36.魔女と吸血鬼と狂信者(一)
それは、未だ嘗て味わった事の無い痛みであった。
存在する総てのものを憎悪したくなる程の、存在する総てのものを破壊し消滅せしめたくなる程の痛みであった。
未だ嘗て、これ程何かに執着した事があったであろうかと、自問してみる。
分からなかった。
しかし、生きとし生けるもの総てを消滅せしめたくなる程の憎悪の念など、未だ嘗て知らなかった。
失ったものを、血眼になって追っている己がいた。
端から見ていて滑稽な程、余裕を失っている己の姿があった。
一体、何を失ったのだろう......。焦燥に駆られるそんな己を、冷めた目で眺めている別の己がある。
そこまで執着しなければならないものなどあったであろうか....。
考えれば考える程、分からなくなった。
突然の叫び声に思わず振り返る。
こちらに伸ばされた二つの細腕。
とっさに受け止めようと両手を伸ばしたが、ほんのわずかな距離が邪魔をした。
その細い身体が残酷にも目の前で頽れた。
ああ...、そうだった....、それが、何よりも大切なものだったじゃないか.......。己の命などよりも大切な........。
細い腕は、ぴくりとも動かない。
血に濡れた細い身体を抱え上げ、壊れ物に触れるかの様にそっと頬に触れる。
突如沸き上がった言い知れぬ程の憎悪の念に、己の身体が震えた.......。
呪いの叫びが上がる。
それが己の口から発せられた声である事に気付いた時、辺りは一瞬にして白く激しい炎に包まれていた。
総てを焼き尽くすであろう轟音。
何も聞こえなかった。辺りを蹂躙する狂った炎以外は......。
そして、突然.......音は失われた。
暗闇の中、アレスウィードは自分の置かれた状況を把握するのに暫しかかった。静寂の中、自身の乱れた息づかいだけが酷く大きく聞こえた。そして、それが整って行くにつれ、傍らの甘く安らかな息づかいが近付いた。緩慢な動きでそちらへ目を向ければ、魔女が安らかに眠っている。その屈託の無い寝顔に酷く安堵する。
「夢か.....」
ウィードは汗に濡れた髪をかき上げると身を起こし、傍らで静かな寝息を立てているジャスリンの頬を撫で、そっと口付けを落とした。
王都より遠く離れた辺境の伯爵領。王国地図には記されていないその地は、無数の木々が壁の様に周りを囲んでいる。そして、中世さながらの門が一つ設けられていた。その領地へ入るには、どういった訳かその唯一の門をくぐらなければならない。壁が囲んでいるわけでは無い。堀が囲んでいるわけでも無い。それにも拘らず、門以外の場所から.....、例えば木々の間を縫って町に足を踏み入れようとしてみても、それは不可能なのだ。何故ならその地を囲む木々が、外部からの者等を拒むからである。しかし偶然その地に辿り着く者達の大方は、そんな事実には気付かない。大半の者達は知らず知らずの内に、まるで磁石にはじかれるかの様にその土地を守る無数の木々から遠ざかって行くのである。そして、気付かぬ内にその土地から遠ざかって行く者もあれば、その町の唯一の門を見つけ出す者も、時にはあった。
今、その門の前に立つ者がいた。秋風が彼の灰色のマントを嬲っていた。
ハレンガルのこじんまりとした清潔な目抜き通りを、彼は別段急ぐでも無く歩いていた。時刻はと言えば、空の太陽がそろそろ西へと傾く頃合いである。夕飯の買い物か、籠を下げた主婦達がほんの数人、食料品店や青物屋を出入りしている。子供達が小道から駆け出して、元気一杯に通りを横切って行く。皆が気さくに挨拶の声をかけて来るので、彼も涼やかな笑顔と共に挨拶を返した。
「こんにちは神父さん、髪を切ったんですか?似合いますよ」
道端で住人と立ち話をしていた警吏が、軽く敬礼しながら声をかけて来た。彼は礼を言いながら通り過ぎる。
「平和な町だな....」
神父は独りごちた。飢える者などまるでいない様に思えた。人々の表情は皆明るい。
「慈悲深い領主か....」
