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銀と真珠の宴

作者: 日暮奈津子
掲載日:2014/10/27

 暗くて冷たい海の底に、僕は沈んでいる。

 エメラルド色の深海水に包まれて眠り続ける僕の身体は冷えている。

 眠りながら、待っている。

 夢を見ながら、待っている。

 水底みなそこに沈んだこの巨大な都市も、深い緑色の中で静かに眠っている。

 目を閉じて眠っているはずなのに、僕の目にはそれがはっきりと見えていた。

 海底深く眠るこの冷たい石の都市に、の光など届くはずもないのに。


 何故なら、これは夢だからだ。

 夢なのだから、暗闇の中に色を見た所で何の不思議もない。

 だが、何を待っているというのだろう。僕は。

 誰を待っているのだろう。


 原初の生命よりも古いこの都市には、もう誰もんではいない。

 生きている者は、誰も。

 もし棲む者がいるとしたら、それは死んだ者の夢だけだ。


 死んだ夢でも、生きている。

 待っている。

 すべての命が死に絶えるその日まで。


 夢見ながら待っている僕は、いったい誰?

 この夢は、だれの夢?


ーーこの夢を見る者は。


 広大な都市全体が震え、答えようとする。

 巨大な何かが身じろぎし、目を覚ます。

 見たこともない山のような巨体が、ゆっくりと起き上がろうとしている。


ーー待っている、我は。


 死んでいた都市も目を覚まし、冷たい海の底から浮上し始める。


 死体のように閉じていた僕の唇がゆっくりと開き始める。

 咽喉のどをふるわせて、声を出す。

「僕は」

 答えようとする、僕は誰だ。



 1    *     *     *



「やはり熱がありますね」

 体温計の水銀を見た医師に言われる前から、自分でもそんな気がしていた。

「でしょうね。ゆうべ、夢を見ましたから」

 重だるい体をベッドに横たえたまま、答える。

 吐息も熱を帯びているのがわかった。

「夢ですか」カルテに体温を書き留めていた医師が僕の方を見た。

「海の夢です。同じような景色を繰り返し、夢に見るんです。すると決まって、翌日には熱が出て、具合が悪くなる。以前は、そんなことはなかったのですが」

「天候の関係かも知れませんね」

 ふちの細い眼鏡に手をやって、まだ若い医師は窓の外の海を見た。

「昨夜はずいぶん荒れていましたから。今朝も波が高い。おそらく、気圧の影響を受けているのでしょう。熱が下がるまでは安静にしていて下さい。あちらの方も、しばらくはお休みで」

 頭を枕に沈めたまま、医師の見やった方を僕も見た。

 ベッドサイドテーブルの上には、開いたノートと、万年筆と、何冊もの本が置きっぱなしになっている。

 医師の隣りに控えていた看護婦が、静かにそれらを片付けた。

 それから手早く氷嚢の準備をして、僕の額にあてがう。

 病室の端に置かれた書き物机の上に、ノートと本と万年筆が並んで、僕の手はもう届かない。

 医師もカルテを閉じると、看護婦を引き連れて病室を出て行った。

 氷嚢の冷たさと、頬にかすかな風を感じた。

 病室の窓は開いたままだった。

 医師の言っていた通り、三階の窓から見える海は荒れて白波が立っている。

 ベッド上での安静を言い渡されてしまえば、あとはもう、こうして外を見るほかに体の自由はない。

ーーいや。

 体は不自由なベッドの上でも、頭はむしろ自由だ。

 目を閉じて、遠く、思いをめぐらせる。


 あの海の底の景色は、どんなだったろう。

 エメラルドグリーンに満ちた都市の光景は、広がりは。

 そこで僕はどんな夢を見たのか。

 思い出せないなら、覚えていないのなら、思い描けばいい。

 氷嚢と風の冷気が僕の中で深海水の冷たさに変わる。

 ここで僕は誰のどんな夢をでも見るだろう。

 思いの及ぶ限り、どこまでも遠く、広く、高く、深く、果て無く。

 そうして僕は小説を書こう。僕の、僕だけの世界を作る、そのための言葉……


 伸ばした手は、けれど何もつかめなかった。

 ベッドサイドテーブルの、いつもの場所に僕の万年筆はなかった。

 あふれる言葉は書き留められることもできずにひたすら頭の中を回り続けている。

 ただ、ぐるぐると。

 だけど、それが心地いい。

 胸の中の世界もさわさわと波立っている。

 窓の外の海のように……。

 いつの間にか額から氷嚢が落ちて、枕を濡らしていた。

 手にとって、自分で頭に乗せる。

 熱が下がったら、また書こう。

 それまで忘れないように。

 もう一度、僕は目を閉じて、いくつもの言葉たちをつまみ上げては、こつこつと世界を築き上げる作業に没頭していった。



 2    *     *     *



 ときどき微熱が出て、体調もすぐれなかったのをだましだまし勤務を続けていたが、授業中に生徒達の前で喀血してしまっては誤魔化しようもなかった。

 すみやかな退職を勧めてくる学校側に対し、兄は面目からか形ばかりの抗議をしたが、僕にはむしろ好都合だったから、双方の顔を潰さぬよう切りのいいところで辞表を提出して下宿も引き払った。

 やがて兄は、僕が家業の役に立てないのを肺病のせいにしておけば世間体もそう悪くはないと思ったか、こちらで良い療養所を見つけたと言ってきたので、そこへ僕は入院することになった。

 これ幸いと、荷物の中に読みかけの本と、既に何度も読み返した本と、買ってきたまま開いてすらいなかった本と、それから真っさらのノートとインクと万年筆とを詰め込んで、体だけは熱と咳とに痛めつけられながらも浮き立つ心を胸に抱えて、夏の終わる頃に僕は故郷の近い海辺の療養所に入った。

 日がな一日、ベッドの上で好きなだけ本を読んで、思考を自由にめぐらせては小説を書く。

 そうしているだけで食事が出てきて、あとはもう、僕をわずらわせるようなものは何もなかった。

 消灯時間後と医師の診察中だけは何もできなかったが、学校の仕事に比べれば何ほどのこともない。

 勤務中だとか、明日に差し支えるからここまでとか、そんな配慮も何もいらない。

 読むのも、書くのも、ひたすら自由だった。

 いつからでも、いつまででも、読んで、書いていられる。

 講師をしている間も書くことは続けていたが、時間も何もかも全く足りてはいなかった。

 いまや時間はいくらでもあり、とめどなくあふれる物語を押し殺して従事すべき職務もない。

 そうして書き留めながら、その世界に頭と心の全てをゆだねる。

 そこはどんな風景なのか。彼が、彼女が見ている光景は、思いは如何なるものなのか。

 ひとつひとつを確かめるように、頭に思い描きながら、言葉を積み重ね、あるいは削り落とす。

 熱で安静を命じられ書くことはできない時にも、ひときわ胸はざわついて鮮烈な情景をあふれさせ、ベッドの上で病室の天井を眺めながらも、熱を帯びた僕の頭はいっそう深く明晰にその場面を言葉で紡ぎつづける。

