一本釣り
五月の晴天続きが徐々に怪しくなってきた。妙に雲の厚い日が続くと思えば、急に半袖がほしくなるというように、気温が激しく上下している。今朝のように雨がシトシト降っていると、いつ陽が昇ったのか判然としない。しかし、それも季節の変わり目ということだろうと、私は日課となっている散歩に出かけたのだ。
ツツジが散り、レンギョウも散り、この時期は色目のある花が見当たらない。もうしばらくすればアジサイが目を楽しませてくれるとしても、今は何もない。ただ、土手の土留めに積んである石垣に、びっしりと苔が張っていた。よく見れば、小さな白い花が咲いている。緑の絨毯に埋もれて見つからなかっただけだ。そんな控えめな花が私は好きで、夏ともなれが梅花藻が川の中で華をそえてくれる。今からそれを楽しみにしている。ただ、水面下で揺れる梅花藻のことを妻は気味悪がっている。水面下から人を引きずり込もうとする化け物を連想するのだそうだ。言われてみればそう見えなくもないが、迷信深い妻は見るのを嫌がった。
男と出会って二日たち、三日経つうちに、私は男の事も求人ビラのことも忘れていた。あくせくしなくても、手持ちの預金で年金を受給できるまで食いつなぐことができるからだ。この歳になって働いてみても、もう気力が湧かないだろうし、不必要な金があれば子供たちのためにも良くないと思ったからだ。幸いなことに村で詐欺に遭った者がいないのだから、忘れてしまってかまわないことなのだ。
プルプルプルプル、胸ポケットで着信音がした。
まだ村人は起きだしていない時刻だし、妻だって夢の中で美味いものを食べているはずだ。誰だろうか。発信番号に心当たりがなかった。
「お待たせしました、山下ですが」
「朝早くに畏れ入ります。先日お目にかかった板垣と申しますが、覚えておいででしょうか?」
どこかで聴いたような、といって心当たりがないような、とらえどころのない声だ。それに、板垣という名にはまったく心当たりがなかった。
「申し訳ありません。心当たりがないのですが、どういったご用件でしょうか」
「お忘れですか、お堂の前でお話しさせていただいた者ですが」
戸惑いながら答えるのに、張りのある声が返ってきた。お堂の前で話したといえばいつぞやの貧相な男以外には思いつかなかったが、あの男は自信のなさそうな声をしていたはずだ。
「と言われても、心当たりが……。ところで、どうやって私の携帯番号を知ったのでしょうか?」
疑問に思っていることを尋ねてみると、意外な答が返ってきた。
「番号は、山下さんが教えてくださったではないですか。ビラの番号に電話なさいましたよね。だからこうしてお話しできるのですよ、山下武市さん」
いや、たしかにビラの番号がいい加減なものではないことを確かめただろう。しかし、自ら名乗った覚えはない。ましてや姓名を名乗るということは断じてしていないはずだ。
「ちょっと待ってください。どうして私の名前をご存知なのですか。名乗った覚えはありませんよ、それに、あなたの名前も聞いてなどいません。お互いにただの通りすがりだったはずですがね」
声に棘が混じっていただろう。が、そんなことを斟酌してなどいられなかった。
「あぁ、そんなことですか。刑事一筋でやってこられた方の台詞とも思えませんね。電話番号がわかれば契約者が誰かわかりますし、お名前がわかれば電話番号だってわかります。そういうことでは警察など足元にも及ばない情報収集能力がありますから」
私の抗議に、相手は含み笑いで返したものだ。しかも、かつての職業まで正確に言い当てていた。
「たしかにご不審に思われるでしょう。ですから説明させていただきたいのです。それでですね、お堂でお待ちしていますので、ご足労いただきたいのです」
どういう風の吹き回しなのか、あからさまに棘を含んだ声を受け流すと、こっちの言い分を聞きもせずに電話を切ってしまった。
お堂の前に小柄な人影があった。
小腰を屈めた姿勢で立つ男は微動だにしない。動くものは羽織の裾くらいなもので、菅笠を頭に載せれば笠地蔵のようである。男は、私が声をかけるまでそのまま動かずにいた。
「どういうことか説明してもらいましょうか。そもそも、どうして私のことを調べたのですか」
強い口調で詰問すると、男は弾かれたように動き出した。