神父のその優し気な顔立ちに一瞬だけ皮肉を帯びた笑みが浮かんだが、複数の娘達に呼びかけられた為それもすぐに消えた。
「神父様、こんにちは」
「髪をお切りになったのね。長いのも良かったけど、短い髪も素敵っ!」
神父が涼やかな笑顔を向けると、周りの娘達は頬をピンク色に染めて感声を上げた。
「これ私が作った木の実のパイです。ドードさんと食べて下さいね」
「あっ、これは杏の砂糖漬け。神父様お好きでしょう?」
やんやと頬を染めながら貢ぎ物を差し出して来る娘達一人一人に微笑みかけながら丁寧に礼を言うと、彼はそれらの貢ぎ物を手に再び歩き出す。後ろから娘達の溜息が聞こえて来た。
やがて彼の足は小さな教会の前で止まった。灰色の瞳は教会を見詰め、その眦が微かに下がった。口元には笑みが浮かんでいる。実に優し気な表情であった。
「まあ....、そんなに小さな頃にご両親と別れて教会に?」
「ああ、まあね」
箒を手に驚くジャスリンに、神父クレシスも又手にした箒を動かしつつ、いつもの爽やかな笑顔で頷いた。
「何せ生まれ落ちた時には、既に私も兄も心で会話を交わす術を知っていたらしいからね。普通の人間の赤子なら、泣いて欲求を知らせようとするだろう?でも私達兄弟は、泣きわめく事もせずに直接母親の脳裡に訴えたらしい。その為に私達の母親はおかしくなってしまってね」
クレシスは冗談めかして肩をすくめて見せた。一つに結わえた灰金色の癖の無い髪が、イエニーから贈られたという質素な黒の詰め襟の上着の背で揺れた。
処はハレンガル唯一の教会のささやかな礼拝堂。掃除をするクレシスを手伝いながら、ジャスリンは彼の生い立ちを初めて聞いた。未だ礼拝堂を怖がるルヴィーは、表でドード神父の畑仕事の手伝いでもしているのだろう。
「で、その後、父親は私達兄弟の為に乳母を雇ったけど、長続きする者はいなかったなあ、皆気味悪がってしまってね。まあ、当然と言えば、当然だろうけれど....。で、襁褓がとれて間も無く教会に引き取られたってわけさ」
「それからご両親には?」
「一度も会っていないよ」
痛まし気な表情のジャスリンに、クレシスは相変わらずの笑顔である。
「そんな顔しないでおくれ、ジャスリン。私達のせいで狂ってしまった母には申し訳無いとは思うけれど、厭われたお陰で私も兄も両親を恋しいと思った事はそう無かったし、必要だと思った事も無かったしね。まあ諦めてたっていうのが本当の処なんだけれど.....。むしろ教会本山で似た様な能力を持った子供達と一緒に育ててもらった事は、良かったと思っているよ。あそこでは、心に話しかけても気味悪がったりする者はいなかったからね。でも神父達には口うるさい程注意されたな。声を出して話せってね。言葉を覚えるよりもずっと前に、心での会話を覚えてしまったから、兄も私も中々言葉を喋る事が出来なかったんだ」
懐かしそうに語りながら、クレシスはくすっと笑い声をたてた。
「お兄さんに、会いたくは無いのですか?クレシスさん」
「う〜ん、そうだねぇ....、別に強いて会いたいとは思わないけれど。かといって会いたく無いわけでは無いけれどね。私達は特殊な能力を持って共に生まれたせいか、離れていても根本的なところで通じ合っている。だから今、彼に何かあったとすれば私にはそれが分かるよ。だから別に傍にいる必要なんて無いし、第一ジャスリンは嫌だろう?彼に酷い目にあわされたじゃないか」
「それはそうですけれど...」
ジャスリンは言い淀む。ライトン樹海の奥深くで殺されそうになった事を思い出すと、確かに身が震える。
「あいつは私と違って教会の思考にどっぷり染まっている狂信者だ。総ての魔族は悪だと信じ込んでいる。あの考えを改めさせられたら良いのだけれどね.....」
微かに眉を曇らせながらも依然微笑みを崩さずに、クレシスは諦めにも似た溜息を吐き、そして突如ハッと息を呑んだ。酷く馴染みのある存在を感じたのだ。突然顔色を変えたクレシスに、ジャスリンはきょとんと首を傾げた。
「...この感じ....気のせいか...?」
「クレシスさん?どうしたのですか?」
