猫
雨が体に強く、強く打ちつける。雹や霰でないよりましか、それでも突き刺すような勢いで体を叩くその雨は、小柄な自分には強すぎて。
「ああ、逃げなければ」
言葉を一つ、曇天に放つ。暗い暗い空は、余りに無感情で、灰色の世界。どうにか逃げよう、そう思うけれども、我が箱庭に出口は一つ。出口はあれども、自分はここから出られない。
周りを見渡せども、高い高い塀が自分を囲う。世界はあまりに小さすぎて、いや、塀の外は広いのだろう。ただただ、自分は想像することしかできまいが。
隣に寝そべる隣人を見る。いつもいつも寝てばかり、決して起きることのない彼は、この雨も平気なようだ。ずいぶんと鈍いと思うけれど、それが彼なら仕方がないか。赤い服を羽織り、黄色みがかった肢体を晒す彼は、見るものが見れば煽情的なのだろう。自分にその気はないけれども、世界に彼を好む人は数多いるだろう。
鼾は聞こえてこない。それに、呼吸の音も聞こえてこない。耳に入るのは、打ち付ける雨の音だけ。どこかでクラクションの音が鳴る。事故だろうか、この雨の中では、どうも視界が悪いだろう。明日になれば、何人死んだか発表がある。それを聞く前に、自分が死んでしまわぬように。そんなことを考える。
「ほら、何用か?」
先ほどから気付いていたけれど、無視と決め込んでいた彼を見る。頭上から見える空、その橋に見える電柱に、しがみ付くようにしてこちらを見てくる男がいる。白いシャツ、サラリーマンか?グレーのスラックスは濡れて濡れて、色が黒くなってしまっている。
不細工というほどではないけれど、お世辞にも美男とは言い難い彼は、こちらをじっと見てきている。口を開き、また閉じる。音は出さず、じいっとこちらを覗いてくる。非常に不快だ、非常に。
きっ、と強く睨み返してみるけれど、男は何も返してこない。ただただこちらを見てくるだけ。一方的に見られるのは心地の良いものではない。覗き、何が楽しくて自分を見るのだろう。
ぱくぱくと、空気を求める魚のように。彼の唇は少しばかり避けていて、顔もぐっしょりと濡れている。寒いのだろうか、顔は蒼白、ほぼ白といっても過言ではないだろう。それだけ弱っているのに、決して電柱から降りようとしないその心意気には感服するばかり。
けほ、と咳をする。この雨で、自分も大分体力を消耗したみたいだ。このままでは、しばらくしないうちに死ぬかもしれない。死神が自分のもとに近づいてくる音が聞こえてくるようだ。雨足に紛れて、こつり、こつり、そう音を立てて近づいてくるように感じる。
電柱の男はこちらを見て、今度は笑みを浮かべている。両手を右に左に、大きく振り回す。右手で左手を、まるで旗のように振りまわす。それでいて電柱から落ちないというのだから彼には驚きだ。しかし、何を伝えようとしているのだろうか。相変わらず口はぱくぱくと動き、こちらを焦点の定まらぬ目で見続ける。
電柱の彼から目を離す。これ以上見ていても、意味がないだろうと思うからだ。隣で寝る彼を見てみれば、未だ起きる気配はない。彼が起きるときはくるのだろうか、自分が知っている限り、数回しか起きていない。まだ、自分が曇天の下に閉じ込められる前の出来事だ。今とは気候が大きく違う、暖かな場所に居た時だ。
嗚呼、そうだ、暖かかったものだ。衣食住、どれにも困ることはなかった場所だ。電柱の彼などいなかったし、隣で寝る彼も時折起きだしていた。何故、何故自分はここにいるのだろう。
こつり、こつり、雨足に隠れるように音が近づいてくる。死神だろうか、それとも、別の何かだろうか。いい加減、閉じ込められるのにも飽き飽きしていたところだ。死神だというのなら、喜んで地獄へおともしよう。雨足が強まってくる。体に打ち付ける雨粒は、まるで小石のごとき硬さをもっているように感じられる。なんとも、なんとも、辛いものだ。
