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画廊喫茶・ゲルニカにて

作者: 紗々

 冷たい小雨が降る退屈な夜、僕はとある場所を目指して歩きます。濡れた爪先が少々鬱陶しく感じますが、やがて霞がかった道の向こうに小さな看板が見えてきます。


『画廊喫茶ゲルニカ』


 僕はさっと傘の雫を振り落とし、この店のドアを開くのでした。


 昭和時代から経営しているというこの喫茶店は、今時のお洒落なカフェと言うよりレトロ感満載の懐かしい作りになっています。

 年季を感じさせる椅子や、ぼんやりとした心地よい明るさの照明。そして画廊喫茶の名の通り、店内の壁には沢山の名画が飾られています。(無論模造品ですが)


 この、昭和にタイムスリップしたかのような雰囲気がなんとも僕の心を落ち着かせてくれる為、僕は日頃からよくこの店に足を運ぶのです。

 幸いこの店は夜遅くまで営業しているので、今日みたいに退屈な夜は夕食がてらこの店に来る事も多いのです。


 僕はといえばしがない絵描き志望で、美大卒業後も地に足付かず、アルバイトをしながら気ままに絵を描く生活をしています。

 この店に来る際は大抵スケッチブックを持ち込みます。ここでコーヒーと軽食を頂きながらデッサンするのが、僕のお決まりパターンになっています。


 店内には常連と思われる客が数人。夜間のせいか客も少なく、いつにも増して閑散としています。僕はいつも通りコーヒーを注文し、スケッチブックを広げデッサンを始めようと思いました。


 その時、店のドアが開きました。ああ、こんな雨の日に、ましてやこんな時間にわざわざ来る客が自分以外にも居るんだなあ、などと思い、何気なくドアの方に目を向けます。


 入ってきたのは若い女性でした。


 背中まで伸びた長い黒髪と、その黒さを一層際立たせるような白い肌をした女性です。

 化粧っ気はなく服装は地味でしたが、若干薄幸そうな陰りのある顔立ちはアンニュイな雰囲気を醸し出しています。彼女をモデルに絵を描けば、なかなか気だるい魅力のある一枚絵が仕上がりそうな予感がします。


 彼女は俯き加減で入店してきましたが、後にふっと顔を上げ、静かな足取りで入店しました。奥の席へ座るのか、僕の横を通り過ぎて行きます。


 僕は無意識に彼女の顔を見上げました。すると彼女も、僕の方を見てこう呟いたのです。


「絵を描かれているのですか?」


 突然の出来事に僕は咄嗟の返事を出す事が出来ません。そんな僕の様子を察知してか、彼女はすぐに


「御免なさい。突然話しかけてしまって」


 と謝り出したのです。


 何と返事をしていいか判らない僕は、とりあえず彼女に


「絵に興味がおありですか?」


 と質問返ししてしまいました。まったく普段滅多に他人と会話しない僕ですから、突然の会話となると気の利いた台詞一つも言えません。

 彼女はハッとした表情をしていましたが、すぐに答えてくれました。


「いいえ、私は描かないのですけど、その、知人が好きで……」


 しどろもどろなのは彼女も同じです。どうやら彼女も僕と同じく、人見知りの類のようですね。


「そうなのですか」


 僕はやはり気の利かない返事をするのが精一杯で、何とも言えない気まずさを持て余すのでした。

 そんな気まずさを先に破ったのは彼女の方です。彼女は僕が予想だにしない言葉を発して、沈黙を打ち消したのでした。


「あの、こちらご相席しても宜しいでしょうか?」


 さあ何と返事をすればよいのでしょう?店内は恐ろしい程空いています。空席なんて嫌という程あるのです。にも拘らず、何故彼女は僕との相席を望むのでしょう?

 僕が余りに困った表情を浮かべたせいか、彼女は


「御免なさい。赤の他人と相席なんて迷惑ですよね」


 と言って、そのまま奥の席へと移動しようとしました。

 僕はもうどうすればいいか判らないまま


「構いませんよ。こちらへ座ってください」


 と相席を許可してしまったのです。


 一体何が何やら、僕にはまだ理解出来ません。見ず知らずの女性との相席を許可してしまうなんて、今日の僕はどうかしています。

 何故こんな返事をしてしまったのか。それは彼女の顔を見た瞬間、ふと彼女を描きたい気持ちに襲われたからでしょうか……?