「あっ、もうおいででしたか。仕事柄立ったまま休む癖がついておりまして、どうやら居眠りをしていたようです。お呼びだてしておきながら、大変申し訳ありません」
ふっと眼に光を宿した男は、しかしずっと目蓋を開いたままだった。それに、驚いた表情を浮かべる寸前、その貌に薄い縦縞があったように見えた。だが、私の抗議は聞いていたようで、すぐに説明を始めた。
「いえ、本当ならこんなことはしたくなかったのですが、応募者がまったくなくて。それはそうですよね、こんな片田舎にビラを貼ってみたところで誰も読んではくれませんよ。それなのに、上からはここで募集しろの一点張りでしょう、そんな無茶を言われてもねぇ」
「待ちなさいよ、そんな話を聞きたいのではありません。どうして私の名前を知っているのか、どうして調べたのかを聞いているのです」
「ですから、それをこれからお話しします。どうにも話が下手なものですから、順番にでないと話せないのです」
申し訳なさそうに会釈を繰り返した男は、時間がかかるからといって腰掛けるよう勧める。そこに害意を感じられなかったので素直に従うことにした。
「ありがとうございます。できるだけ手短にお話ししますので」
そういって、肩に提げた袋からよく冷えたお茶のボトルをそっと置いた。
「だれ一人として応募はいませんでしたが、一人だけ興味をいだいて下さったお方がいました。それが山下さんです。現場を任された者として、こういう結果になりましたと報告をしなければなりません。もちろん山下さんのことも参考程度に報告しました。以前もお話ししたと思いますが、相手となにかしらの関わりをもったら、相手のことを洗いざらい調べるくらいチョロい……すみません、つい下品な言葉を。それほど容易いことです。山下さんという存在を知った上司は喜びましたよ。またとないご縁が結ばれたのですから。それで、資料を取り寄せて更に喜びました。ぜひとも招聘せよという至上命令が下ったのです。それでですね、待遇については私に一存するとまで申しておりますので、ギリギリまで高待遇をお約束します。ただですね、最高の機密保持が求められます。山下さんなら機密漏えいを心配することはないでしょうが、守っていただけますか?」
この男は、説明するといいながら何も語っていない。それどころか、関わりをもった相手のことを調べ上げることは容易だと平然としている。
「そういうことを聞きたいのではなくて、どうし……」
「今から話しますから。ただし、私が言うことをどこかへ漏らしては困ります。それを約束していただけませんか」
満面の笑みで私の言葉を封じてしまう。どうせ愛想笑いには違いないだろう。
「犯罪に関わらないことであれば、秘密は厳守しますよ。だけど、はぐらかすばかりなら聞く耳を持ちませんので」
腰を浮かせかけてやると、男は慌てて機嫌を直すように取り繕い、そして続きを始めた。
「我々の組織……、まあ、会社ですが、ゼロ総業といいます。総本部はインドにあるのですが、そこは創業者一族が管理、運営しています。そのほかに東南アジアでも事業展開していまして、なかなか活発にやっております。手前は日本支部で総務を担当しております、板垣と申します。それで、手前どもの情報収集能力についてお訊ねですが、それは追い追いご理解いただけると思います。ところで、このたび幹部職員を大至急採用する必要がありましたが、応募者がありません。ですので、山下さんに白羽の矢が立ったということです。仕事というのは、平たく言えば審判長です。実際は○か×かのボタンを押していただくだけですが、記録は自書していただかねばなりません。こればかりは活字でバチバチとはいきませんで、必ず肉筆でなければいけないのです。そのほかには、業者の指導や部下の監督といったところです」
「それで?」
「はい。それだけの仕事をしていただけば、破格の報酬をお約束します」
「破格?」
「そうです。失礼ですが、勤めを辞されてからこっち、退職金を取り崩して生活されているとお見受けしました。年金を受給するまでにあと三年ほどおありですね。その三年あれば、一個くらいはお支払いいたします」
「一個? どういうことですか、一個というのは」