 いつでも、いつまででも、今の僕にはそれができる。

 今までなんて不自由だったのか。

 こんな自由なくして、いったいどうやって生きていたのだろう。

 数日で熱は下がり、すっかり氾濫してしまった言葉を手当り次第にノートに書きつけていた僕に、医師は病室の外を少しずつ歩くようにと命じた。

 まだ若いし回復も早いのだから、完治してのちのことを考えれば、ちょうど秋が来て季節も良い頃だし今から少しずつでもリハビリを始めておいた方が良いのだという。

 手始めに、病棟の廊下を何往復か歩かされ、それで熱や咳の悪化がないのを確かめてから、今度は療養所のすぐ側の海岸を看護婦や医師に見守られて少しだけ歩いた。

 初めは、書き物をする時間が減るのが惜しいとしか感じられなかったが、歩いていてもベッドで寝ていても頭の中であれこれと考えるのは全く同様に自由だと気づいて、かえって外出が楽しみになった。

 それでも、どうしても、思いついたことをすぐに書き留めたくなる時もあったので、僕はワイシャツの胸ポケットにキャップをつけた鉛筆と小さな手帳を入れておいて、時折その場で立ち止まっては書き付けた。

 看護婦はそれを見とがめて、ちゃんと歩くようにと文句を言ったが、やがて何度も繰り返すうちに何も言わなくなった。

 医師も、そのことを聞かされても、ただ苦笑するだけだった。

 


 3    *     *     *



「時間ですよ」

 呼ばれたのに気づかないまま、海岸を歩き続けていた。

「沢木さん。終わりですよ」

 振り返ると、懐中時計を手にした看護婦が手招きしていた。

「帰りましょう」

 意識を現実に引き戻して、周りを見た。

 凪いだ海を前にした浜辺のすぐそこに、木製の小舟が置かれていた。

「……少し、休んでからでいいですか」

「どうしました? 疲れましたか?」急ぎ足で看護婦が近づいてくる。

「いえ、違います」小舟に歩みより、腰掛けた。

「大丈夫ですか?」すぐそばまで来た看護婦が僕の顔を覗き込む。

「ええ」

 胸ポケットから手帳を取り出して開くのを見た看護婦があきれ顔になる。

「またそれですか。いつもいつも、何を書いてらっしゃるんです?」

「いろいろです」鉛筆のキャップを外し、思いついたばかりの言葉を書き留める。

「恋愛小説ですか」

 小説だということだけは、ばれていたようだ。

「いま書いているのは、おとぎ話です」

「おとぎ話って、むかしむかしあるところにって、あれですか?」

「そうです。イギリスのおとぎ話で、竜が出てきます」

「敵国のお話じゃないですか」

 そういう見方をされてしまうのか。

「……ええ。ですが同じ話を書くつもりはないので、いろいろと考えているんです。大昔の英雄が、竜と戦って倒す話です」

「ヤマタノオロチの話みたいですね」

「ヤマタノオロチは飛びませんが」

「イギリスの竜は飛ぶんですか?」

「ええ。そうです」

「それはオロチ退治よりも大変ですね」

「……そうですね」


 手帳に書き付けた文面から顔を上げた。

 胸から息を吐き出し、高く澄んだ秋空を見上げ、思い描く。

 翼を持ち空高く飛ぶ竜と、太古の勇者の戦う光景を。

 その情景が眼前に浮かぶように。

 読む人の脳裏に見えるように。伝わるように。

 そのための言葉をいつも探している。

 この世のどこにもない光景が、ここにあるのだと訴える、言葉。

 それにはまず僕自身が僕の中のイメージを、明らかに、細やかに、見なければならない。

 黒光りする鱗に覆われた巨大な胴体と、それに不釣り合いな小さく短い前脚に、巨体を支えるたくましい後脚と、皮膜がついたコウモリのような翼を大きく広げて飛ぶ竜と。

 その翼竜に、ただ一人立ち向かい、戦おうとする者と。

 今はもうおとぎ話の中にしかいない、その英雄の姿とは、どんなものなのか。

 人間が、大空を自在に飛び回る巨大な竜と、その身ひとつでどうやって戦うというのか。

 思い浮かべようと、首が痛くなるほど見上げた空にーー



 空を舞う銀の影が、イメージに重なった。


 