 彼女はほんのりと微笑を浮かべて、僕の目の前に座りました。こうして目の前で見ると、華やかな美人ではないけれど、儚げな魅力のある女性です。黒目がちな瞳を若干伏せた顔に、長い前髪がかかります。

 そんな仕草の一つ一つが、益々彼女のアンニュイな雰囲気を増幅させているように感じます。


 僕は何故だか彼女に気の利く一面を見せたくなり、つい自分から話しかけてしまうのでした。


「何か注文しますか?ここのコーヒーが美味しいんです。それとナポリタンも」


 彼女は控えめに微笑みながら言いました。


「ナポリタン、お好きなんですか?」


 彼女が笑いながら言うので、僕は即座に馬鹿にされたような気持ちになってしまったのです。


「子供っぽいですか?」


 しまった。コーヒーだけにしておけば良かった。気恥ずかしくなった僕は、そのままテーブルへ目を向け俯きました。


「すみません、そういうつもりじゃ……」


 彼女も若干頬を紅潮させているようです。戸惑うような彼女の顔を見て、僕は少し安心しました。


「いいんです。気にしないでください。それで注文は?」


「ではコーヒーで」


 彼女は一杯のコーヒーを注文すると、僕のスケッチブックに目を向けます。


「御免なさい、急に話しかけて。ましてや相席なんて頼んでしまって。ご迷惑じゃなかったでしょうか?」


「迷惑なんかじゃありませんよ」


「そう、よかった。丁度貴方が絵を描いているのが目に入ったものですから」


 そう言って再び僕のスケッチブックを覗きこみました。


「見せて頂けますか?」


「どうぞ」


 僕のスケッチブックにはこれと言って面白味もない、ただのデッサンが描かれているだけです。コーヒーカップ、花瓶、道端に咲く花など、目に付いたものを片っ端から描いているだけですから。彼女は無言でスケッチブックのページを捲りました。


「お上手ですね」


「下手の横好きですよ。美大を出たはいいけど、プロにもなれずふらふらしているだけです」


「好きなものがあるのはいいと思いますよ。貴方の絵、絵が好きなんだって気持ちが伝わってきますもの」


 普段絵について褒めてくれる友人など居ない僕にとって、例え社交辞令であってもそれは嬉しい言葉でした。

 彼女はそのまま、壁際に飾られた絵に目を向けます。


「これ……ゲルニカですよね」


 壁にはピカソのゲルニカが飾られています。


「ゲルニカですね。戦争を描いたものです。恐ろしい雰囲気がありますよね」


「確か、ここのお店もゲルニカっていう……」


「ええ、もしかするとこのお店のマスターはゲルニカが好きなのかもしれませんね。ほら、この絵も丁度店の真ん中、一番目立つ位置に飾ってあるじゃないですか」


 彼女は暫く壁のゲルニカを見詰めています。


「私この絵が好きなんです。だからこのお店の名前を見掛けて、つい入ってしまって」


 芸術に関心がある女性は多くても、ゲルニカに愛着を示す女性は珍しいものです。僕はますます彼女が気になり、つい話しかけてしまうのでした。


「僕も好きです。戦争への憎しみとか悲しみとか、戦いに対する苦しみの念が伝わってくるような気がします。禍々しいオーラに溢れているというか……」


 食いつくように語る僕を見て、彼女は少し首を傾げながら応えました。


「そうでしょうか?私は違います。だって憎しみって、人間にとって一種のエネルギー源でしょう?この絵からはそんな憎悪が溢れています。私は人間が生み出す生命エネルギーのようなものを感じ取れるんです」


 意外な返答に僕はなんと返事をしていいか判らなくなりました。しかし困惑する僕をよそ目に、彼女は話し続けます。


「生きたいという思いがあるからこそ破壊する。破滅と再生は表裏一体です。他人を憎しむのも、自分が愛おしいが故の攻撃。戦争と言う破壊行為が、私には人間が一番生きたいというエネルギーをぶつけているように思えてならないのです」


