに、酷く狭く感じた。理由は明らかで、ドア以外の壁一面に天井まであるような本棚にぎっしりと詰まっている本だ。

ざっと見たところメインは小説で次に心理系の新書、ソクラテスや荘子など思想家の言葉を纏めたもので埋められている。


「なーに突っ立ってんだ。おら、リビング行け」


そう急かされて少し慌てて部屋を出た。

しかしさっきの光景が頭から離れない。あの部屋にある本を二週間かけてじっくりと吸収したいと考えていた。


「ソファーでも椅子でもいいから自由に座ってくれ。あ、ジュースでいいよな?コーヒーとか飲めなくてな」

「お気遣いなく。それよりも、なんで私をここに入れたのです?」

「お前のことが気に入ったからだよ」


ソファーに沈めていた体を起こしてオサムさんを見つめる。


「まあ、お前にとっちゃ不愉快かもしれんが俺とお前は似てるぞ。だからなあ、その苛立ちも怒りも悲しみも分かる」


憎しみもだ、とその唇が動いた。金縛りにあった時かのように身体が動かない


「もう涙は引っ込んだだろうがその心内に残ってる棘はどうする。下手すると俺みたいに抜けないでデカくなるぞ」


そんなことを生気の宿らない、昏い闇を溜め込んだ瞳で告げる。その目の中に居る私は微動だにせずに棒立ちだ



「それでも、逃げられないじゃないですか。相手は親なんだから」


引っ込んだはずの涙がまた自己主張をしてきた。この人の前でなら泣いていいと、悔しいけれど認識してしまったのだ。


「高校生だからバイトするにも時給安いし、だからと言って身体売る勇気はないし。あたしはどう足掻いても経済的に親に頼らなくちゃならない」

「おう」

「年取りたい。せめて、成人したい。あんな親なんて名前の糞共なんて死ねばいい!」


歯を食いしばって漏れそうになる嗚咽を必死に堪える。涙は止められないが、私のなけなしの

矜持がそうさせた。

ふわり、と頭に手が乗せられる。ああ、大きくて骨ばってているのにこの人の手はあったかくないや。


その熱を感じさせない掌に私は心の底から安堵してしまった。押し付けがましくない体温が心地よい。


「下手くそな泣き方。深呼吸繰り返して、嗚咽漏れないようにして顔も歪ませないでただただ無表情で涙だけ流す。やめとけ。俺みたいになるぞ」


ゆっくり、ゆっくり、頭を撫でられる。息を詰めたような声音で彼は言う。


「俺みたいな、大人になっても大人が嫌いだって言うような奴になるぞ」

「……それでも、あいつらみたいになるよりはいい。あんなのになるよりは、オサムさんみたいになった方がいい」


その時、彼は笑ったのだ。眉根を寄せて苦しそうに、それでも抑えきれなかった微笑みが前に出てきてしまったかのような。そんな笑顔だ。


「やっぱりお前ならそう言うよなあ……」


その言葉がどうしょうもなく嬉しいのだ。彼が私を認めてくれたんじゃないかと、希望を持ってしまう。

手が離れた。撫でられた感触だけが残って、なんだか名残惜しいような気分になる。


「まあ、好きなだけここにいろ。でもあのオバサンにバレないようにな?バレたら俺が社会的に無事死亡だ」

「仕事の邪魔に、なりませんか」


今日は何の変哲もない平日だ。なのに彼はこうしてダルダルのスウェットで部屋にいる。

家で出来る仕事なんじゃないかと私は目星をつけていた。それを伝えると彼は無言で首を横に振ったのだ。


「とりあえず仕事はひと段落ついたとこなんだよ。しばらくは暇なんだ」

「……では、遠慮なく」


再びソファーに身を任せる。さすがに横になるのは気が引けてやらなかったが、それでも十分にリラックスできた。

ああ、自分の家よりも落ち着くとはどういうことだろう。残念なのは染み付いた煙草の匂いだけだ。


その後はぼそり、ぼそりと普通の世間話みたいな会話を交わすだけで終わった。

日が完全に落ちて夜ご飯を食べるような時間になった時に隣の、つまり私の住んでいる部屋でドアをがちゃりと開ける音、そして幾分か気落ちしたような声音の義母の「ただいま」という声が聞こえて慌ててオサムさんの部屋を抜けたのだ。


柵越しに彼は私に手を伸ばし、また頭を撫でて言う。


「またなんかあったら来いや。ここの鍵は開けておくからよ」


その言葉を噛み締めながら頷いた。そしてお互いに自分の部屋に戻った。


ああ、私を夜ご飯に呼ぶあの女の声がする。いつもは不愉快なそれも、今はなんだか許せるような気がした。

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