 聞こえていたはずのプロペラの音には全く気づかなかった。

 いつの間にか背後を振り返っていた看護婦が、片手をひさし代わりに太陽光をさえぎり、空を見上げている。

 僕たちの真上を、内陸側から海上へ向け、思いのほか軽快なエンジン音をたてて戦闘機が上空を飛び過ぎていった。

 銀灰色と深緑とに色分けされた胴体と、翼に描かれた赤い丸印が見えた。

 軍の飛行機は深緑色だとばかり思い込んでいたが、胴体と翼の腹側だけは灰色に塗り分けられているのをその時初めて知った。

 やがてひらりと機体をバンクさせ、無数に浮かぶ小島の上を旋回しながら飛んでゆく。

 太陽の光を受けて、翼がきらりと輝いた。

 銀色に。

 みるみる小さくなってゆく機影を二人で見送った。

「……珍しいな」

「そうですか? ああ、沢木さんはまだ外歩きを始めたばかりだからですかね。時々、ああして水島の飛行場の方から飛んできますよ」

 思わずつぶやいた僕に、看護婦がそう答えた。

「水島の飛行場って、海軍のですか?」

「そうでしょう? だって、飛行機なら海軍でしょう?」

「いや……飛行機なら陸軍も持っているでしょう」

「えっ? そうなんですか?」

「……さあ、たぶん……」だんだん受け答えが上滑りになってゆくのが自分でも判った。

 手帳を閉じて、鉛筆をしまう。

「部屋に戻ります」座っていた小舟の、ふなべりを握って立ち上がる。

 その指先で、イメージを掴み取れた気がした。

「もう、書くのはよろしいですか?」

「はい」

 いや。

 本当は、もっと書きたい。

 だからこそ、こんな小舟に腰掛けたままでは書けない。

 看護婦の先に立って、病棟へ戻る。

 いい加減、帰りたがっているであろう彼女を気にかけるのもごめんだ。

 さわさわと胸の内で揺らぎつつ沸き上がるものを抑えながら、抱えながら、歩いた。

 空をゆく翼竜を、僕のイメージに捉えて、それから。


ーー彼も飛べる。


 僕の両肩の付け根から翼が生え、そのまま大きく引き延ばされてゆく。


ーー飛ぼう。


 いずれそのままの話を書くつもりなどなかったのだから、いっそどこまでも自分のイメージを自由に繰り広げてしまえばいい。

 銀色に輝く翼を背に持つ男は風を蹴って舞い上がると、大顎を開いて牙を剥き襲いかかる黒い竜と真正面から切り結ぶ。

 つかみかかろうとする左右の鍵爪を剣で受け流し、逆刺のついた長い尾がすれ違いざまにうなりを上げて叩き付けてくるのを危うい所ですり抜ける。

 垂れ込める雷雲の中から稲妻を掴み取ると、さらに速度を増して疾風に乗り、翼竜のはるか上空へと駆け上がった。

 下腿が風を受ける。肩甲骨が羽ばたく。

 竜の頭上で身をひるがえし、加速度をつけて駆け下りた。

 その手に掴んだ稲妻を黒い翼に叩き付け、砕く。

 片翼を奪われた怒りに咆哮しながら真っ逆さまに竜が地に落ちた。

 墜落してなお猛り狂う翼竜の前に降り立つ。

 腰を低く落とし、身の丈ほども長く大振りの剣を両手で構え、切っ先を竜の目と目の間に向けて突きつける。

 真っ赤な口腔を見せ、黒竜が吠える。

 ぎらつくその目と対峙する。

 銀の翼を広げ、両脚に力を込めて、立っている。

 まるで僕自身が戦っているかのよう。

 歩いて帰る間も、僕の中でひたすら広がるイメージはとどまるところを知らない。

 さらさらした砂浜を、足裏でしっかりと踏みしめながら歩く。

 そうでもしないと僕の体が浮かび上がってしまいそうだ。

 奥歯をかみみ締め、両手を軽く握って手のひらに爪を立て、心を身体につなぎ止める。

 頭頂部からあふれる情景が、かすかに両腕をしびれさせながら水のように流れ落ちていくのがわかる。

 僕の幻想が僕の胸骨を内側からこつこつと叩いている。

 音を立てて広がる物語が胸郭に響いて震わせる。

 震えている。

 だが、それは決して不快なものなどではなかった。


ーーこれがあるからこそ、書けるのだから……


 病室まで戻るとベッドの上でうつ伏せになり、その有様を思い出しながら手帳に書きつけた。

 いつの間にか、もうノートよりも手帳の方が僕の世界という気がしてきていた。

 時折、書く手を止めて目を閉ざし、手探りするように情景を組み立てながら思い描く。

 物語の終わりはまだ見えない。

 終わりなんて、見えなくていい。

 今、心に浮かぶものだけが、すべて。

 はやる気持ちを抑えられない。

 頭と記憶の中を発掘する。

 化石でも宝石でもいい。

 ここに置かれるべき言葉を必死で探し続ける。

 そうして戦っているのは、僕だ。

 いま見たあの光景を掴み取るためにーー


 そうやって、僕だけが見た世界にふさわしい言葉をひたすら追い求め、ときおり頭を抱えながら、時間も忘れて書き綴った。

 子供のように、いつまでも。ベッドの上で。



 4    *     *     *



 いつものように、夢の中の僕は海底に沈む広大な都市とともに眠っていた。

 エメラルドに染まる水底の様子は、しかし今までの夢とは違っていた。

 都市の真ん中の、いちばん奥深く、大きな二枚貝が静かに横たわっていて。

 かすかな銀の光が、はるか頭上から降っている。

 目を閉じていても、その銀色が海の中で雪のように降り積もってゆくのが僕には見えていた。

 都市にも、僕にも、二枚貝の上にも、きらきらと銀色が降りそそぐ。

 やがて、貝の口がそっと開いた。

 

ーー思った通りだ。


 貝の中から生まれたのは、やわらかな乳白色に輝く大きな真珠だった。

 深海の闇の中、その上から絶え間なく降る銀色をうけて真珠は輝き続ける。

 僕の胸の中でも、ぼうっと何かが光っている。

 呼び合っている。

 それが、嬉しい。

 僕も、都市も、一緒に夢見ながら待っている『それ』も、喜んでいる。

 嬉しくて、心が浮き立つ。

 そうだ。

 浮かび上がろう。

 海の上へ。

 まだ『その時』にはずいぶん早いが、本当の目覚めまでには時間はあるが、少しばかり寝返りをうってもいいだろう。

 我が呼び声を聞く者に、ほんの少しばかりの、夢を見せてやろう。



     *     *     *



 じわりと沸き出す汗の不快さで目が覚めた。

 夜の病室を、ベッドサイドテーブル上の明かりだけが照らしていた。

 枕の上に手帳と鉛筆が転がっている。

 ワイシャツのまま着替えもせず、ベッドの上で書きながら、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。

 ずっとうつ伏せで負担がかかったのか、胸が重苦しかった。

 軽く咳き込みながら起きあがり、汗ばんだ下着とワイシャツを脱いで、着替える。

 もうとっくにそんな季節でもないはずなのに、蒸し暑さを感じた。

 病室の窓は閉まっていた。


ーーそれでか。


 歩み寄り、そっと窓を開けてみた。

 真っ暗な夜空と真っ暗な海だけがあった。

 星も月も何も見えない。

 海からの風も、ない。

 ただ、べったりと。

 何もかもが動きを止めている。

 いや。


ーーいる。


 きらりと光った。

 目を凝らして、見る。

 真っ暗な夜空に、ただ一筋の銀の光。

 海岸線に沿って真っ直ぐに飛んでいる。

 僕から見て右手から左へ。

 銀色の翼の飛行機がーー

 なのに、なぜかプロペラやエンジンの音は全く聞こえてはこない。

 こんなに静かな夜だというのに。

 その静けさの中で、僕の呼吸と心臓の鼓動だけがやけに大きく響いた。


 呼ばれている。

 呼び合っている。

 夢の中のようにーー


ーー僕はここにいる。

 

 夜空に向かって声を上げ、銀色に呼びかけたかった。

 大きく息を吸い込んで、だが次の瞬間、出てきたのは激しい咳込みだった。

 乱れた呼吸が病んだ肺から血痰混じりに吐き出される。

 窓枠に寄りかかり、右手で胸を押さえて息を整える。

 冷たい秋の夜風が僕の肺を乱暴に揺さぶった。

 けれどどうにもたまらなくなって、窓から身を乗り出した。

 機体はどんどん遠ざかってゆき、やがて見えなくなった。

 それでも、僕は窓から半身を乗り出したまま、銀の光が飛び去っていった空の彼方からいつまでも目が離せなかった。



 5    *     *     *



 夢の後にも関わらず熱はなかったので、外歩きのできる様にワイシャツに着替えて医師の回診を待った。

 またいつもの夢を見たこと、そのあと夜中に目が覚めて飛行機が飛んでいるのを見た話をすると、看護婦はそれも夢なのではないかと笑った。

「夢では着替えはできません」脱いだ衣服は朝食前に洗濯婦に渡してあった。

「でも夜中だと、どこを飛んでいるかわからなくなるんじゃないんですか? 真っ暗なのに」

「レーダーとかいうのがあるんじゃないんですか? たぶん……いや、僕も知りませんが」

「夜戦かな」

 医師がカルテに書き込みながら誰に言うともなく小声でつぶやいた。

「夜戦?」

 僕と、それから看護婦の視線に気づき、彼はカルテから顔を上げた。

「……ああ、夜間戦闘機というのがあるんです。二人乗りの戦闘機で、夜に飛ぶために、後ろに航法士を乗せるんだそうです」

「昨日の昼間も飛んでいましたね」頭上を飛びすぎる銀色の機影を僕は思い出す。

「いや、あれは通常の戦闘機でしょう。単座でしたし」

「先生、お詳しいんですね」

 そう看護婦に言われて、医師は少し照れたように目を伏せてカルテを閉じた。

「好きだったのですよ、飛行機が。子供の頃は戦闘機乗りになりたくて。でも、親は猛反対で。うちは代々、医者の家系でしたから。……もっとも」

 ペンを胸ポケットにしまい、苦い笑みを薄く浮かべて彼は眼鏡の縁に手をやった。

「私は、これでしたからね」

 確かに目が悪くては、飛行機乗りは無理だったろう。

 まして医者の家系では、夢を口にするだけでも大きな苦悩と確執があったはずだ。

 だから結局、実現はしなかった。

 それでも彼の中の憧れだけは死に絶えることはなかったのだ。 

 いまでもーー。



 黒縁の丸い眼鏡をかけた男の子が空を見上げる。

 視線の先に、銀色に輝く翼の戦闘機が大空を駆ける。

 はてしない憧れを込めて、彼は複座式の夜間戦闘機を見つめ続ける。

 その後席に座っている人影が、見えた。

「あれはーー」


ーー僕だ。

 

 後席に僕を乗せた戦闘機は男の子を地上に置き去りにして、海の彼方へと飛び去ってゆく。

 あの夜間戦闘機は僕をどこへ連れてゆくというのだろう?

