33.追憶(上)
復活致しました。これからもどうぞ宜しくお願い致します!
今日も、朝から燦々とお日様が輝いている。片手にバケツ、もう片手に柄杓を持ったジャスリンは、空を眩しそうに見上げた。
「うふっ! 今日もとっても良いお天気ですね」
嬉しそうに呟くと、夏服姿のジャスリンは柄杓でバケツの水をすくいながら花壇の薔薇にそれを撒いて歩く。今年も見事に咲き誇る魔女の薔薇園の薔薇達、紅に白に薄紅にと、大輪の薔薇が水を浴びて輝いている。
「手伝ってやろうか? ジャスリン」
「あら、ラーグ」
「貸せよ、俺がやってやる」
何処からとも無く現れたラーグは、ひょいと魔女の手からバケツと柄杓を取り上げる。
「ありがとう、ラーグ、優しいですね」
「今頃気付いたのかよ?」
ラーグは笑いながら水を撒いて歩く。その後からジャスリンは虫食いの葉などを時折摘みながら歩く。
「ああ、美味そうな色だな〜」
深紅の薔薇の前で、ラーグが溜息を吐いた。
「食べないで下さいね、ラーグ」
ジャスリンがくすくすと笑いながらからかうと、ラーグはにやりと意味ありげな笑顔を浮かべる。
「そうだな〜、ど〜せ食うなら俺、ジャスリンの事食いてえ」
「はい!?」
ジャスリンはスミレ色の瞳をまん丸く見開いて首を傾げた。ラーグはバケツを地面に置くと、ジャスリンの肩を抱き寄せる。
「何ですか? ラーグったら」
「ねえ、キスしていい?」
「はあっ!? 何ですと??」
ジャスリンは吃驚して、思わず尻上がりに高い声で叫ぶ。
「だって俺、ジャスリンの事、愛しちゃってるもん」
ラーグは楽しそうに言いながら魔女の頬を撫でる。
「冗談はやめて下さい、ラーグったら」
「冗談じゃねえもん、ウィードなんかやめて俺にしろってばさ」
頬をふくらませるジャスリンに、ラーグはゆっくりと身を屈めて来る。
「俺の方がウィードよりぜってぇ優しいし.....」
俄に甘い声で囁くラーグの、ウィードに酷似した表情にジャスリンは不覚にもどきりとする。
「ぜってぇ俺の方がジャスリンの事大事にする」
「ラーグ.....」
思わずラーグの顔にうっとりと見蕩れるジャスリンは、唇を奪われる寸での処ではっと覚醒し思い切り両手を前に突っ張った。
「ななな何するのですかっ!? ラーグ、怒りますよっ!」
「いいじゃんかよ、どーせ顔はウィードと変わんねえんだしぃ」
途端にいつもの口調と態度に戻るラーグ。
「顔なんて問題じゃ無いのですよ!」
「ええ〜っ、まじかよ? だってウィードから顔をとったら何にもいいとこねえじゃん。俺には優しい “はあと” があるけどさぁ」
肩を怒らせ口をつんと尖らせるジャスリンに、ラーグも不満げに腕を組む。
「んじゃさあ、ジャスリンは何でウィードが好きなわけ? どこが好きなわけよ?」
「........」
はたとジャスリンは口を噤んで考え始める。
「........」
瞳を明後日の方へ向けて考えている。
「........」
首を傾げ、人差し指で唇を弄びながらまだ考えている。
「........」
終いには、腕を組んで唸り始めた。
「.....ねえ、分かんねえの? ひょっとして.....」
ラーグは、肩を落として呆れている。
「そそそんな事ありません」
ジャスリンが焦った様に反論するも、ラーグの黒い瞳は疑わし気に細まる一方である。
「りっ、理由なんて良いのですよ。私は、ウィードがたとえメキールさんの処の牛さんか羊さんか子豚さんだったとしても、ウィードが良いのですっ!」
眉を逆立てて反論するジャスリンに、ラーグは少し意地悪な笑みを向ける。
「へえ〜、じゃあウィードがたとえメキールさんの処の牛さんか羊さんか子豚さんだったとしても “ちゅう” 出来る?」
「ででで出来ますともっ!」
「じゃあ、ウィードがもしヘビとかトカゲとか、そんなのだったとしても?」
「勿論です! たとえ、軒下にぶら下がっている蜘蛛さんや、薔薇園の土の中で蠢いているミミズさんだったとしても、私はウィードが良いのですっ!」
ラーグは、再び呆れ脱力した。
「ちぇ〜っ、そこまで力入れてのろけなくたって....、俺傷ついちゃうなぁ」