 ゲルニカを見詰める彼女の瞳は、心なしかさっきまでとは違い鋭くなったように感じました。僕は彼女の見解を耳に、ますます返答に困ってしまいました。彼女と言ったらまるでプロの美術評論家のようです。僕みたいな素人絵描きが適当な事を言っていい雰囲気ではありません。


「あ、すみません。私ったらつい夢中になって……」


 と、彼女はほんの少しだけ取り乱した表情をしたので、僕もどうにか安心して話を続けられました。


「それだけこの作品が好きって事じゃないですか。好きなものに夢中になれるって素晴らしいと思います。それに、貴女の見解は独創的で、他の人にはない素敵な着眼点だと思いましたよ」


 どのように取り繕っていいか判らない僕は、お世辞にも聞こえる耳触りのいい言葉を言うのが精一杯です。

 それでも彼女は好意的に受け取ってくれたのか、はにかんだ笑顔を向けてくれたのでした。


「好きなものに夢中……か。そうですよね。私の知り合いも絵が大好きで」


「さっきおっしゃっていた方ですか?」


「ええ。その人……恋人が居るんですけど、なんか恋人よりも絵が好きって感じなんですよね。それくらい絵に没頭していて」


 恋人よりも絵。まさしく僕の事を言われているようです。学生時代からずっと、まともに恋人も作らずただひたすら描き続けていましたから。


「……見ず知らずの人の話なんて興味ないですよね」


 彼女が会話を止めようとしたので、僕はすかさず返答しました。


「そんな事ありませんよ。僕もアマチュアとは言え絵描きですから。よろしければその、お知り合いの方のお話を聞かせて頂けませんか?」


 人付き合いが苦手な僕ですが、何故だか彼女は話を聞いて欲しがっているような、そんな雰囲気に見えたのです。


「あくまでも他人の……どこかに居る誰かの話に過ぎませんよ?」


 僕の返答に意外そうな表情を見せましたが、やがて彼女は僕に「とある絵描きとその恋人の話」を聞かせてくれたのでした。


--


 その絵描きは古いアパートの一室に住んでいました。同棲中の彼女は、絵を描く以外何もしない彼の身の回りの世話に追われています。

 並んだ石膏、絵の具の匂い、床に散らばる紙。此処が二人の世界でした。


 彼は一日中絵を描いていました。彼女が声を掛けても知らん顔。ひたすら描く事に没頭しています。たまの休日に外へ出掛けないかと彼女が誘っても、相変わらず彼は絵を描くばかり。

 彼は何よりも絵を愛しているのです。彼女はそんな彼に若干不満を抱きつつも、そんな彼を愛していました。


 ある時は一日中会話を交わさない時もあったし、ある時はほんの些細な動作が彼の作業を邪魔したと言って、理不尽に手を上げられる事もありました。彼女はそんな時も、ただじっと黙り彼の描く姿を後ろから眺めていました。

 彼に何の不満もないといえば嘘になります。しかし、自分が居なければ彼はどうなりましょう?疲れた彼に温かい料理を振る舞うのも、彼の汚れた服を洗うのも、時に自暴自棄になった彼を慰めるのも、全て彼女の仕事です。


 もしも自分が居なくなったら、誰が彼に尽くすのでしょうか?彼の命を繋いでいるのは、間違いなく自分です。

 例え彼からの応答が無くても、自分を傍に置いてくれる、それこそが彼からの自分へ対する愛情なのです。彼女がそっと彼にコーヒーを差し出せば、彼は黙ってそれを飲んでくれるのですから。