 僕をどこかへ連れてゆこうとしているのは誰だ?

 前席にいるのは誰?

 目を凝らして見ようとしても、そこにはただあやしい銀色の光があるばかりーー



 その光景が、病室にいる僕の目にはっきりと映った。

 頭がぐらぐらして。

 急激に広がる情景がぞわりと背を震わせる。

 胸の奥底からあふれだす幻想に突き上げられて身体の重心がぶれる。

 脚に力が入らない。

 ふらついて、壁に寄りかかりそうになる。

「沢木さん」医師が気づき、声をかける。

 ベッドの手すりを掴む。

「大丈夫ですか」

 指先に、力を込める。

 倒れないように。

 自分の手のひらが手すりを掴み、腕がそれを支えて、肩までちゃんとつながっているのを意識する。

 眼鏡の奥から、医師の目がこちらを見ている。

 ゆっくりと、静かに息を吐く。

 見透かされないように。

「ええ、大丈夫です」

 白くなった指の関節を見つめながら答えた。

 だが、医師は再び胸ポケットからペンを取り出した。

「今日は歩くのは、お休みにしましょう」

 カルテを開き、書き込む。

「でも、熱はありません」

「……いや、やはりやめておきましょう」医師は僕から目をそらして窓の外の海を見た。

「風が出てきている。これからまた荒れるでしょう。熱も上がってくるかも知れません。昨夜も夢を見たようですし。顔色もあまり良くない。大事を取るにこしたことはありません。今日は安静にしていて下さい」

「……わかりました」

 再びカルテを閉じて、医師は出ていった。

 看護婦がまたノートと万年筆を部屋の隅へと片付け、窓を閉めると、医師の後から病室を出た。

 ため息をつき、ベッドに腰掛ける。

 こんなことは前にもあった。

 病気になる前から、何度も。

 仕事の合間にも不意に浮かび上がるイメージがあまりに鮮烈で、内側から揺さぶられてぐらりとくる。

 まざまざと立ち現れる情景が脳裏をよぎって、眼前の現実を打ち消そうとする。

 それでも、目の前には生徒達がいて。

 他の教師達がいて。

 だから、万が一にも気取られることのないように、ゆらぎを見透かされることがないように、こらええていた。

 教卓の端を手で掴み。

 脚に力を込めて、立つ。

 なのに、さっきはそれができなかった。

 病気で弱っているからか。

 それとも。

 ここなら堪える必要がないと、わかっていたからか。

 好きなだけ幻想に身をゆだねていても、誰もとがめはしないからか。

 だとしたら。

 目を閉じて、ベッドに仰向けに倒れ込む。

 力を抜いて手足を放り出し、すべての息を胸から吐き出す。


ーーずっとずっと、本当は、こうしていたかった。

ーーひと目もなにも気にせずに、時間を忘れ、野方図に、自分だけの幻想にひたすら溺れて……


 胸元で何かがこそりと動いた。

 目を開くと、胸ポケットから手帳と鉛筆が顔をのぞかせていた。


ーーそうか。


 これから歩く予定だったから、ワイシャツに着替えて手帳と鉛筆もいつものようにポケットに入れてあったのだ。

 

ーーこれがあれば。


 まだ何も書かれていないページを開いて、鉛筆を手に取る。

 昨日のようにベッドの上で書こうとして。

 突然、激しく咳き込んだ。

 またいつもの、と思ったが、違った。

 何十本もの焼け火箸を同時に胸に突き込まれ、肺を焼き焦がしながらずたずたに引き裂いてゆく。

 肺の奥の、気管支の細かい分岐をひとつ残らずひしぎ潰しながら一斉に患部が破裂した。

 辛うじて朽ち果てずにつながっていた虚ろな臓器が全てあっけなくむしり取られる。

 ざっくり開いた傷口から鮮血が吹き出した。

 こみ上げてくるものを押しとどめることができない。

 止まらない。

 とめどなく、あふれ返る。

 息ができない。

 枕も、シーツも、手帳も真っ赤になった。

 それでも。


ーーいやだ。


 それでも僕は鉛筆を手にとろうとして。

 なのにそれが掴めなくて。


ーー書きたい。


 引きつる指先をすり抜けて鉛筆が床に落ちる。

 手が届かなくなる。


ーー書きたいんだ。


 ベッドに倒れ込んだまま床に手を伸ばす。

 届かない。

 書きたいのに。

 また激しく咳き込む。

 床にも血だまりを広げながら。

 体ごと僕も落ちる。



「沢木さん、どうしました」

 ドアが開いて看護婦が入ってきた。

 床に落ちたままの僕はもう返事もできない。

 あとからあとから出てくるのは咳と血ばかりだ。

「先生、来て下さい」

 ドアの外に向かって看護婦が叫ぶ。

「先生。早く来て下さい、先生」



 僕の胸の中からごっそりと無慈悲な手でえぐり取られる。

 灼けるように熱い血と混じり合い、吐き出される。

 失いたくない。

 失われる。

 僕の中から。

 僕がーー


 そのまま昏倒した。

 


 6    *     *     *



 丸二日たってようやく少し意識を取り戻したが、熱は下がらないままだった。

 溶けかかった氷嚢を乗せたままの頭をそっとめぐらすと、ぼやけた視界の中、ベッドサイドテーブルの上には僕の手帳だけが置かれていた。

 血だらけになってしまった寝具類と一緒に掃除夫が捨てようとしていたところだったのを、看護婦が見つけてくれたのだと回診の時に医師から聞かされた。

 だが、血まみれの手帳は乾き切り、全部がくっついたページを開くことはもう二度と出来はしないだろう。

 そうして僕の手帳の中の世界は窒息して死んだ。

 失われたのは手帳の中身だけではなかった。

 高熱と喀血と、激しく続く咳が僕の体力を根こそぎにした。

 身体の上に大岩を乗せられているかのようで、ただ息をするだけでも苦しくて、寝返りひとつ打つにも全身であえいだ。

 熱に浮かされた頭は体の苦痛だけを流し込まれ、縛られるばかりで、何一つ考えることさえできない。

 微熱だけでベッド上の安静を強制されながらも自由に空想し言葉を紡いでいた頃のイメージはもう、なかった。

 兄には連絡をしたが所用で来られないと返事があったと、看護婦が小声で医師に話すのを聞いた。

 医師はまたあらためて電報を打つよう指示していたが、僕はそんなものだろうと思っていたから、どうと言うこともなかった。

 病室の窓は閉め切られ、外の景色も風も入ってこなくなった。

 夜になっても、熱のせいか眠りが浅く、酷い呼吸苦と肺が裏返るほどの咳で頻繁に目が覚めた。

 気がつくと、僕は灰色の壁に囲まれた狭い部屋に一人で閉じ込められていた。

 僕の中の情景は、今やそれしかなかった。

 時折、そのセメントの壁が部屋ごとひどく揺れてひび割れることがあったが、それはただ僕が激しく咳き込みながら喀血しているだけのことだった。

 ひび割れた壁の中から、僕がかつて見た世界の光景が夢のように現れることがあったが、すぐに砂になって崩れ落ち、指の間からすり抜けて消えた。

 一瞬その景色が確かに見えたと思っても、掴み取ることもできずに、全て目の前から消失する。

 何度も。何度も。

 すべてが雲散霧消する。

 僕だけの世界が。全部。

 日々、病勢に喰い荒らされて空洞になっていくのは、僕の肺だけではなかった。

 毎夜毎夜、そんな幻視ばかりに塗り込められていたが、やがてそれすら見えなくなり、暗い灰色の焦燥だけがおりのように僕の胸に振り積もり、苦しめた。

 

