34.追憶(中)
「あ・・・・」
今日も午後から嬉しそうに瞳を輝かせ、ほくほくとやって来たルクスに付き合い、絵画の物色をしていたジャスリンが小さな声を上げた。
「どうしたの? ジャスリン」
ルヴィーが駆け寄りジャスリンの手にした絵画を覗き込むと、同様に小さな声を上げた。
「どうしたんですか? 二人とも・・・」
ルクスも興味を惹かれて、二人の後ろからその絵を覗き込んだ。
「あ・・・・」
やはり小さな声を上げていた。
三人三様、ぽかりと口を開けたままその絵画を見詰め、そして同時に顔を見合わせた。年頃は十四〜五歳程であろうか、それは少女とも見紛う様な秀麗な顔立ちの少年の肖像画であった。時代を感じさせる空色の詰め襟の膝丈のチュニック姿で、石造りの窓枠に造作無く凭れる様にして座っている。少し癖のある艶やかな黒髪を後ろで一つに纏めている蒼い繻子のリボンが鮮やかであったが、それにも増して鮮やかであったのは、宙空へと向けられていた彼の紺碧の瞳であった。
「これ・・・・・、何だか・・・・・」
「うん、何となく...」
「はい・・・・・」
そして再び続く沈黙・・・・・・・・。
「あっ! ジャスリンもルクスも、これ見てっ!」
突然ルヴィーが立て掛けられている沢山のキャンバスに駆け寄り、その一枚を示した。
「まあ・・・・」
ジャスリンも感嘆の声を上げながら駆け寄って、ルヴィーの示す一枚を手に取った。やはり癖のある黒髪の美貌の少年の肖像画であったのだが・・・・・・、気付いてみれば驚いた事に、その辺りに重ねられ立て掛けられているキャンバスのほとんどが黒髪の少年の肖像画であるのだ。大小様々な大きさのキャンバスや、板に描かれた少年の年齢は様々ではあったが、ほんの幼子の姿から人間ならば十五歳程かと思われる姿までの様々な構図の姿絵も、並べて見ればそれが同じ人物を描いている事など用意に見て取れる。
「これって・・・・・・、どう考えてもウィードですよね?」
「うん・・・・・・、間違いなくウィード様だね」
「す・・・・・、すごい・・・・・・・。どれもエデン ファン・マースの描いた物だ。ちゃんと彼のサインが入ってる。こんなに沢山の肖像画を・・・・、すごいや、ウィード様」
「あら、これもウィードでしょうか・・・・?」
ジャスリンが小さな板に描かれた絵を手にして首を傾げていた。豪華なゆりかごの中の赤子の絵であった。黒髪に紺碧の瞳の赤子であった。その絵を見詰めるジャスリンの表情は、一瞬の後には優し気な微笑みを湛えていた。
黄昏時、居間に下りて来るなりウィードは、そこに繰り広げられていた光景に無表情のままうんざりと肩を落とした。
「あ、ウィード様」
ルクスが慌てて立ち上がりお辞儀をする。
「・・・・・・・・」
「見て下さい、ウィード、順番に並べてみたのです」
「・・・・・・・・」
床の絨毯の上に綺麗に並べた大小の三十点以上にものぼる絵画の前で、横座りに座っていたジャスリンが楽しそうな表情でウィードを見上げていた。ルヴィーの姿は無い。恐らく今頃は夕食の仕度に厨房に下りているのだろう。
「この女の子、じゃなくって男の子も、ウィードだったのですね?」
昨日ジャスリンが甚く気に入り、うっとりと眺めていた件の肖像画を指差してジャスリンが尋ねると、ウィードは極り悪気に目を逸らし溜息を洩らした。
「何故教えてくれなかったのですか? ウィードったら・・・・。ひょっとして照れていらしたのですか? うふっ!」
ウィードの眉間に深々と皺が刻まれた。
「一体何の真似だ? 全く・・・・。胸くそ悪い物を引っ張り出して来て、どうしようって言うんだ、お前達は・・・・」
「 “胸くそ悪” くなんか、全然ありませんよ、ウィード。どの絵もとっても可愛いではありませんか」
何やら嬉しそうなジャスリンを横目にウィードは再度溜息を洩らすと、それらの絵画の元へと歩みより腕を組んで見下ろした。そして無言のまま屈みこむと、描かれた順番に従って幾つかの絵画を並べ替えた。突如、えも言われぬ程の懐かしさが胸を占めた。
「エデンか・・・・・、懐かしいな・・・・・・」
呟くウィードの脳裏を、白髪混じりの赤茶けた髪をした愛嬌のある顔が過る。