 彼女はそのように自分を納得させながら、彼との同棲を続けていました。


 ある時彼が言いました。彼女をモデルに絵を描きたいと。

 彼女は二つ返事で引き受けました。それまでデッサン用の石膏や静物画ばかり描いていた彼が、初めて人物をモデルにするのです。


 初めて彼が描く人物のモデルが、自分なんだ。揚々とする彼女は、モデルになる為ヌードになる事にも何の抵抗はありませんでした。


 彼女は服を脱ぎ、彼の前に置かれた椅子に座ります。彼は何も言わず、黙々と筆を走らせます。


 不思議な静寂がアパートの部屋を包みました。ひたすら絵を描き続ける男とヌードモデルの女。時が止まったような部屋の中で、二人の男女は同じ時間を過ごしています。


 時折彼の目線が彼女の顔や身体に向けられます。一糸纏わぬ彼女の裸体には、一切のフィルターがかからない彼の目線が突き刺さります。

 彼の目線は、彼女の白い肌の奥までも直視するようです。普段一緒に住んでいるにも関わらず、目を合わせる機会すらろくにない彼が、あられもない自分の姿を見詰めている。

 彼女はこんな状況に、どこか官能的な恍惚を覚えるようでした。高鳴る胸の音が彼女の身体に響きます。それでも決して表情は崩さず、ただひたすら彼のモデルを務めていました。


 どれくらいの時間が経ったでしょうか。漸く彼は筆を置きました。


「完成だ」


 彼女は勢いよく立ちあがり、彼の絵を覗き込みました。その時、彼女は恐ろしい衝撃に胸を打ち砕かれたのです。


--


「顔が……無かったんです」


 ここまで流暢に語っていた彼女の声が、急にスローペースになりました。顔は俯き、瞳はより黒さを増し焦点の合わない視線を泳がせています。


「……どういう意味ですか?」


 余りにも鬼気迫る彼女の表情に圧倒されながらも、僕はこう問い掛けました。


「顔が無かったんです。彼の絵に。彼の絵には裸の女が、誰でもない、のっぺらぼうのような女が描かれていたんです」


「それは何故?」


「彼は言いました。僕が描きたかったのはお前じゃない。ただ抽象的な『女』という生き物を描きたかったのだと。顔を描いてしまえば、それはある特定の人物を指した作品になってしまう。でも彼は違ったんです。彼は私を描きたかったんじゃない。所詮私は彼にとって、女と言う抽象的な生き物の一つでしかなかったんです」