 どうしてもっとちゃんと書いておかなかったのかと。

 最初から最後まで、せめて一つ。

 あんなに心躍る物語があったのに。

 あんなにあざやかな景色が広がっていたのに。


ーーいや、そうじゃない。


 鮮やかすぎて、苦しかった。

 あまりに激しく響き渡り、吹き荒れる光景に翻弄され、耽溺するだけで日々を終えていた。

 だが、そうして自分の中でうず巻いているものを、ただ目の当たりに立ち尽くして途方に暮れているだけではだめなのだ。

 逆巻く渦と組み合って、そこにあるものを掴み取り、言葉に替えて書かなければ何にもならない。

 僕自身が何にもなれない。

 そんな自分が情けなくなるだけなのだから。

 後悔しか、残らないのだから。

 やっとそれに気づけたのに。

 だから僕はずっと、僕の中で密かな戦いを続けていたのに。

 紙の上に言葉を叩き付け、僕はずっと叫んでいた。

 そう。あれは僕の叫びだ。

 なのに僕の心が描いた世界は何一つ形になっていない。

 この手はもう、あの情景を掴み取ることができない。

 繋ぎ止めて、言葉に置き換えることができない。

 手当り次第に書き散らした手帳とノートがあるだけで。

 なんにも残りはしない。

 涙がこぼれた。


 身体の自由が奪われているからなんだと言うのか。

 それよりも自由に羽ばたくイメージの力が失われる方がずっと致死的だ。

 ばらばらになって、散るーー

 このままこうして溺れることすら出来ずに沈んでゆくのだ。



 僕の中に最後に残された景色が、また、激しく揺れた。

 どこからも光の射さない暗がりで、セメントの壁がとうとう崩れ落ちた。

 その中から、かすかに光る丸いものがこぼれ出た。

 灰色の割れ目から、たった一粒、白い小さな真珠が転がって、落ちてゆく。

 沈んでゆく。

 二度と浮かび上がることもない底なしの暗闇に……



「ここにいた」


 声が聞こえた。


「私が引き上げる」


 白い手があらわれる。

 やわらかな手のひらが真珠を受け止める。

 いとおしげに微笑んで、真珠を見つめる。

 その顔、その瞳。

 銀色のーー



 僕は目を開いた。

 


 病室のベッドに横たわる僕の目の前に、その顔があった。

 女だった。

 僕の頭のすぐ横に手をついて、覆い被さるようにして、僕をのぞき込んでいる。

 輝く銀の長い髪がまっすぐに、僕の顔の真横に流れ落ちている。

 見つめる瞳も銀色だった。

 明かりひとつない夜の病室でも、どこからかの光に照らされているかのように、それがはっきりと見えた。

 その銀色に、確かに見覚えがあった。


ーー飛び過ぎてゆく夜間戦闘機の前席に……


 僕の胸が大きく鼓動を打った。

 すべての音が消えていて、僕の鼓動だけが病室中に響いていた。

 ゆっくりと、息をする。

 押し潰されるような呼吸苦も、身をく熱も消えていた。

 澄み切った夜の冷気だけが僕を包む。

「君は……」

 心地よい夜気を吸い込んで、僕は女に呼びかけた。

「ずっと、叫んでいたでしょう」そう言って、僕の胸に、女が手を触れた。

「え?」

「叫んでいるのが聞こえた」



ーー叫んでいるのが、聞こえていた……



「あ……」僕の目が大きく見開かれた。

「引き上げよう」

 白く冷たい手が、僕の寝間着と、皮膚と、胸郭と、肺を通り抜けて忍び入り、それを掴み取った。

 痛みも不快感も、なにも感じなかった。

 そのままするりと抜き出す。

 ベッドに横たわった僕の目の前に取り出された、それ。

 銀の女は僕の横に座り直し、見せた。

「ほら」

 女の手のひらほどの大きさの、白いあこや貝。

 やや長い爪を立てて、こじ開ける。

 僕もベッドから起き上がり、見守る。

 かつん、と硬い音を立てて蓋が開いた。

 女は貝の中をのぞき込み、微笑む。

「素晴らしい」

 僕を振り返り、差し出した。

「ご覧なさい」



「これがあなたの幻想」



 コンパクトのように立てて開かれたあこや貝の中に。

 淡い乳白色に輝く一粒の真珠が眠っていた。

 真夜中の病室の闇の中、その丸い光だけが僕たちを照らしていた。



 再びコンパクトのように貝を閉じると、銀の女は上着のファスナーを開け、大事そうに胸元にしまい込んだ。

「おいでなさい」

 ベッドから立ち上がり、僕の手を引いた。

「……どこへ?」

 問いかける僕に、彼女は黙って病室の窓の外を指差した。

 ずっと閉め切られていたはずの窓は開いていた。

 その向こうに。



「夜間戦闘機……」



 あっけにとられる僕の目の前、銀色の機体が病室の窓の外にあった。

 通常の深緑色の塗装は一切されておらず、主翼や胴体の赤い丸の塗り分け模様もなく、プロペラの一枚に至るまですべてが銀色だった。

 その銀一色の機体が三階の窓の外、支えも何もなしに、ゆったりと浮いている。

 二枚の主翼それぞれの真ん中よりやや胴体よりの部分にエンジンカウルがついていて、その前に取り付けられた三枚羽根のプロペラが、とてもゆっくりと回っている。

 前席と後席と、二カ所に別れて風防が開いている。

 夜間戦闘機の主翼が胴体との間で橋を架けるようにして病棟に横付けされている。

 ふわりと、その戦闘機の方から夜風が吹いて、女の銀色の髪をなびかせた。

 その風に導かれるように女は窓辺へと歩み寄ると、振り返ってもう一度僕を呼んだ。



「おいでなさい」



 ガラスをはった風防が二カ所、指示棒に支えられて上向きに高く開いている。

 そうして手招きしている。

 僕をーー



「少しだけ、待って下さい」

 女に告げて、僕はベッドから降りた。

 一瞬、彼女は首をかしげたが、すぐに小さく頷いた。

 壁にかけてあったハンガーからワイシャツとズボンを取る。

 寝間着を脱いでベッドに投げ、手早く着替える。

 これを着るのは何日ぶりだろう。

 一週間か、十日? いや、もっと?

 さらりと乾いたワイシャツが肌に触れるのが心地よかった。

 そのまま、窓際で待っている女のところへ行こうとして、ベッドサイドテーブルの上の手帳に目が止まった。

 少し考えて、血糊で固まった手帳を手に取って、ワイシャツの胸ポケットに入れた。

 病室の隅、書き物机の上の筆箱から短めの鉛筆を一本だけ選んでキャップをつけ、これもポケットに。

 これで、いつも通りだ。

 銀の女を振り返る。

「行きます」

 窓枠の上で背を丸め、ひざを抱えて猫のように座っていた女が、頷いた。



「宴を始めよう」



 病室の窓辺から飛行機の翼の上に乗り移り、銀の女が手を差し伸べた。

 僕の方へ。

 その手を取る。

 窓を乗り越え、僕も病室から出た。

 しなやかな肢体を細身のズボンに包んだ女は主翼を橋のように渡ってゆく。

 僕も後に続く。

 胸が高鳴る。

 ひんやりとした主翼の上を素足で歩いた。

 エンジンカウルとプロペラを左手に見ながらコクピットへ。

 コクピットまで来ると女は機首側へとけ、僕が先に後席に乗り込んだ。

 思っていたよりもずっと狭い。

 女が指示棒を外して風防を閉めると、ひときわ圧迫感が増す。

 後ろは航法士の座席だとは聞いていたが、目の前に並ぶのは僕にはただ複雑な計器の羅列としか捉えられない。

 かろうじてシートベルトを座席の辺りを手さぐりして探し当て、自分で締めた。

 女も前席に乗り込み、風防を閉じた。

 急速にプロペラが回転を上げる。

 驚くほど静かに、機体が前にすべり出た。

 そのまま真っすぐ飛ぶ。

 左前方に明かりが見えた。

 看護婦詰所の窓だった。

 風防のガラス越しに中の様子が見える。

 夜中でもすべての明かりをつけて、数人の看護婦が立ち働いている。

 眼鏡をかけた医師が窓際の席で、カルテを前にして考え込んでいる表情までわかる。

 だが、誰も気づかない。

 機首を上げ、その光景が斜め下にみるみる遠ざかってゆく。

 きっと彼らの前には何もない夜空だけが広がっているのだろう。

 でも、いったいどちらが夢なのだろう?

