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 国道を挟んだ山並みに朝日が射した。はっきりしない空が背景になって、余計に稜線を際立たせている。ゆるやかにそよぐ風は西から東へ、やがて半分以上覆っている雲は日差しを遮ってしまうのだろうか。いま正に雲を流す風のひと群れが、牛の便臭にのせて小さく啼き声をはこんできた。

 朝もやの残る川原を歩くのは良いものだ。長年私に散歩をせがみ続けた犬が死んで一年、すっかり習慣づけられた早起きの癖は革まることなく続いている。この川原も、犬と毎日散歩したところで、ゴロゴロと転がった石くれに足を取られながら随分歩いたものだ。雪解けの水を集める川は、しとしと降り止まぬ梅雨になると銀鱗をひるがえすハヤや若鮎が餌を求めて飛び跳ねる。嵐がくればそろそろ水を落としたい田に溢れそうな濁り水の渦を巻く。雪に覆われた川原は手付かずの別天地だ。誰も足を踏み入れていない処女地に点々と私と犬の足跡を記すのが楽しかった。

 五月の連休がすぎて、帰省していた者たちの姿がなくなった今は、新芽を伸ばす茶畑が目に心地よい。その茶畑までくると、昔からのお堂はもうすぐそこだ。今日も昨日と同じように、穏やかな朝が始まった。


 お堂にどんな仏さんが祀られているのかを子供の頃に教えられたように思うが、仕事や家庭に追われるうちにすっかり忘れてしまった。だからといって気後れするような私ではない。特定の宗教に肩入れしないのが私の信念、つまりは不信心者なのだ。それがこうして毎日通っていると、いつの間にやら私が堂守りを買って出たと勘違いされているようだ。自分としては、散歩の目標にするのに都合のよい距離でしかないのだが、いくらそう説明しても信仰深い土地柄のせいか誰一人として納得してくれない。実際、自宅からお堂までは片道十五分ほどなので、気晴らしにはうってつけの距離なのだ。

 茶畑が終わると、川原に棒杭が打ちつけてあって、小さな洗い場になっていた。いかにも時代劇に登場しそうな木であつらえた洗い場である。農作業で汚れた手足を洗うためのものなのか、部分的に取り替えた跡があった。そんな場所に下りてくるための小路が急な坂をつくっていた。雨でも降ればぬかるんでツルツルすべる狭い小路で、ただ土手に筋を入れたような雑なものだ。とにかく上り下りできれば良いということなのだろうか、坂には丸木を埋め込んだ階段もなければ地面を削った形跡もないという、本当にお粗末なものだ。とはいえ、いくらかは手入れをしているようで、小路の周囲には草が生えておらず、犬はそこを駆け上がって勝ち誇ったように私を待ったものだ。土手の上の踏み分け道を下ってゆくと、こんもりとした茂みを透かして、古びたお堂の板壁が見える。柘植の木は風除けのために植えられたのだろうか、軒先にかろうじて届くほどに育っていて、咲き始めたドウダンツツジの花が斑に染みた小さな賽銭箱をかざっていた。

 お堂の扉は閉じたままだ。中にいたる三段ほどの階段にも、ツツジの花びらと同じく細かな水滴がついていた。


 ぶらぶら歩いているうちに陽が昇ったとみえ、射るようだった朝日がふわっと周囲に拡散してしまっている。夜の間に冷やされた空気がしっとりと湿り気を帯びて、しかしこういう朝が私は好きだ。

 ザーザーと屋根を叩く雨音のような川の流れは小さくなったが、そのかわりに木から木へと飛び回って縄張りを主張するウグイスの声がせわしなく聞こえてくる。いつにもまして気持ちの良い朝だと私はおおいに満足だった。



 お堂の前には猫の額ほどの広場がある。そこで決まって肩を廻したり、腰を捻って体をほぐすのが日課である。今朝もゆるゆると体をほぐしていると、視界の端に黒っぽい影をとらえた。訝しく思ってそちらに目を向けると、初老の男が不安そうに辺りをみまわしていた。身なりもずいぶん粗末で、背を丸めた立ち姿は生きることを諦めたようにも見える。異様なのは足元だ。たしかに素足で出歩くことが苦にならない季節ではあるが、折り目がすっかり失せたズボンに草履履きだ。私に気付いて立ち去ろうとしたときになって初めて、着ているものがくたびれた背広ではないことがわかった。異様にだぶついて見えたのも、安っぽくペラペラに見えたのも、正体を知ってしまえば十分に納得がゆくことだ。彼は、羽織を着ていたのだ。どう読むのか科わからないが、古風な文字らしきものが染め抜かれていた。私に見られたからといってコソコソ逃げるように去る必要などないはずなのに、やけにオドオドとした様子だ。それが肩からバッグをたすきがけにして反対側の小路を奥へ去った。生憎そっちは行き止まり。沼のような泥田があるだけだ。ここで待っていればいずれ戻ってくるだろう。そう思った私は、ゆっくりとタバコを咥えた。