「ええ。手前のような下っ端管理職でも、年収は一本を超えます。審判長ともなれば三本以上でしょう。ですから、三年もあれば一個ということで」
「はっきり言ってくださいよ。一本だとか、一個だとか、そんな曖昧な言い方をしないでください」
「ごもっともで……。では、具体的に申します。山下さんが六十五歳になるまでに、一億の報酬を支払います。年収にすれば三千万ほどですね」
「一億? 円でしょうね。まさか厘だなんて言わないでしょうね」
「もちろん円です。当然、手取りでそれだけお支払いしますので、支給額はその倍以上になります」
男の顔が誇らしげに輝いた。こんな金額を提示すれば、一発でなびくと決めてかかっている。
「なにを莫迦なことを言っているのですか。そんな勤め先なんかあるわけないでしょう。人を騙すのなら、もっとまともな事を言わないとだめですよ。詐欺としては素人ですね」
「いえいえ、決して詐欺なんかではありません。それにですよ、きちんとその額で保険も年金もかけますから、受け取る年金額だって急上昇するはずです。だって、直近二年の収入をもとに算定されますからね。失業保険だって同じことがいえます。絶対に山下さんにとって損はないはずです。……では、こういたしましょう。山下さんにもいずれは生涯を閉じる日がやってきます。そのとき、天に昇るか地に落ちるかが気がかりでしょうから、天に昇れるよう決めておきましょう」
私が報酬に釣られないことを知り、男は慌てて次の条件を持ち出したのだ。
「天とか地とか、そういうことを私は信用しないのですよ、生憎なことに」
「そうでしょう。上司はそういう山下さんのご気性をよく理解しています。それだけではなくて、それをとても気に入っているのです。山下さんは心の強い人なのです。ですが、奥様はいかがでしょうか? ご子息はいかがでしょうか? ……わかりました。奥様とご子息。その連れ合いまででしたら山下さんと同じように天への道をお約束します。……まったく、交渉の上手いお人ですね、山下さんは」
男はハアハアと息を吐きながら苦々しげに頭を振った。
「あなた、気はたしかですか? 天だとか地だとか。死んだ後の約束ってどういうことですか。それに、ゼロ総業なんて会社、聞いたことがないですねぇ」
「上場していないからご存知ないだけです。ですが、国民のほぼ全員が関わっている会社でしてね、外勤職員だけで何十万人も働いているのですよ。それにしても、死んだ後のことを言ってはいけませんか? そもそも、今回募集している幹部職員は、そこが持ち場になるのですよ」
「だから、なんの話をしているのかちっとも見えてこないのですよ」
「困りましたなぁ……。ですが、取り敢えず次を説明しますので。勤務は変則的でして、手前どもの独自カレンダーに従っていただきますが、概ね六日に二日の休日があります。といっても連休は、盆くらいしかないので、職員同士で調整していただくしかありません。本来の勤務地は少し遠いので、単身赴任をしていただきます。……では、こうしましょう。赴任先で身の回りの世話をする専属スタッフを配置しましょう。どんなことにも応じるようにさせます。これでいかがですか」
どうだと言わんばかりに男が語気を荒げた。ところが、男はまだ肝心なことを語っていない。私は薄ら笑いを浮かべて首を横にふってみせた。
「では、正直に申します。そのかわり即答をいただきたいのです。もしお断りになるようなら、残念ですが記憶を消させていただくしかありません。後になって気持ちがゆらいでも、このお話はなかったということになります。山下さんには、閻魔の役職に就いていただきたいのです。こう申せば、手前どもの情報収集能力をご理解いただけると思います」
「えんま? えんまって、閻魔大王のことですか?」
「その閻魔です」
「なにを莫迦なこと言っているのです。そんなものをビラで募集するのですか? あなたねぇ、人を莫迦にするにも程度というものがあるでしょう。閻魔大王の求人なんて聞いたことがない」
「それは山下さんがご存知ないだけのことです。閻魔は、代々そうやって受け継がれてきたのです。だからといって誰でも務まるものではないですし、上司が許しません。ところが、山下さんは上司が見込んだお方なのです。いかがですか?」