「ウィード様、エデン ファン・マースと親しかったんですか?」
興味津々の態で尋ねて来るルクスに、ウィードは眉を上げて息を吐く。
「さあ・・・・、俺にとってはほんの一瞬の付き合いだったからな・・・・・・。だが、あいつを看取ったのは俺だ」
「えっ!? 彼はハレンガルで亡くなったんですか? ウィード様」
ルクスは、驚き昂奮している様子であった。無理も無かった。何せ、巨匠エデン ファン・マースの晩年については何も判明していなかったのである。彼が一体何時何処で死去したのか・・・・・・、全く分かっておらず、よって彼の葬られている場所なども当然不明とされていた。事故死か、物取りにでも襲われて殺されたのでは無いか、それ故に墓なども無いのではないか、などなど様々な憶測が昔から王都の研究者の間でなされて来たのである。
「放浪の画家エデンは、四十七で王都を後にしたまま行方が知れなくなって後、ハレンガルにいたんですか?」
「この城の地下で眠っているぞ。常々ここに骨を埋めたいって言ってたからな。死ぬまでの二十年程はこの城にいた」
珍しくもしみじみとした口調のウィードの口元は、微かな微笑みを浮かべ、いつしかその紺碧の瞳は遠い何かを追い求めるかの様に細められていた。
日に日に、日差しが強くなってゆく、そんな季節であった。花の咲き乱れる庭園を、抜ける程に蒼白い肌をした女達が笑いさざめきつつそぞろ歩く。
「美しい色だこと、血の色だわ・・・・・・」
「まことに...、血の色・・・・・・・・」
「若様がお喜びなさるでしょう・・・・・・・」
「摘んで差し上げましょう、若君様に・・・」
くすくすと軽やかな笑い声が流れる。三人の女達は、腰から緩やかに広がるスカートの裾を後ろに長く引き摺りながら、深紅の花を咲かせている薔薇園を愛でつつ歩く。長い袖と、頭に被ったエスコフィオンの薄衣が、彼女達の笑い声と共に時たま翻る。
一人の女が突如足を止めた。
「あら、お前、」
「あら、絵描きの人間ではないの」
然程も離れていない場所に座り込んで三人の女達の姿をスケッチしていた赤茶けた髪の中年の男は、屈託の無い笑顔で彼女等に挨拶をした。
「一体、いつの間に戻っていたのだえ?」
「つい先程ですよ、貴女方を垣間見たら、描かずにはおられなくて・・・・」
「早う、若君様に見えておくれ。首を長くしてお前の訪れをお待ちだったのだからね」
女の言葉に、絵描きはくしゃりと微笑んだ。
ひんやりとした石造りの城の中を、画家はスケッチブックを片手に歩いて行く。彼にとってはは、命の次に大切な物であった。その時代、紙はまだまだ貴重品であったのである。世界を放浪しながら描き記した多くの絵を、早くこの城の主に見せてやりたいその一心で、絵描きの足は知らず知らずのうちに早くなっていった。
強い日差しの苦手な城主は、今日の様な晴天の日に外に出る事は無い。彼の居場所は分かっていた。迷わずにその部屋へと足を急がせ、扉を叩く。
「おそかったじゃないかっ!」
扉の内側から聞こえた少し拗ねたかの様な幼い声に、絵描きは再びくしゃりと微笑み扉を開けた。
凝った彫り物の施された書棚が幾つも並んでいるその部屋の、中央に敷かれた獣の毛皮の敷物の上に、足を投げ出して座っている幼い子供の姿を認め、絵描きは両手を上げて破顔一笑する。実に嬉しそうなその表情に、子供の拗ねた表情がほんの少しだけ和らいだ。拗ねた表情も何とも可愛らしい、少年だか少女だかを見極める事の実に難しい子供であった。辛うじてその服装から少年だという事が分かる。肩よりも長い艶やかな癖のある黒髪を、空色の艶やかな繻子のリボンで一つに括っている。身に纏った丈の短いチュニックも見るからに仕立ての良い物であった。
「久しぶりですね、城主殿。又随分と大きくなられて」
「あたりまえだ。まぞくだってガキのころは、にんげんとおなじそくどでせいちょうするんだぞ」
愛らしく整ったその顔立ちとは裏腹な物言いに、絵描きは声を上げて笑った。
「口も達者になりましたね。一体お幾つになられましたか?」
「もう六さいだ!」
「そうか、もう六歳か、大きくなられたなあ」
絵描きは嬉しそうに目を細めた。