 右へ旋回して海へ向かう。

 いつも歩いている砂浜に、置き去りにされたままの小舟の上を飛ぶ。

 夜の海に出た。

 うねるような波涛が沖から手前に向けて次々とやってくる。

 波涛の向こうに満月が見える。

 大きな真珠のように白い光を放つ月。

 その月に向かって飛ぶ。

 海の上には何も見えない。

 大小の島々が散らばる海のはずが、島影ひとつ見当たらない。

 上を見ると、風防越しに降るような星が夜空の一面に瞬いている。

 全天の星の光がつめたく僕たちを見つめている。

 なぜか、それにぞっとした。

 再び視線を海に戻す。

 やはり、海の上には何もない。

 数百もの有人島、無人島が散らばるはずの海だというのに。

 見えるのはひたすら次々と押し寄せる波涛だけ。

 対岸にあるはずの四国も見えない。

 ここはもう、僕の知っている故郷の海じゃない。

 わずかな時間のはずが、いったいどうやって、こんなところにまで飛んできたのか。

 前席の様子をうかがう。

 銀の女は、ただ真っ直ぐ前を向いて座っているだけのように見える。

 申し訳程度に操縦桿らしきレバーの上端に手を触れているようだが、それで何かを操っているという感じは全くしない。計器類に目をやる素振りもない。

 こうして乗っていても、プロペラやエンジンの音もほとんど感じない。

 後席のメーター類の針が、ただふらふらと意味もなく、僕の目の前で揺れている。

 なのに夜間戦闘機は夜の海の上をひたすら飛び続けてゆくーー


 それで気づいた。


ーーそうか。

 

 これは「記号」だ。

 記号の飛行機に乗って、記号の海の上を飛んでいるだけなのだ。

 僕が飛行機を見たから、あの夜間戦闘機の話を聞いたから、それに乗っているだけなのだ。

 だが、どこへ?

 前席の女が振り向く。


ーーやっと気づいたの。


 銀の瞳が、そう言った。

 そのまますぐ、前方へ向き直る。

 やがて機体がバンクして、戦闘機はその場で反時計回りに旋回を始めた。

 最初は大きくゆっくりと、そしてだんだんと、バンクがきつくなる。

 旋回半径を縮めているのだ。

 海を見下ろすと、今までは進行方向から手前へ向けて押し寄せてきているように見えていた波涛のうねりが、旋回の中心らしき一点から巨大な波紋のように周囲へ向けて広がっているのがわかった。

 あの中心に、何かがある。

 いや、いる。

 でも、いったい何が?

 旋回半径が一定になり、夜間戦闘機は同一の円周上を回り始めた。

 そのとき、前席の女が風防を開けた。

 飛び過ぎてゆく風が激しく銀の髪を掻き乱す。

 それでも女は強風の中、揺るぎなく、海面を見つめている。

 銀色に光るナイフが右手にあった。

 風に煽られる髪の一房を手に取ると、惜しげもなくナイフで切り落とし、海へ撒いた。

 背まで流れ落ちる長い髪は、さくり、さくりと切り落とされ、みるみる短くなってゆく。

 切られた髪は次々と、風に巻かれ、もつれ合いながら、夜の海へと落ちてゆく。

 真っ暗な夜気の中でも、あやしい月明かりがひどくはっきりとそれを照らし出していた。 

 長かった髪を全て肩口の所で切り捨てると、最後に女は海面へとナイフを投げた。

 ゆっくりと回転しながら、波紋の中心へとナイフが落ちていく。

 銀の刃を飲み込んで、そのまま波紋は消えた。

 でも。


ーーまだ終わりじゃない。


 僕の中に確信があった。

 

ーー宴はこれからだ。


 ちらりと後席を振り返った女の目が、それを肯定していた。

 胸元から白いあこや貝を取り出す。

 女の手の中で、コンパクトのように蓋が開いてゆく。

 ゆっくりと。

 かつん、と硬い音を立てて。

 その中に眠る真珠。

 ただひと粒の、いやーー

 そこから光があふれた。



「これがあなたの幻想」



 蓋が開いた二枚貝から、驚くほど大量の真珠が光り輝く滝となって海へと流れ落ちた。

 ひと粒ひと粒の真珠が月光を受けて乳白色に、透き通る純白に、ささやかな薄桃色に、あるいは淡く青白く、あるいは密かな白銀に、きらめきながら、ざあざあと、真っ暗な海面に向かって絶えることなく降りそそがれる。

 あんなに小さなあこや貝ひとつに、あんなにたくさんの真珠が詰まっていたはずもないのに。

 いくらでも、いくらでも、尽きることなくあふれ出す。

 色合いはさまざまだが、形はすべて完璧に丸い。

 戦闘機の胴体や主翼にぶつかって跳ね返りながら流れ落ち、光のカスケードのように飛沫しぶきをあげている。

 空中でも互いに触れ合い、きらきら音を立てている。

 絶え間なく真珠を降り注がれ、海面は真っ白な波頭で泡立っている。

 その間もゆっくりと、夜間戦闘機は旋回を続けている。

 真珠の流れは止まらない。

 輝くらせんを描いて落ちてゆく。

 幾千、幾万もの言葉が真珠になってーー。



 そう。

 僕はずっと、この真珠を育てていたのだ。

 この胸の中で。

 熱にも血にも汚されることなく、それはずっとここにあったのだ。

 僕の焦燥も、煩悶も、全ては無駄でなかったのだ。



 やがていつまでも続くかに思われた真珠の流れがついに、途絶えた。

 真っ白い波頭が海面できれいな円形に浮かんでいたが、それも消えた。

 ようやく空っぽになったあこや貝を、銀の女が手放した。

 二枚貝は蝶番ちょうつがいからふたつに分かれて、ひらひらとひらめきながら、暗い海へ落ちていった。



 真珠と銀を海へ捧げた女は風防を閉じた。

 やがてとろりと凪いだ暗い海に、どうん、と、ひとつ大きなうねりが現れた。

 波紋のように、それが広がる。

 やがて深海のはるか奥底深くから浮かびつつある何かの光を受けて、海面がぼんやりと透きとおる緑色に染まり始めた。

 その中心から。



 真っ暗な夜の海を貫いて、突き刺さるような緑色の尖塔がすさまじい勢いで夜空を切り裂きながら現れた。

 月明かりに輝く緑の尖塔は何百本、何千本と深海から次々に伸びあがり、それらを支える広大な大地までが海底から浮上して、あっと言う間に水平線の彼方までもあやしいエメラルド色に染め上げた。