「まってくださいよ。そんなことしたら、私は死ぬということですか?」
「いぃえ、そのままでけっこうです」
「だけど、相手は亡者でしょう?」
「たしかに一度は死にました。けど、焼かれた瞬間に生身で復活するのです。そうでなかったらですよ、舌を抜こうが、目玉を抉ろうが、痛くもかゆくもないではないですか。それでは地獄の意味がないです。叩けば赤く腫れ上がり、切れば赤い血を流すという、生身の亡者ばかりですよ」
「それは理屈ですね。幽霊になっていたら、針の山だって刺さらないでしょうから。天国だって、ただぼぉっとしているだけでは苦痛でしょうからね」
「でしょう? ですからね、生身なればこそのお楽しみがあるではありませんか。それにあなた、いくら励んでもね、子ができたという報告は未だかつて一回もありません。ねっ、何をしてもお構いなしですから、生身でなければ意味がありません。……それと一言申し添えますが、手前どもに天国という言葉はございません。極楽があり、お浄土があり……でございます」
これには私も驚いた。閻魔大王は最初から一人だけではなく、脈々と受け継がれてきた職制だというのか。しかも、亡者というのは生身の者だという。しかし、もし本当にそうだとすれば私の名前を調べたり、家族を調べるくらいわけもないことだろう。とまで考えてふと気付いたことがある。どうして先代は職を辞したのだろう。私はそれを尋ねてみた。
「先代ですか? 申し上げ難いのですが、先日大きな地震がありましたよね。あれで一気に仕事が増えるとビビッてしまいまして……。いえ、以前から鬱の治療を受けていたのですよ。それが、せっかく快方に向かっていたというのに、真っ逆さまでねぇ。気の毒ですが、もう使い物には……あっいやぁ……。決してそういう意味ではありませんから」
気の毒そうにはしているが、妙にサバサバとした話し方だ。
「なるほど。ところで、その前の代はどうして辞めたのですか?」
「先々代は、東北の震災の無理が祟りましてね。あれだけの人数がどっと押し寄せたものですから、イチコロで参ってしまいまして、今でも壁に向かって呟いています。何もなくても二十五秒に一人のペースで人が死にます。そりゃ、堪えますよ」
「その前の閻魔は、阪神の地震でやられました。やはり、いきなり負荷がかかったのが致命傷でした」
「それは気の毒に……」
「お言葉ですが、そんなことを言うのなら、終戦の時の閻魔を御覧なさいよ。惚れぼれするような肝っ玉でした。まさに閻魔道の鑑というべきですな」
「ということなら、私に勤まる役目ではないですな。この話は、きっぱりとお断りしましょう」
わたしの腹はとうに決まっていた。平穏な余生を送りたいという一つの希望しかなかったからだ。
「お断りになると?」
男は以外そうに呟いた。破格の報酬を約束し、任地妻を用意し、死後の極楽行きさえも約束したのだ。欲がないというだけでは説明しきれないことなのだろう。その上に、家族をも極楽へ行けるよう約束したのだから、男にしてみれば最大限の譲歩をしたということなのだろう。
「断ります。とてもではないが、私に勤まる役目ではありません。誰か適任者を探してください」
「何か不満なことがあるのですか? どうか、遠慮なく仰ってください。手前どもでできることであれば、すぐに返答させていただきますし、上司の裁可を仰ぎますから」
にわかに真顔に戻った男は、そわそわと落ち着きのない素振りをみせた。そして、なんとかして私に応諾させようと考えをめぐらせている様だ。だが、私の結論は変わらない。
「では、どうあっても引き受けていただけないと?」
「そうです」
「……そうですか。そういうことなら仕方ないでしょう。ご説明したとおり山下さんの記憶を消させていただきましょう」
残念そうに呟いた。が、舌の根が乾かぬうちに態度を一変させたのだ。
「さて、どこから消しましょうね。今日の記憶を消すだけというのも芸がない。私の存在を覚えていますからねぇ。では、一ト月前に遡って消しましょうか。それもねぇ……。あまりにもみみっちぃではありませんか。なら、ご子息が生れた頃に遡りましょうか。けど、どうせなら奥様と出会う前のほうが良いですよね。それなら青春真っ只中にいられる。いや、それならいっそ、小学校に上がる前がいいでしょうね。でもね山下さん、そこまで遡るのなら、誕生直後のほうが良いと思いませんか? それが一番純真ですからね。わかりました、それではそうさせていただきます。ついては、山下さんが関わった人を処分しなければいけませんが、そっちは手前どもで上手くやっておきます。なぁに、多いといっても千には届かないでしょう」