「またいろんなところで、たくさんえをかいてきたのか?」
「ええ、描いて来ましたとも。若君にお見せしようと思ってね」
絵描きは手にしていたスケッチブックを茶目っ気たっぷりに掲げて見せた。
「でも、その前にどうか湯浴みをさせて下さい、若君。この通り私は埃まみれですのでね」
「うん、わかった」
紺碧の瞳を輝かせながら、幼い少年は素直に頷いた。
絵描きは数年に一度、この月夜城にひょっこりと姿を見せた。彼は人間であったがこの魔族の住処である城を怖れる事も無く、まるで我が家に帰って来るかの様な気楽さで訪れては、暫し滞在して絵を描いた。
「今回は南の国々へと足を伸ばして来ましたよ」
絵描きの手が開いたスケッチブックを、幼い少年と魔族の女達が頭を寄せあって覗き込んでいた。ほうっ・・・・という、女達の溜息が漏れる。床に敷かれた幾枚もの獣の毛皮の上に両手を付いて、前屈みにスケッチブックを見詰める少年の周りを、三人の女達の華やかな織りの衣装が彩る。彼等の前に座る絵描きは、湯を浴びて今ではこざっぱりとしていた。
「みなみのくににも、たくさんにんげんがすんでるんだな?」
スケッチブックに処狭しと描かれた人間のスケッチを、興味深そうに見ている魔族達。
「みんなへんなかっこうだな?」
描かれた人々の露出の多い服装に少年は目を丸くし、女達は微かに眉をひそめる。
「南の国はとても暑いのですよ。何せ、お日様に近いですからね」
絵描きは、おっとりと説明を加える。
「ふうん、じゃあおれはぜったいにすめないな・・・・。これは?」
「それは、働く漁師達の姿です」
人間よりも自由のきく魔族とはいえ、まだほんの幼い少年はハレンガルを出た事が無い。絵描きの素描を瞳を輝かせて一つ一つ喰い入る様に見ていた。
少年の小さな手がページを捲ると、色の着いた絵が現れた。
「これはなんだ?たいようか?」
少年が絵の中の紅い球体を指差した。
「ええ、太陽です」
「紅くておいしそうだ」
その言葉に、絵描きは楽し気に笑った。真っ赤な太陽が水平線に沈む風景。日没は辺りを薄紅く染め上げている。
「これは何なのじゃ? 絵描きの人間よ。湖か?」
女の一人が長い袖で微かな衣擦れの音をさせつつ細い指を伸ばした。
「いいえ、これは南の海です」
「うみ? これがうみか・・・・」
少年が瞳を輝かせた。
「ほう・・・・、海・・・・・」
「おおきかったか?」
「ええ、それはそれは」
「ハレンガルの湖の何倍位あるのです?その海は」
「おお、とてもとても大き過ぎて分かりません。何せ一度船で海に出ると、もう周りは海しか見えなくなるんですから」
絵描きの言葉に四人は、目を丸くする。
「ふねでうみにいったのか?」
「ええ、行きましたとも」
そう言って絵描きは次の絵を捲って見せた。そこには船の穂先が描かれ、その先一面はやはり蒼い。
「想像を絶する程に大きかった。そして海は生きていた。絶えず生きて波を揺らせているのです。それも、海の機嫌の善し悪しで波が激しくなったり静かになったり....。その海を、時たま魚が水面に跳ねたりもしていましたよ、若君」
「ふうん、おれもみたいぞ」
「大きくなられたら、幾らでも見れましょう、貴方なら、若君」
絵描きの言葉に、少年は瞳を輝かせて頷いた。
「ああ〜、良い匂いだ、凄いごちそうだ」
絵描き一人の為に用意された食卓には、程よく焦げ目の付けられて湯気を上げている、てらてらと光る焼き肉や、焼きたてらしき香ばしいパン、刻んだ肉を詰め込んだパイや香草入りの野菜のシチュー、瑞々しい果物などなど、とても一人では食べきれない程のごちそうが並んでいた。舌鼓を打ちながら席に着く絵描きの目の前の席には、幼い城主がちょこんと座って頬杖をついている。絵描きが滞在する間じゅう、幼い城主はうろちょろと彼の後を付いて回った。
「若君も一緒に食べませんか?」
「おれは、にんげんのたべものはたべないぞ」
「何故です? こんなに美味しそうなのに」
言いながら絵描きはナプキンを襟元に押し込んで胸元を被うと、まずはパンに手を伸ばしてちぎって口に入れる。
「にんげんはふべんだな。そんなたべものをたべなくちゃならないなんて」