「ほら、いいから私を連れて行っておくれ」
近づく足音に言葉をかける。雨の音に負けぬほどに大きくなってきた音に心を躍らせ、死出の道を想い心を焦がす。電柱の男をふとみれば、彼は腕をふりふり、未だ口を閉じようとはしない。隣人は、いつまでたっても起きる気が無い。ふと起きて、自分がいなかったらどう思うだろうか。先に逝ったことを知ったらどう思うだろうか。隣人ともっと言葉を交わしておけばよかったな、そうも思う。
「ほら、早く、早く」
高い高い塀に遮られ、近づく死神を見ることはできない。どうにか見ようと背を伸ばせば、雨粒が目に入り、面食らう。手で目を擦り擦り、少しばかり痛む手を舌で舐める。見てみれば、雨によわたのだろうか、それとも別の理由だろうか、手には血が滲んでいて。舌に血の味が広がっていく。これが死ぬ前の最期の晩餐か。思わず笑いが込み上げる。
寒い。体が冷えてきている。足音はもうすぐそばにまできていて。ああ、死神が近づいてきているから、死へと急速に近づいている。隣人は未だ起きない。最後の挨拶くらいさせておくれ。電柱の男は手をふりふり。
「お別れの心算だったのか」
言葉が漏れる。そうか、電柱の彼は、死へと旅立つ自分に最後の挨拶をしてくれていたのか。その事実に気が付いて、少しばかり申し訳なく思う。彼は自分のことを考えてくれていたのに、自分は彼を気味悪がってたから。こちらも手を振り返せば、彼は笑う。降りしきる雨の中、決して流れることはなかった真っ赤な液体で化粧をし、千切れた腕を振り回す。裂けた口を大きく開き、定まることのない目をこちらに向ける。ああ、最後のお別れだ。
隣人を殴る。起きろ、その言葉と共に。足音はもうあと少し、塀のそばまでたどり着いている。だから、お前は起きてくれ。自分はもう逝ってしまうから、挨拶くらいさせてくれ。そう思いながら、何度も何度も殴り続ける。そうして、ふと気づいた。
「嗚呼、お前は死んでいたのか」
隣人は、目を大きく開けて、ぴくりとも動かない。柔らかな体を自分にされるがままにしていて。いつから死んでいたのだろうか。わからない。ずっと寝ていたと思っていた隣人が、もう既に先走っていたことに愕然として、少し安心する。先導者がいるということを、暗に示しているから。
こつり、こつり、こつ、り。音がとまる。塀の目の前、そこで足音は止まる。死神か、やっとたどり着いたか。
「早く死出の道へと誘っておくれ。もう挨拶は済ませているからね」
頭上に影が差して、あれだけ降っていた雨が突然降りやむ。いや、自分が雨粒を感じなくなっただけだろう。死がそこまで近づいているのだろう。
影を見れば、あまりにも大きな巨人だ。おお、これが死神か、思わず声が漏れてしまう。早く、連れてっておくれ。寒い。寒い。挨拶は済ませたから、早く連れて行っておくれ。死神にそう声をかける。早く、さぁ、この世界から、この狭い世界から去りたいのだから……
「ねぇお母さん!捨て子猫だよ!ねぇお母さん、雨にぬれて震えてる。飼ってもいい?お家に連れて帰ってもいいよね?」
「貴女これで何匹目なの?あまり世話もしないで、猫と遊ぶだけ遊んで、ごはんもトイレも放置じゃない」
「お母さん!これからはしっかりするから!ねぇ?お願い……猫さん死んじゃうよ……」
「医者代も馬鹿にならないのに……本当に世話をするのね?」
「うん!絶対!約束!指切りしよ!」
「はいはい、わかったから。雨に濡れてしまうから、指切りはお家でやりましょう。段ボール箱ごと持ち上げなさい。ほら行くわよ」
「はぁい!」