「おい、待て。そんな昔の記憶まで消すとは言っていなかったぞ」
「はい。どこまで消すとは一言も言っていません。いま、この瞬間だけを忘れると思ったのは、山下さんの勝手な想像にすぎません」
「だけど、そんな無茶なことをしなくても」
「本当ならね、存在を消したいところですよ。ですが、記憶を消すと言ってしまいましたからねぇ。手前どもは約束を頑なに守ります。だったら、生れた状態に戻すのが一番理に適っていると思いませんか? 言葉すら忘れるのですから、これ以上の安全はないでしょう」
「誰を処分するのだ? 処分とはどういうことだ?」
「処分は処分です、他の意味などありません」
「だから、どういう意味なのだ? まさか殺す……。重大な犯罪だぞ」
「言っておきますが、手前どもは仏の立場です。人が作った法律なんぞに縛られはしません。仏が罰を下すだけのこと……。違いますか? それに、あなたの知人を守るなどとは一言も約束していません」
「貴様、脅迫するのか」
「いえ。今後の予定を参考までにお教えしただけです。いずれにせよ、あなたは考える力すら失うのですから負担に感じることはありません。まっ、不毛な議論を続けても無意味ですので、早速始めましょうか。大丈夫ですよ、痛くも痒くもありませんから。それに、いくら苦しんだとしてもきれいさっぱり忘れてしまいますから」
男は、提げた袋の中から銀色に光るケースを取り出した。つまみ出したものは、緑色をした液体を孕んだ注射器だ。良い返事が得られなかった時のために準備してきたようだ。
「そういうことなら相手しよう。これでも腕におぼえがある」
身構えようと腰を浮かすと、男は袋に入れていた手を出して面白くなさそうに呟いた。
「およしなさいよ。どうせ何もできないのですから」
そうして、手をまっすぐに伸ばすと指の先から霧を噴射した。大きく輪を描くようにして私の逃げ場を封じると、顔にめがけてシュッとひと吹き。
眼をつむり息を堪えたのだが、そう長くは堪えられるものではない。もうそろそろ噴射した薬剤は流れ去っただろうと息継ぎをした瞬間、スプレーの音が間近で聞こえた。
息継ぎに合わせて噴射された薬剤を、私は吸い込んでしまった。
「駕籠屋さん、そろそろお願いしますよ。手荒に扱わないようにね」
男が呼びかけるとお堂の扉が開いて、托鉢の途中といった格好の坊主が二人姿を表した。不意の加勢に具えるべく距離をとろうとしたのだが、体が思うように動いてくれない。
「無駄なことはおよしなさい、薬が効いてきているはずです。さて、手早く済ませましょうね」
言葉を合図にしたかのように、お堂から出てきた坊主が私の動きを封じた。ところが、封じられるまでなく抵抗ができないのだ。足にも手にも力が入らない。それどころか、胸が少し苦しくなっていた。
「早くしないと心臓まで弛緩してしまうからね。……首を」
首が横に倒された。そこにゴムチューブのようなものを巻きつけられた感触がした。
「出たでた。やっぱり首の血管は太くていいねぇ」
スリスリと擦っていた男は嬉しそうに言うと、そこに何かを突き立てた。
「では山下さん、あなたはこれで赤子に戻るのです。短いご縁でした」
携帯電話の機能を説明しているような、事務的な言い方だ。
「ま、待て。待ってくれ」
「どうかしましたか?」
「やる、やるから。閻魔になるから」
「なんと、承知してくださるのですか?」
「やる。約束する」
「そうですか。嬉しいような、つまらないような。複雑な気分ですが、承知してくださるのなら許してあげましょう」
「家族は? 家族の安全は?」
「手前どもは嘘を申しません。そんなことをしてごらんなさい、閻魔様に舌を抜かれてしまいますから」
男は下手な冗談を言ってクスリと笑った。首に刺さったものが抜かれ、再び痛みがはしった。
「解毒剤です。すぐに元通りになりますからね」
こうして私は閻魔になることを承諾させられた。