ジャスリンに不思議そうに尋ねられ、クレシスは顔を上げる。
「兄貴が.....、近くにいる。ものすごく近くに....」
「えっ?」
ジャスリンの驚きの声には怯えが滲んだ。クレシスは箒を手にしたまま、礼拝堂の扉へ駆け寄ると勢い良く開いた。
襟元に金色の十字架の縫い取りの入った灰色のマント、その下に覗くのは教会本山の悪魔払いの出で立ちである白の聖衣。マントの合わせ目からは、首から下がっている金の十字架がちらりと覗く。灰色の瞳に、灰金色の髪。その髪の長さこそ違ったものの、そっくりな顔が礼拝堂の扉を境にして向き合っていた。
「見付けたよ。クレシス」
涼やかな笑顔で彼は楽しそうに言った。
「..兄貴......」
クレシスは、珍しくも困惑をその表情に上せていた。
「これはこれは、ライトン樹海の魔女殿」
礼拝堂に足を踏み入れたクレシスの双子の兄レジスは、ジャスリンの姿を認めると、これ又涼やかな笑顔を向けた。狂信者である事が嘘の様な、友好的で人懐っこささえ感じさせる笑顔であった。しかし、さすがのジャスリンもそれには騙されなかった。ウィードに連日“阿呆魔女”呼ばわりされていようとも、あれ程の痛い目に遭わされた事はそうそう記憶から薄れる筈も無い。ジャスリンは顔を強ばらせ、じりじりと後退りした。
「ななな何しにいらしたのですか?」
ジャスリンが、けぶるスミレ色の瞳をキッと三角にする。しかし元々の顔が顔なので、全く恐ろしくも何とも無いのだが....。その様子に、レジスがクスクスと笑い声を立てた。
「そんなに怖がらなくったって、ここでは何もしませんよ、魔女殿。私はそこまで無謀じゃ無い。まだ死にたくは無いですしね」
暗黙のルール、暗黙の了解、........ハレンガルの平穏を壊した者は、殺されても文句は言えない。アレスウィードは慈悲深い領主であると同時に、情け容赦無い魔族である。
「ジャスリンっ!大丈夫!?」
「何じゃ、何事じゃ!?」
突如、顔色を変えた少年が駆け込んで来た。その後からドード神父も早足に入って来る。礼拝堂を厭っていた筈のルヴィーは、一目散にジャスリンの下へ駆け寄って来ると彼女に縋り付いた。不穏な何かを嗅ぎ付けたのであろう。金色の瞳の瞳孔が猫の様に細くなっている。ジャスリンは咄嗟にルヴィーを己の背後に隠す。
「何と、そこもとはっ!?」
ドードは愕然とし、クレシスにそっくりな狂信者の顔を睨みつける。そんな様子にレジスは肩を竦めた。
「信用無いんだなぁ。何もしないって言っているのに」
「兄貴に信用なんかある分けないだろう?」
ジャスリンとルヴィーを庇う様に、クレシスは兄の前に立ち塞がると憮然と口を挟む。
「兄貴、言っておくけど」
「何だい?クレシス」
「ジャスリンと、このハレンガルにいる他の魔族に手を上げたりしたら許さないよ」
弟の真剣な表情に、レジスはクスクスと笑った。
「分かっているよ、クレシス。お前まで疑うの?あのアレスウィードには適わない事位、私だって良く分かっているからね。みすみす命を無駄にする様な真似はしないよ。ところで、これ」
「えっ?」
レジスはスタスタと歩み寄ると、手にしていた品々をいきなりクレシスの腕にどさどさと落とした。その拍子にクレシスの箒が音を立てて床に転がる。その場の面々は少し呆気にとられた。
「なっ、何っ!?」
「良い香りだろう?可愛い女の子達が沢山くれたんだ。皆、私の事をお前だと勘違いしたのだろうね。お前の好きな、杏の砂糖漬けもあるよ。ドード神父と食べてくれだってさ」
「.......」
押し付けられた手作り菓子の山を両手に、クレシスは困惑顔のまま溜息を吐く。
「相変わらず、女の子達を口説いてる様だね。全くお前って子は...」
「人の事が言えるの?」
クレシスの苛立たし気な上目遣いにレジスは何が面白いのか、やはりくすくすと笑い続ける。
「何が可笑しいんだ?」
「可笑しいよ。こんな可笑しい事は無いね。悪魔払いの筈のお前が、魔族の味方になってしまったなんて。それとも、その魔女殿に魅惑されでもしたのかい?」