 男が姿を現したのは、たっぷり三十分はすぎていた。泥田まではほんの三分もあれば十分に行き着く距離でしかない。それなのにこれだけ時間をかけたというのは、私に会いたくないということに違いない。私が男のことを見覚えていないということは、きっと初対面なのだろう。ということは、会いたくないのは私ではなく、誰ともと考えてかまわないだろう。それほど後ろめたいことでもあるのだろうか。


「おはようございます」

 お堂の影で息を殺して物音を探っていた私は、私の姿が見えなくなったので幾分安心した様子で脇を通り過ぎようとした男に声をかけた。


 ビクッと男の足が止まった。少し屈んでいた腰がバネ仕掛けのように跳ね上がった。

「! ……」

 よほど驚いたのか、男はきつく目をつむり、口だけパクパクさせている。

「あぁ、すみません、驚かせてしまいましたね。いえね、こんなに早い自分に散歩しておられるものですから。……なにもそんなに驚かなくても。ところで、お見かけしないお方のようですが、どちらへ?」

 おずおずと目だけをこちらに向けた男は、踏み出していた足をズルズルと戻し、次いでもう片方の足をジリジリと後ろへ引いていた。

「な、なにも怪しいものではありません。ただ……を貼らせていただこうとしただけで……」

 何かを貼ろうとしていたのはわかった。しかし、何を貼ろうとしていたのかは聞き取れなかった。

「あぁ、千社札ですか? それはそれは、熱心なお方ですね。たしかに古いお堂には違いないですが、誰も参る人などなかったようでしてね、どこにもそれらしきものは見当たりませんね。もっとも中のことは知りませんが、……どうぞ、何枚でも貼ってくださってかまいませんよ。いや、良い方でよかったですよ。私はてっきり……賽銭……。あぁ、気を悪くしないでくださいよ。失礼だが、生活に追われて……心が挫けてしまったのではないかとね。いやっ、これは失礼なことを言ってしまいました」

 頭を掻いてみせたのだが、内心では賽銭泥棒ではないかと疑っている。年恰好といい身

 なりといい、不意の出費に耐えられなかった年金生活者が、止むにやまれずの出来心とにらんだのだ。

「違いますよ、憚りながら賽銭に手をつけるほど落ちぶれてはいません」

 男は身構えたままムッとしたように呟いた。が、それきり黙りこんで、ただこちらの様子を窺っている。

「いや、申し訳ありません。ですが、チラッと見ただけですので、どうしても見た目でものを言ってしまいました。あっ、これはまた失礼なことを。どうか許してください」

 こんどは膝に手をやり、丁寧に頭を下げてみせた。そうしておいてまたしても頭を掻いてみせる。そうすれば殆んどの人は打ち解けてくれるものだ。これまでの経験が囁いてくれる処世術は、定年をすぎた今でも通用するとみえ、男の眉間に刻まれた縦皺がうすくなった。

「わかっていただければ良いのです」

 男は、怒ったようにきつい眼差しを私を見つめるくせに、口の先でボソボソと呟いた。それにしても陰気くさい男だと私は思った。

「さあさあ、機嫌を直して貼ってください。五枚でも十枚でも好きなだけどうぞ。ねぇ、そうしていただけりゃ、少しは世間に顔向けできるというものです。ありがたいことではないですか。軒がいいですか? それとも柱でも。ご迷惑でなければ壁に貼っていただいてもかまいませんよ」

 本当はまだ疑っているのだ。何かを貼るために来たというのだから、目的を果たさせて追い払うつもりだった。もし自分が立ち去った後で悪戯をされたら困るからである。もっとも、こんな賽銭箱には僅かな金も入っていないだろうから特段困ることはない。とはいえ、つまらぬことで罪びとをつくりたくはなかっただけだ。

「どうやら勘違いをされているようですが、千社札なんぞ貼るつもりはありませんよ」

 鼻白んだように男が呟いた。眉間の皺こそ消えてはいるが、私を拒否しようとする姿勢がありありとしている。

「おや、違ったのですか? 何を貼るというときにボソボソ言っておられたので、てっきりそうだと。じゃなければ、貼るものなんてありませんからね」

 少しだが男が本音を言った。ときに相手の言うことをまるっと受け入れ、ときに相手を怒らせる。それが相手の本音を引き出す最も簡単な方法だ。どうやら相手は自尊心を傷つけられて不愉快なようだ。ならば、もう少し突っ込めば自ら本音を吐くのではないか。長年培った習性は、そう簡単には直らないようだ。


「……ですよ」

「えっ、なんですって?」

「ですから、ビラですよ。求人のビラを貼りに来たのです」

 狙いすましたようにむっとしている。が、その言葉は嘘ではなさそうだと思った。

「求人のビラですか、……それはまた酔狂な。それなら掲示板にでも貼ったらいいでしょう」

 こんな奥まったところにあるお堂だが、何かしらの案内をするための立て札がこしらえてあり、そこに黄ばんだ案内が風でヒラヒラしている。その片隅なら掲示しても差し支えないだろうと指差した。