 緑色の結晶が僕らの乗る夜間戦闘機よりもはるか上空へと伸びて、剣山のように林立する。

 エメラルドの鋭い尖塔は、しかし、ただそこにじっと立っているだけではなかった。

 緑の結晶が僕の目の前で不意に溶け崩れ、あるいは見る間に高々と背を伸ばし、あるいはふっつりと、折れて消える。

 ぎらりと光り、突如弾ける。

 脇腹が、肩口がふくらみ、横へ手を伸ばす。

 差し出された手を、緑の手が伸びて、握り返す。

 ふたつの塔が身を寄せ合い、ひとつになる。

 唐竹割りにされるかのように、まっぷたつに頂上からかたれる。

 どうしてそこで折れてしまわないのかと、あり得ない角度に折れ曲がって、途中で折れて、曲がって、折れそうで、折れなくて、折ってしまいたくなる。

 それを察したかのように、瞬時に砂になって、さらさらとくず折れる。

 その様子が、まるで緑色の粘液に包まれたようにも見える。

 だが、それすらも、一瞬のちには移り変わる。

 戦闘機に乗って飛び続ける僕らの目の前で、生き物のように目まぐるしくうごめくありさまが繰り広げられる。

 それでも、何故か僕には判っていた。

 これが都市であることが。

 そう、この都市は生きている。

 深い深い海の底に沈んでいる間もずっと。

 そして、ようやっと浮かび上がった都市全体が、こうして息継ぎをしているのだ。

 太古の昔から海底にひそみ、息を止めていたぶんを、今こそ取り返そうと激しく息を吸い込み、寝返りをうっている。

 その間を奇跡のように、銀の翼がすり抜けて飛ぶ。

 エメラルドの塔の密林は、絶え間なく形と高さと密度とを変えながらどこまでも続くかに見えたが、突如、僕らの目の前でふっつりと途切れた。

 


 すっぱりと、巨大な斧で根こそぎにされたかのように、密林の只中に広大な平原が現れた。 

 緑色の結晶の大地の上に、巨大な棺が安置されていた。

 うっすらと淡い銀色に透ける棺の中に。

 長々と、黒々と、触手を八方に伸ばして、『それ』がいた。

 だらしなく伸び切った触手の真ん中に章魚たこのような頭部を、これもだらしなく、ぐてりと放り出している。

 頭部と触手の付け根のーーあえて言うならば両肩の辺りからは、蝙蝠こうもりのような皮膜のついた翼がやや細長く、だが両脇いっぱいに広げられている。

 黒い鱗のびっしりと生えた胴体と、長い鍵爪を生やした太い手足を放り出して、山ひとつほどの面積と高さとを我が物顔に占拠している。

『それ』の前では翼竜ですら、子供だましの小鬼に過ぎない。

 だが、『それ』はぴくりとも動かない。

 死んでいるのだ。

 その巨体が、透明な銀の棺に納められている。

 でも、生きている。

 夢を見ている。

 間違いない。

 何故なら、『それ』が歌っているのが聞こえているからだ。

 透き通る棺と、飛び続ける飛行機の風防越しに、僕の耳に歌が聞こえてきた。



『腑にくるみ

 無垢なる

 苦痛降る

 瑠璃色に

 羽化成る

 孵化する』



「そう聞こえるのね」

 前席から女が振り返る。

 何故か、笑っている。

「何故って? だって……」

 だが、僕は、口に出してはいない。

 なぜ聞こえたのかと問うことすら、愚かな気がした。

 聞こえたのではなく、知っているからだ。

 僕にはそう聞こえるであろう、ということを。

「ルルイエを、瑠璃色とは」

 心底おかしそうに笑う。

「だって、この都市は全く瑠璃色ではないでしょう」

 そうだ。でも。

 僕には、そう聞こえる。

「それに、あれは」

 棺の中の黒い『それ』を銀の瞳で見下ろす。

「あれは、羽化も孵化もしない。神になどなれない。ただ夢見ながら待っているだけの、神官」

 夢見ながら、待っている?

 では『それ』が待っている神は、どこにいる?

「その神は、この地上にはいない。その名を、この地上の存在が知り得るものでもない」

 やはり僕が口に出す前に答えが返ってくる。

「神官クトゥルフですら、その存在をわずかにうかがい知るのみなのだから」

 ならば『それ』はーー僕はいま耳にしたばかりのその名を脳裏に浮かべることすら恐れていたーー何を知り、何を夢見ている?

「すべてを」

 すべて?

「そう。この星の命の、すべて」

 本当に?