レジスの瞳がジャスリンの瞳を捕らえる。ジャスリンの口から小さな悲鳴が洩れた。
「お前は昔から、教会の思想には上手く馴染めなかったけれど、とうとう魔族に与する程に堕落するとはね。さて、どうしたものかな。どうやってお前を救い出そうか?」
そこでレジスは、再びクスクスと笑う。
「救ってくれなくて結構だよ、兄貴。私はこのハレンガルに骨を埋めるつもりだ」
「愚かな事を」
「私は教会の思想には賛成出来ない。害のない魔族を殺す事もしたく無い」
「害の無い魔族だなどと....」
レジスの灰色の瞳がジャスリンを再度捕らえると、冷たく煌めいた。
「魔族はその存在自体が害だ」
ジャスリンは息を呑んだ。胸にずきりと重い痛みが走った。あまりに酷なその言葉に胸を貫かれた様な気がした。
「困ったものだね、お前は、クレシス。神の家を魔族で穢すなんて」
「この教会は誰も拒まない。仮令魔族であろうと無かろうと」
クレシスの言葉にレジスは再び笑う。
「一体、何しに来たんだ?兄貴」
「お前に会いに来たに決まっているだろう、クレシス。暫く厄介になるよ」
弟の刺々しい問いに、狂信的な兄はにこやかにさらりと答えた。
先程から一言も物言わぬ魔女の肩を、ウィードはそっと抱き寄せた。床の敷物の上で、ルヴィーが絵本を捲りながら心配そうな瞳を投げかけている。
「心配するな」
ウィードの静かな囁きに、ジャスリンが今目が覚めたといった様な態でかすかに身じろぎをする。
「俺がついている」
そう言って、ウィードはジャスリンの白っぽい金髪頭に口付ける。
「えっ?」
ジャスリンは、俄に頬を染めウィードを見上げた。
「なななっ、何ですか?どうなさったのですか?ウィードったら、急にっ!?」
「......」
そのジャスリンの予想外に元気なリアクションに、ウィードは紺碧の瞳を数度瞬いた。ちなみにルヴィーも呆気にとられている。
「ててててっ照れてしまいましたよ。ウィードったら、突然そんな“すけこまし”みたいな事を仰るのですもの」
「そんな言葉を何処で覚えた?」
「へっ?」
眉間に皺を寄せながらウィードは嘆かわし気な溜息を吐いた。ちらりとルヴィーに目を向ければ、教会の言う処の天使かとも見紛う様な愛らしい少年は、「てへっ!」と、可愛らしく且つ極り悪気に肩を竦めた。
本当は、尋ねるまでも無い事であった。この古城には実際にルヴィーの言う処の“すけこまし”が一匹棲息しているのだ。ウィードは、己に良く似た年若く騒がしい従兄弟の顔を思い浮かべ苦々しい顔をする。己だって嘗てはそのものであった事など、都合良く忘れているらしい......。
ウィードがジャスリンの“すけこまし”発言に内心胸を痛めているところへ、帰宅したらしい件のすけこましの慌ただしい足音が居間に飛び込んで来た。
「ウィードっ!!大変だっ!あの悪魔払いの神父が、分裂して二人になっちったぜ!」
「んなわけがあるか、阿呆っ」
勢い込んで訴えるラーグフェイルにウィードは呆れ脱力する。しかしラーグは本気でそう思い込んでいるらしい。
「ラーグったら、あの人はクレシスさんの双子のお兄さんですよ」
「へっ?マジで!?幾ら双子っつったって、普通はあんなに何もかんも同じになんねぇってぇ。あいつら人間だろ?」
ラーグはマントを脱ぎもせずに、ウィードとジャスリンの向かい側のソファーにどっかりと腰を下ろす。
「双子ですもの、似ているのは当たり前ではないのですか?だってラーグとウィードでさえ、双子でもないのにそっくりではないですか」
ジャスリンが小首を傾げれば、何故かラーグはがばっと身を乗り出す。
「馬鹿言え〜っ!俺たちが似てんのは顔だけだろ?他は全然違うってばさあ〜。俺、ウィードみたく性格悪くねえもんっ!」
ピキっと、何かが凍り付く音が聞こえた様な気がして、ジャスリンは辺りを見回す。
「ってかさぁ、俺が言いたいのってそんなんじゃなくってさあ......、う〜....、何だろ...、何てぇの?あいつ等さあ、オーラっていうかさあ、う〜ン、良く分かんねえけど、二人いるのに一つにしか感じられねぇっていうか........」
