貉がなく
男が引っ越してきてから1週間。相も変わらず私は同じような日々を過ごしていた。
実はと言うと、少しだけ期待していたのだ。常識外れの隣人が何か、私の世界を変えてくれるのではないかと。
しかしそんなことはなかった。寧ろ、あの挨拶の日以来は見かけてすらもいない。義母も「ちゃんと働いてる人なのかしら」と訝しげに言っていた。
夕焼けがやけに眩しくて目を細めた。誰だったか、夕焼けを「空が血を流している。全身を使って叫んでいる」と描写した作家がいたことを思い出した。でも誰だっただろうか。
家に帰ったら心当たりのある本を捲ってみよう、と思いながらパチンコ屋に沿っている細道に入った。ここならば太陽は見えない。
私はすぐさまにこの選択を後悔することになる。
「あ、うぃっす」
大きなビニール袋を持ったあの隣人が出てきた。確かに私はこの人に少しの期待をしていたが、少なくともこんな場所で起きることではない。何よりも、ジャージなのが難点だ。
「こんにちは」
「あの、一つ聞いていいか?」
すぐさまにそう言われたので面食らいながらも何ですか、と返す。
「敬語とタメ口、どっちがいい」
「え?」
「俺、常識知らずだからこういうの知らないんだよ」
「タメ口で、いいですよ。ていうか、今タメ口じゃないですか」
「分かった。そうなるとこっちも気が楽だ」
少しだけ、ほんの少しだけ。自分のことを堂々と「常識知らず」と言えるこの人が好ましく思えた。
「あ、あと、俺の名前は渡良川 京。おさむは京都の京の字な。お前の母親にそれとなく伝えてくれ。なんか怪しまれてるみたいだから。ついでに素晴らしい人だ、みたいなことも」
「……母親じゃ、ないです」
あの人はとてもいい人だ。嫌うところは何も無い。それでも、母親と認めるのは絶対に嫌だった。
父親の中から私の母の存在を薄めているあの人は憎い。あの人がどんな人格を持っていたとしても、それだけで厭う理由になりうる。
「あーー、すまんかった。これやるから機嫌直せ」
男は事情を察したのか、部が悪そうに頬を掻いた。そしてビニール袋の中から棒状の揚げた菓子を出す。どう見てもパチンコの景品だ。
「いいですよ。……それと、もし私も渡良川さんのこと怪しんでたらどうするんです。義母に悪い風にいうかも知れませんよ」
「え、アンタはそういう人間じゃねえだろ?」
思わず渡良川さんを見上げた。なんでそんなことが言いきれるのだろうと考える。
「やる気がない、面倒事が嫌い、って目してるぜ」
彼は悪戯っ子のように右の口角を上げて笑った。しかし、彼が言えたことではないだろう
「渡良川さんだって、死んだ魚みたいな目をしてます」
「知ってる。だからある程度はアンタと同類だな。……そんなに嫌そうな顔をするな」
眉根を寄せてしまったのがバレたらしい。小声ですみません、と謝って肩を竦める。
そこで私は不意に気がついた。いつの間にか、私はこの人との距離が縮んでいる。
不思議な感覚だった。きっと2年間、顔を突き合わせている学校の教師よりも親しんでいる。
「あ、そうだ」
あと1、2分でマンションに着くかという頃に彼はそれまでの適当な会話を遮ってそう言った。
「アンタのことはなんて呼べばいい。やっぱり名浜の嬢ちゃんか?」
「やめてください。名浜でいいですよ」
「いや、それだとほら、アンタと戸籍上は苗字が一緒の人と区別がつかねえかと思って」
それにしても「名浜の嬢ちゃん」はなしだろう。まるでヤのつく家業の娘みたいだ。
私は少し息を吸ってから告げる。
「真琴です。私の名前」
「あ、いいの?」
「それ以外にないでしょう」
「それもそうさなぁ。じゃあ俺のことは京って呼んでくれ。……苗字は好かないタチでな」
ああ、本当に同類なのだと思わされる。
苗字が嫌い。それは「親と何かがある」という事情の代名詞だ。
オサムさん、と呼んでみる。おー、と気の抜けたような返事が帰ってきた。
なんだ、これ。ちょっと、こそばゆいような、擽ったいような、落ち着かないような。
慌ててマンションのキーを出してガラスのドアを開く。エレベーターに2人で乗った。いつもは1人だから、狭いような気がする。
2階のボタンを押す。すぐに着いたのでエレベーターを降りた。
「じゃあ、また会ったらな」
彼はのそりと部屋の中へ入った。私も鍵を開けて家に入る。
静かだった。再婚した癖に共働きなので、明日の朝までは私だけだ
テーブルの上にインスタントのハンバーグが申し訳なさそうに置いてあった。いつもなら大丈夫なのに、今はやるせなくてしょうがない。
畜生。なんで結婚したんだよ。なんのためだったんだよ。私のためじゃないのは分かってる。あの2人は、単なる男女の関係であるかのように振る舞うのだ。気分が悪い。
これは、被害妄想かもしれない。だけど、こんな時にはいつもいつも思う。
私がいない方が、きっとあの2人は幸せだ
仕方なくハンバーグをレンジに入れた。これを食べるしか選択肢がないのが辛かった。
久しぶりに泣きそうになるような「不幸」を感じて唇を噛む。