 彼女の息が荒くなりました。肩を震わせ、俯いた顔は青褪めているようにも見えます。


「ちょっと待ってください。彼って?それは貴女の知り合いの話ではなかったのですか?それに私って……まるで貴女自身の話のような……」


 取り乱す僕に、彼女はハッとしました。状況を読み取れず困惑する僕を見てか、彼女は少しだけ気を落ち着けたようです。


「すみません。なんだかお話ししているうちに、つい感情移入をしてしまったようです」


 彼女はおどけたような口振りでしたが、その口元は引き攣っています。どんなに上辺だけの笑顔を浮かべても、彼女の心は決して笑っていないと容易に判る表情です。


 それでも僕はそのまま話の続きを訊きました。


「そうだったんですね。それで、どうなったのです?その、『知り合いの方』のお話は」


 彼女は額にかかった前髪を細い指先でかき上げます。僕の反応に少々ホッとしたような表情を見せ、再び語ってくれました。


 彼女は絵を破きました。彼が描き上げた彼女の絵を。いいえ、彼女でありながら誰でもない、顔のない女性の絵を。


 彼は彼女を殴りました。

 そして頬の痛みを堪えうずくまる彼女をよそ目に、彼は膝をつきビリビリに破かれた絵の残骸を呆然と眺めていました。


 彼女はそんな彼の背中をじっと見詰めました。あれはもう、私が見てきた彼の姿ではない。私は彼にとって顔のない人形。ただの石膏やトルソーと変わりない物なのだ。


 彼女の瞳に、棚の上に置かれた石膏が入りました。彼女は徐にその石膏へ近付き、そっと手に取りました。


 そして悲観に暮れる彼の後頭部を、石膏で思い切り殴りました。


 床に、石膏に、彼女の身体に、赤い血が飛び散りました。部屋の中には、絵の具の匂いに混じり血の匂いが立ち込めました。


 彼女は足元に転がる彼の姿に目を向けました。それは、最早人間でなく、ただの動かない人形になった彼。


 彼女は茫然と部屋に立ちすくみます。彼女の頬に冷たい何かが流れたように思えますが、それは彼の血なのか、自分の涙なのか判りませんでした。


 彼女はここまで話し終えると、口元だけ無理に釣り上げた笑顔でこう言いました。


「というお話なんです。本当だと思いますか?」


 僕はさっきまで飲んでいたコーヒーが胃の中でぐるぐると回るような感覚に襲われながら、やっとの思いで口を開きます。


「嘘……ですよね?」


 冷や汗が額を伝って、足元に流れ落ちます。彼女はやはり口元だけの笑みを浮かべて、こう返しました。


「ふふふ、よく出来たお話でしょう?」


 彼女の返答に、ドッと力が抜けたように感じました。


「もう勘弁してください。本当の話かと思ってハラハラしたじゃないですか」


 未だ鳴りやまない心臓を落ち着かせる為に、とりあえず僕はすっかり冷めたコーヒーを啜るのでした。


「御免なさい。でもいい刺激になりませんでした?絵を描く方なら、こういった話を聞くのもいいと思って」


 彼女の笑顔がだんだんとほぐれてきたように感じたので、僕は思い切って言いました。


「ええ、僕も描きたくなりました。貴女の肖像画を」


 彼女は驚いた表情で僕を見詰めます。


「貴女をモデルに絵を描きたい。宜しければモデルになってくれませんか?貴女をモデルにすれば、きっと素晴らしい一枚が出来上がる筈だ」


 僕は彼女に手を差し出しました。しかし、彼女はその手を受け取ってくれません。


「駄目、です。それは出来ません」


 彼女の表情が再び曇りました。


「別に何処かで発表をするとか、そういうものではありませんよ。個人的な、ちょっとした絵のモデルだと考えて頂ければ……」


 彼女は僕の手をはらいました。


「駄目です。私は貴方のモデルになれない。貴方は私を描くべきではない。貴方は絵が好きで、絵を描きたいという気持ちを強く持っているのでしょう?私にとってそんな貴方のモデルになるのは、荷が重すぎます」


 彼女は俯いたまま席を立ち、足早にその場を離れようとしました。僕は咄嗟に彼女の腕を掴みました。


「待ってください。もうモデルはいいですから……せめて連絡先を教えて頂けませんか?貴女ともう一度話をしたいんです」


 彼女の腕が僅かに震えたように感じます。それが何秒間の沈黙だったのかは定かではありません。僕に背を向けたまま立ち止まる彼女を見詰める時間は、ほんの数秒であってもとても長く感じたのです。


 彼女は振り返らないままこう言いました。


「さようなら。貴方とお話しできてよかった」


 僕は彼女の腕を掴む手を緩めました。


「さようなら……」


 そう小さく呟いた僕の声が彼女に届いていたのかは、判りません。

 彼女はそのまま会計を済ませると、雨が降る夜の街へと消えて行ったのでした。


 僕はゲルニカから帰宅した後、彼女とのやり取りを何度も頭の中でリピートしていました。疲れているのか興奮しているのかさっぱり判らない心境に、戸惑いすら感じます。

 僕は上着を脱ぎ、鞄とスケッチブックを置きました。

 そして何をするにも集中できず、どうしようもなくなった僕は、テレビのスイッチを付けました。


 テレビからニュースが流れます。


「東京都のアパートで男性の死体が見付かりました。同棲中の女が犯行に及んだと見られ、犯人は未だ逃走中……」

何故彼を殺めた彼女は、逃亡せず画廊喫茶ゲルニカに入店したのか。

恐らくここが一番のツッコみどころになるかと思います。

彼女は彼を殺してしまった。突発的な感情に支配され、最愛の人を自分の手で破壊してしまった。

計画殺人ではなかった彼女は、どうする事もできず彼のアパートを飛び出しました。かと言って逃亡を試みても、いずれ捕まる事は目に見えている筈。

逃げる事も自首する事も考えられなくなった彼女は、ふと画廊喫茶ゲルニカの看板を見付けます。

逃げる気力さえ無くしていた彼女は、残されたほんの僅かな時間をせめて静かに過ごしたいと思い、この店へ入ったのでしょう。

そんな中店内で絵を描く「僕」を見付け、思わず声を掛けてしまったのは「僕」の姿を「彼」と重ね合わせたからでしょうか……?


最後になりますが、お読み頂き誠に有難う御座いました。

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