「そんな事は無いですよ。まあ空腹の時に食べ物が手に入らなかったりすると不便ですけれどね。でも、美味しい物を食べるのは、それはそれは幸せな事ですよ」
いつの間にか現れた使い魔が焼き肉を切り分けて絵描きの皿に乗せていた。絵描きは一言礼を言うと、小刀を片手に焼き肉を小さく切り取りながら口へと運んだ。その様子を少年は不思議そうに見ている。
「ああ、美味い!」
「おれは、にんげんの血のほうがうまいとおもう....」
「こういった食事が人間の血を美味しくしているんですよ、若君。物は試しです、食べて御覧なさいって。もしかしたら貴方にも美味しいものかもしれませんよ」
少年は、じっと食卓の上の料理を見詰め、やがて頷く。
「じゃあ、たべてみる」
絵描きは破顔し、手ずから少年の為に焼き肉やパイを取り分けてやった。少年は絵描きを真似て、手でパイを掴むと恐る恐る口に運んで齧ってみた。暫くもぐもぐと口を動かし、それを飲み込んだ。
「どうです?」
「おもしろいあじがする」
そう感想を述べると、少年は又一口パイを齧った。
「べつにきらいじゃないぞ、これ」
「そうですか、それは良かった。では、これからは一緒に食事が出来ますね。若君」
「うん、つきあってやってもいい」
少年は口のまわりを肉汁で汚しながら、一生懸命パイを頬張っている。
「おやおや」
生意気な口をきいても、やはり子供である。絵描きはくすくすと笑いながら立ち上がって幼い城主の口周りを拭ってやると、使い魔の差し出すナプキンを受け取って彼の首に括り付けてやった。その絵描きの腕をふと少年の小さな手が掴んだ。
「若君?」
絵描きの袖まくりされた左腕の内側に少年は目を惹かれているようであった。
「ああ・・・、これですか?」
絵描きは微笑み袖をもう心持ち捲ってその赤紫の小さな痣を少年に見せる。
「けがをしたのか?」
「いいえ」
絵描きは、懐かし気な瞳で痣に目を落とす。
「これは、貴方のお父君に頂いた物なんですよ」
「おれのちちうえから?」
「はい、父君が私を守って下さっている証です」
「ふうん」
そのまま少年はすぐにその痣からは興味を失ったらしく、再びパイに齧り付いた。少年はどうやら、その人間の食べ物を噛む感触が甚く気に入ったらしかった。
絵描きは、この月夜城を訪れると暫くの間滞在するのが常であったが、半年から長いときは一年近くも滞在し、絵を描いた。城内の一角に許された部屋を彼は自分のアトリエとして使っていた。彼はここで幾枚もの絵を描いたが、その内の数点は常に城主の肖像であった。
「またおれのえをかいてるのか?」
「はい、貴方を描くのは私の楽しみですので」
絵描きは微笑み、キャンバスに次々と筆を置いてゆく。
「今回、南の国でとても貴重な鉱石が手に入りましてね。これできっと、貴方の瞳の色に近い色が作れる筈なんです。鮮やかで深みのある蒼がね」
絵描きは嬉しそうである。幼い城主は聞いているのかいないのか、カウチの上にちょこんと座って絵描きから贈られた南国土産の様々な柄の貝殻を辺りに広げて遊んでいた。そんな少年の姿に、絵描きの思いは遠くへと馳せる。生まれて間も無く天に召された己が息子と、後を追う様に逝ってしまった妻。それから絵描きはずっと独り身であった。この幼い城主の仕草に、彼は亡くした息子を想う。幼い城主を描きながら、そこに彼は己が息子を重ね見ているのだ。
「若君、貴方にもいずれ、命よりも大切だと思える女性が現れるのでしょうね」
ふいに手を止めて呟く絵描きに、少年はきょとんと紺碧の瞳を丸くした。
「じょせい? おんなのこと?」
「ええ、愛する女性です。奥方ですよ」
「・・・・・・・・・」
少年は少し考える態を見せる。
「きゅうけつしゅぞくのおんなはすくないから、どうだろう・・・・」
「同じ種族でなければいけないという事は無いでしょう。将来貴方が愛する女性が仮令貴方の眷属で無かったとしても、そんな事はきっと大した問題にはなりますまい」
「そうか?」
「ええ、大切なのは貴方の心と相手の心ですよ」
「ふうん」
理解しているのかどうなのか、幼い城主の興味も無さそうな様子に、絵描きは静かに微苦笑した。