「ですがね、こんな場所では人目を期待できませんよ。求人ビラならもっと賑やかな場所に貼らなきゃ誰も目に留めてくれませんよ。新聞の折込みで配るとかね」

「……」

 男は、首から先をひょこっと下げて返事に代えた。遠回りに私を避けるように立て札の前に立つと、いかにも手製というようなビラを貼り付けた。

「せっかくですが、どこに貼るかは上司に指示されていますので」

 それ以上のことは言わないとばかりに口を噤んでいる。

「なるほど、上司の指示なら仕方ないですな。ビラの効果があろうが、なかろうが、あなたには関係ないということで。えー、どれどれ。なにが……」

 私は、男を驚かさないように、わざわざ遠回りしてビラを覗きこんだ。なるほど求人のビラのようだ。

「なになに、幹部社員急募。高給優遇で、年に二度の賞与あり。なかなかの待遇ではないですか。皆勤手当に家族手当、各種保険完備というのも、いまどき珍しい会社のようですな」

「手前どもは、そこいらの小さな事業所ではありません。そのくらいは基本中の基本です」

 いくらか馴れたのか、男は立ち去りもせずにビラを読む私に相槌をうった。声の調子からすると、自尊心を逆撫でされているような様子である。ザァマスおばさんのように見下した言い方をした。

「なるほどねぇ、さぞ立派な会社なのでしょうね。それで……社宅制度あり、単身赴任可。そして、完全終身雇用で、定年なし……。定年がないのですか?」

「ありませんよ、そんなもの。だから私のような年寄りでも働けるのです」

 感心したように男を窺うと、自慢げに胸を張ってみせた。まあ、勤め先のことを誇らしく思っていること自体、決して悪いことではない。

「今どきそんな会社があるのですか。もう少し若ければ私が応募しても良かったのですがね、残念なことに、去年の秋に定年退職してしまいましてね。……それで、事務系専門職で、経験者優遇ですか。まあ、そうでしょうね。ですがこの、必ずしも経験者に限らないというのはどういうことでしょうね。幹部社員ということなら、部下を掌握しなければいけないでしょうに」

 いかにも世間話を装って本音を探り出すのは難しいことだ。少し読んでは話の種をさがし、なるべく相手を黙らせないようにしなければいけない。

「それは、馴れるまでは周囲がサポートするということです。まあ、仕事自体は比較的簡単なことですのでね。馴れるまでは決済の署名と押印だけでも大丈夫です。誰にだってできる仕事ですよ」


「ますます割りの良い仕事ではないですか。ですが……肝心の会社名が抜け落ちていますね。これではあなた、胡散臭いと思われてしまいますよ」

 ビラの中味を読んだとたんに、私は胡散臭いものを感じていた。というのが、募集している会社の名前が載っていなかったからだ。いくら美辞麗句を並べ立てたところで、雇う側にそんな約束を守る気などないのかもしれない。ともすれば、表にできないことをたくらんでいるのかもしれないのだ。そこで私は、直截に尋ねて出方を窺うことにした。

「何を言っているのですか、まったく。暢気なものですね、娑婆の人は。私の勤め先はねぇ、……いや、言ってはいけないのです。漏らしでもしたら、応募者が多すぎて収集がつかなくなります。言っておきますが、手前どもは国家規模の組織ですから。だからこんな辺鄙なところにビラを貼るのですから」

「おやおや。国家規模ときましたか。そんなに大きな会社といえば、自動車会社か、鉄鋼メーカー。まさか日本銀行などとは言わないでしょうなぁ」

「ふんっ、そんなちっぽけな。そんなねぇ、ちっぽけなものとは訳が違います。これでいろんな国に根を張っていますし、手広く展開していますから、あんな洟垂れと同列にしないでいただきたいものです」

 そういって胸を反らせた。だんだん男の態度や物言いが尊大になってきている。それがまた不信感をつのらせるのだ。

「なるほどねぇ。いろいろと事情がおありのようですな。しかし合点がいかぬのは、この募集内容ですよ。男女各一名採用というのは良いです。しかし、年齢を書き間違えてはいませんか? 概ね六十歳から六十四歳に限る。できれば単身者が良い。これって、どういうことなのですか?」

「どういうことって、部下に舐められないように、顧客に足元を見られないように、そして協力会社に睨みを利かせるためでもあります。一言一句間違ってはいませんよ。出掛けに何度も見直しましたから完璧です」

「なるほどねぇ。……それで、連絡先はこの番号ですか」

 その連絡先が実在するものなのか確かめるために携帯を手にすると、男の懐から呼び出し音が聞こえてきた。

「なるほど、あなたに連絡がつくということですね。……そうですか、せっかくのご縁ですから、たくさんの応募があるといいですね」

 それが事の発端であったと気付いたのは、それから優に二十日という日が過ぎてからだった。


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