ラーグの支離滅裂な言葉に、ジャスリンはきょとんと首を傾げた。
「それは恐らくあいつ等らの能力の所為だろう」
ウィードがどうでも良い様に口を挟んだ。
「双生児なんて、元を正せば一つの個体だ。それがたまたま分離しただけだ。だから本来双子なんてものは、魔族にしろ人間族にしろ強い結びつきを持っているわけだが、それがあいつ等の場合、能力の為に結び付きが普通の双子よりも強い。そのせいで分離していながら分離しきっていない様に感じられるんだろう」
「は〜ん、そうなの?俺、てっきり分裂しやがったのかと思っちまったぜ」
「ジャスリンに匹敵する阿呆だな」
「んもうっ、ウィードったら、失礼ですね!ぷんっ」
頬をふくらませ唇をつんと尖らせながら、ぷいとそっぽを向いたジャスリンは、依然ウィードに肩を抱かれている事に気付いて瞳を見開き、膨れっ面のままウィードの腕から抜け出してソファーに座り直す。するとすかさずラーグがジャスリンの隣に席を移すやその肩を馴れ馴れしく抱き寄せて囁く。
「んなぁ〜、ウィードって性格わりぃよなぁ〜?俺、ジャスリンの事、阿呆なんて言わないぜ」
「そりゃあ言えないだろうよ」
さらりと返され、ラーグもジャスリン同様口を尖らせる。
「あ、何かやな感じ〜」
「嫌で結構。大体何でこんな半端な時間に帰って来るんだ、お前は?」
「いいじゃんかよ、俺だってたまには健全にジャスリンと夜を過ごしたいんだ」
その言葉にウィードの手は間髪いれずにラーグの腕からジャスリンを取り戻した。
「ななななっ!?」
ジャスリンの間の抜けた悲鳴など、ウィードは意にも介さない。
「何だよ!いっつもウィードばっかジャスリン独り占めしちゃってさあ」
「はいはい、ラーグ様。色んな女の子のお相手してきて疲れてるでしょ?お湯の支度してあげるからお風呂入って今晩はさっさと寝ようね」
「えぇっ!ちょとルヴィーちゃん何すんのよ?」
ルヴィーに強引に腕を引っ張られ、ラーグはあっという間に居間から連れ出されて行った。後には当然の如くウィードと、そして呆気にとられた顔のジャスリンが残された。
「相変わらず騒々しい奴だ...」
ウィードが溜息混じりに言うと、ジャスリンはぷいと顔を背けた。怒っていた事を思い出したのであろう。
「いつまで怒ってるんだ?」
「怒ってなんかいません」
「ほう?」
ジャスリンの肩を抱いていた手が、彼女の膨らんだ頬を突つくと、「きゃんっ」との声と共に手を叩かれた。ウィードは微苦笑しながらふくれるジャスリンの顎を捕らえると、身を乗り出してそのつんと尖った唇にチュッと口付けた。
「お前は、ずっとそのままでいいぞ」
「へ?」
「阿呆はお前の美点の内の一つだろう」
「ウィードったら.....」
頬を染めるジャスリンの機嫌は、ころっと治っている。
「それにしても、又くそ厄介な奴がやって来たものだな」
一見素っ気無い表情でありながら、ジャスリンの顔を覗きこむその紺碧の瞳の奥には労りの色が見え隠れする。
「怖くは無いか?」
低く問われ、ジャスリンは微笑み小さく首を横に振る。
「ウィードがいるから怖くなんてありません」
その言葉にウィードは瞳を細めながらジャスリンの頬を撫でると、おでこをこつんとくっ付けた。
「何処へも、行くなよ.....。ずっと.....、俺の傍にいろ......」
苦し気な、押し殺した様な、まるでウィードらしからぬ溜息混じりの弱々しい声音であった。
「ウィード?」
「.....」
「どうなさったのですか?」
ジャスリンは何やら心配になり、おでこを離すとアレスウィードの酷く整った顔を覗き込む。
「おかしなウィードですね」
両手でウィードの頬をそっと挟み込み、ジャスリンは微笑む。
「私は何処へも行きませんよ。ずっとウィードの傍にいますよ。出て行けって言われたって、絶対に出て行きません」
そう言って頬をほんのりと染めながら、テヘッと照れ笑いを零すジャスリンを、ウィードはきつく抱き締めた。