「疑うのなら」

 女の顔から笑みが消えた。

 すうっと目が細められ、銀の瞳が凍る。

「見てみるがいい」



 巨大な棺に突如、亀裂が走った。

『それ』が横たわる銀色の棺が微塵に砕け散った。

 飛び散った破片は、しかし、銀ではなかった。

 やわらかく淡い輝きの、真珠に変わって。

 僕らの乗る飛行機に向けて無数に降り注いだ。

 猛吹雪の中を飛んでいるかのように視界が完全に白く埋め尽くされ、ざあっと音を立てて風防に叩き付けてくる。

 きらめく真珠が僕たちの乗る夜間戦闘機の周囲で踊るように舞い散っていく。

 その真珠の表面がすべて磨き抜かれた鏡のようになって、まるで一粒一粒が、こま送りにされた映写機のスクリーンのように、それぞれ全部違った光景を映し出している。

 スローモーションで提示されるすべての場面が、繰り広げられる無数の情景が、僕の網膜から視神経を通って脳へと雪崩なだれをうって飛び込んできた。



     *     *     *



 煮えたぎる大地が豪雨に打たれてようやく冷え、二重螺旋と蛋白質たんぱくしつを溶かした原初の海がこの星の上に生まれた。

 原核生物から真核生物へ、単細胞から多細胞へ、植物と動物と、無脊椎動物から脊椎動物へと進化系統樹を登りつめてゆく。

 繁栄を極め地上を闊歩した巨大爬虫類があっけなく滅び去った後にも、齧歯類げっしるいがしぶとく生き伸び、やがて二足歩行から知性が生まれた。

 火と、言葉と、それから文明を、人類は手にした。

 粗末な小舟に帆をかけて、新天地を求め大海原を征く者たちがいる。

 砂漠のただ中に壮麗な金字塔と獅子人面像とが忽然とそびえ立つ。

 巨大な木馬の中から次々に現れる武装した兵士達が密かに街を占拠する。

 突如として噴火した火山の溶岩が、繁栄を謳歌する都市の住民たちを瞬く間に飲み込んだ。

 北方から幾度となく攻め寄せる蛮族を退けようと、何千里もの山脈沿いに皇帝が城壁を築き上げる。

 小さな鏡を手に太陽光を受け止めた巫女が、初めて女王となり、君臨する。

 金色の小さな仏像が、海の向こうから伝えられた教えと共に寺の奥深くに安置され崇められるようになる。

 何度目かの遷都の末、ついに千数百年のちまでも都となる都市が作られた。

 海で、山で、二つの氏族が争い、あわれ幼帝は女官に抱かれ海底に沈んだ。

 兄に追われた若武者は、海を越えてはるかな大陸の大王となったと言われる。

 つかの間の平穏と、繰り返される争いと、乱世を駆ける梟雄と、あっけなく踏みにじられる者たちと、その中からついに天下を掴む者と、それすらも露と落ち、露と消えた。

 はるかな海の向こうでも栄枯盛衰と勃興は絶えず、薔薇の戦、百年の戦だけでは到底語り尽くせるはずもなかった。

 無数の王と女王と皇帝とが相争い、あるいは手を取り、裏切り裏切られ、あるいは許し、慈悲の欠片もなく報復に及んだ。

 魔女と呼ばれた者、悪魔の使いとされた者たちが次々と、数えきれぬほど火刑に処せられたが、悪魔などどこにもいなかった。

 むしろ神の名を掲げる者たちこそが悪魔よりも残虐に振る舞う光景すら垣間見えた。

 薔薇と讃えられた王妃も無慈悲な断頭台へとおくられた。

 火薬と蒸気と電気の力が瞬く間に世界を変えた。

 西も、東も、北も、南も、世界中が相争った。

 飛行機もその為の道具となり、モロトフのパンかごと二つのきのこ雲を市民の頭上に放り投げた。

 冷たい戦争が世界を覆い、それでも局所的に火を噴いて、いくつもの国を分裂させた。

 冷たい戦争が終わっても、かえって火種は増えるばかりのようで。

 原子の光は手にしたものの、時折、それもやっかいな暴走を繰り広げた。

 どれほど発展した力を手に入れても、それをはるかに越えた自然の猛威が多くの命をあっけなく奪った。

 またしても飛行機は武器に仕立てられ、多くの人々を乗せたまま叩き付けられ、高くそびえた双子の塔は燃え上がり、崩れ去った。

 それでも人類は月を越え、宇宙に至り、電子に情報を溶かして地球全体に張り巡らせ、ついには雲に浮かべた。

 

 やがてーー


 人はついに人工の体と知性とを作り上げ、わずか三つの原則だけを守らせて後は自由に生きさせた。

 生まれることのなかった命と、とうに滅び去った命も、二重螺旋から紡ぎだすすべを手に入れた。

 そうして得た肉体すらも脱ぎ捨てて、人は自分自身を情報に変え、電子の海で永遠に生きる夢を現実のものにした。

 海から生まれ、海へと還るのだ。

 

 それらすべて、いや、もっともっと無数の情景が、ひと粒ひと粒の真珠に映し出されていた。

 ほんの小さな、一人一人の命の生き死にまでもが、ひとつ残らず。


 災厄と、祝福と。

 絶望と、歓喜と。

 歓声と喚声。共感と叫喚。

 昏い、太古からの歴史も。

 はるかな未来に見る夢も。

 この先、人類が手にする全ての叡智ですらも、この死せる『神官』の見る夢なのだ。


 しかし、それさえもーー


 それら全てをも塗り潰し、踏みにじり、滅びに追いやる者たちが、やがて星から至るだろう。

 そのことも、彼らに仕える『神官』は知っているのだ。

 知って、夢見て、待っているのだ。

 その、時をーー



 真っ白い真珠に視界を埋め尽くされた夜間戦闘機の中で、はっきりと僕はそのことを知った。

 相変わらず、風防の外側では嵐のように吹き荒れる真珠がいくつもの景色を僕の視野に突き刺してくる。


 その中に、ひとつ。

 僕の眼前をひどくゆっくりと、鮮明によぎる情景があった。



 すべての明かりが消されているはずの病棟で、ひとつの病室だけが妙に明るい。

 看護婦と医師とが慌ただしく出入ではいりをしている。

 ベッドの上に横たわる、痩せて青白い顔のーー



 それでもう、僕はあそこに帰らなくてもいいのだと、わかった。



 7    *     *     *



 だんだんと、夜間戦闘機が高度を下げ始めた。

 視界を埋め尽くしていた真珠の嵐はいつしか消えていた。

 風防のガラスはいくつもの傷がついて、時折、回転を止めそうになっているプロペラも曲がってしまっているようだった。

 銀色の機体も、翼も、おそらく無数に傷を受けているのだろう。

 激しく傷ついた夜間戦闘機の後席で。

 僕も、夢を見ている。

 夢見ながら待っている『それ』と一緒に。

「もう、わかったでしょう」

 銀色の女の声が僕の耳に届いた。

「あなた自身ですらも、『あれ』が見ている夢に過ぎないと」

「……いや、それでも……」

 振り向きもせず問いかける女に、ようやく僕は口を開いて答えた。

「それでも、そうは思いたくない……。たとえ真実はそうだとしても、僕は僕だ」

 これだけは、ちゃんと自分で答えたかった。

 この世に生きとし生けるもの、この星の始まりから終わりまでの全ての生の行く末を、『それ』が全てつかさどるだけに留まらず、あらゆる命ある者の夢見る夢を生み出しているというのなら。

 僕の見てきた、いや、このさき僕が見続けるすべての夢さえもが、『それ』の見る夢であるのならば。

 その時こそ、僕は『それ』の前にひれ伏すだろう。



「僕がひれ伏すのは、僕の幻想を越える者だけだよ」



 女が振り返り、宣告した。

「ならばひれ伏すがいい」



 そうか。

ーーいや。

 それすらもう、どちらでもいい。

 胸ポケットの手帳と鉛筆を意識する。

ーーそれでも僕は、僕だ。



 そうしてようやく、僕の中に、真珠色の豊かで静かな時間が流れるようになった。



 山のような巨体を横たえた『それ』の頭部をかすめるように、夜間戦闘機はまだゆっくりと飛んでいた。

 いつの間にか、『それ』の歌はもう僕の耳には聞こえなくなっていた。

 寝返りを打つのをやめ、再び深い眠りについたのだ。

『それ』の眠る墓所を取り囲んでいたエメラルドの塔の密林も、あれほど激しく絶え間なく形を変え続けていたのをやめ、静かに、凍り付いたように、ただ立っていた。

 もう銀の女も振り返ることはなく、黙って前席についていた。

 こうして、島全体が間もなく死よりも深い眠りにつき、『それ』もろとも、また海底深くに沈むだろう。

『星辰の正しき刻』を迎えてついに浮かび上がるその日を夢見ながら……。

 


 右のプロペラが動きを止め、ややあって左のエンジンも停止した。

 推進力を失った夜間戦闘機は滑り落ちるように高度を下げてゆく。

 墜ちてゆく、その先に。

 夢見ながら死せる『それ』の黒い触手が滑走路のように長々と幅広く伸びていた。

 飛行機は脚を出しているのか、胴着なのか、それすらわからない。

 ぐんなりとした触手に受け止められた。

 僕らの乗った戦闘機はずるずると滑るようにしばらく走りながら徐々に速度を落としてゆき、やがて完全に動きを止めたが、それでもまだ触手はその先にひたすら長く、どこまで伸びているのかその先端を垣間見ることすらできなかった。

 


     *     *     *



 シートベルトを外し、僕は大きく息を吐いて夜間戦闘機の後席に深々と座り直した。

 胸ポケットから鉛筆と手帳を取り出す。

 ぱらぱらと、ページをめくる。

 手帳の中には、きっちりと書き込まれたページと、書きかけのページと、それからまだ何も書かれていないページとがあった。

 まっさらなページは、めくってもめくっても、いくらでもあった。

 鉛筆を手にしてキャップを外し、僕は続きを書き始めた。

 いつの間にか前席から女の姿が消えていた。

 きっと、他にもいる『夢』たちを迎えに行ったのだろう。

……いや、違うかもしれない。

 でも、どちらでもいい。

「これでいい」

 僕は呟いた。

 このままでいい。

 だって、ほら。

 今でも僕はここで、こうして書いている。



                             (終)

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