「のののっ、のろけっ!?」
ジャスリンは一瞬にして真っ赤になった。
「まあいいや、エムリーちゃんにでも会いに行って来よっと」
さっさと機嫌を直すや、ラーグは一瞬にしてハヤブサに姿を変えると空へと飛び立って行った。
「んもうっ、ラーグったら....、困った人ですね、プンっ」
唇をつんと尖らせながら、ジャスリンは柄杓の入ったバケツを片付ける為に手に取った。
居間に行くと、ウィードがソファーでいつもの如く古書を読んでいた。
「まあウィード、こちらにいらしたのですか」
ウィードの隣にちょこりと座るジャスリン。
「人を勝手に家畜やら爬虫類やら、はたまたお前の薔薇園のミミズなんぞにするな」
「えっっ!!」
本から顔も上げずに発せられたウィードの言葉に、ジャスリンは驚愕する。
「き、き、き....」
「木が何だ?」
「聞いていたのですか?」
「あれだけ騒がれりゃあ、嫌でも聞こえる」
ウィードが初めて本から顔を上げてジャスリンに冷えた紺碧の目を向ける。
「ひぃぃぃっ」
先程は思わず昂奮して、とんでも無く恥ずかしい事を口にしていた様な気のするジャスリンは、両手で頭を抱えて真っ赤になった。
「あああああれはですね、あの、ええと、そのぅ、もももも物の喩えでして」
ソファーの端までじりじりと後退ろうとするジャスリン。
「ほう? どんな喩えだ?」
「そ、それはですね...」
手にしていた本を傍らに置きながらウィードもじりじりとその身に迫る。ウィードの腕が焦るジャスリンの腰に回り抱き寄せた。
「ひゃっ?」
「俺を家畜やら爬虫類やら、はたまたお前の薔薇園のミミズなんぞに喩えるとは良い度胸だな」
「だだだだから、それだけ....、ええと...、その...、ウィードの事をですね...、あの....,その.....」
押し殺した様なウィードの声に、頬を染めながら依然要領の得ない言い訳を試みようとするジャスリンの腕をウィードの片腕が押さえ込んだ。
「ふえっ、許して下さいぃ〜」
「....俺もだ」
「え?」
ジャスリンを見下ろすウィードの瞳が和らいでいた。
「お前が、その辺の屋根裏のネズミだろうが、三歩歩けば何でも忘れる程の阿呆な鶏だろうが、草葉の影の雨蛙だろうが、ウラスの処のよぼよぼのぶち猫にたかっている蚤だろうが、時たま城内をうろついてるカメやコウモリの幽霊だったとしても、やっぱり俺はお前がいい」
「ウィード....」
ジャスリンは、頬を染めたまま瞳を潤ませた。ウィードの唇は今にもジャスリンの唇に触れそうな程に近付いている。
「だがミミズはごめんだ」
「あ?」
蚤が良くてミミズは駄目なのかと、ジャスリンは尋ねようとしたのだが、ウィードに唇を塞がれた為にそれも適わなかった。
「ただいまあ!」
ルヴィーの元気な声に、ウィードは渋々とジャスリンから唇を離す。
「早いな.....」
呟くウィードは、気のせいか恨めし気である。いや、気のせいであろう。買い物から戻って来たルヴィーが居間に駆け込んで来た。
「お帰りなさい、ルヴィー。あら? お客様ですか?」
「うん、ルクスだよ」
ルヴィーの後ろから、農家の倅であるルクスが恥ずかしそうに顔を見せ、ぺこりと頭を下げた。
「ウィード様、ルクスにギャラリーの絵を見せてあげても良いですか?」
「ああ、好きにしろ」
ルヴィーの問いにウィードは微笑んだ。
月夜城のギャラリーに処狭しと飾られている絵画に、ルクスは瞳を輝かせた。今年十八になるルクスは、農家の息子であったが絵を描く事が大好きであった。去年のウィードの誕生日に町の住人達から贈られたウィード達の肖像画は、このルクスが描いた物であった。その大きな肖像画も、無論このギャラリーに飾られている。
「うわあ、すごいなあ」
絵画に駆け寄るルクスに、ジャスリンもルヴィーも嬉しそうである。ルクスは一つ一つの絵画をじっくりと見て回る。
「ああ....、これ....」
「どうしたのですか?ルクス」
「こっ、これ、エデン ファン・マースだ」
「エデン ファン....マース??」
「魔女様、これエデン ファン・マースの絵ですよ! すっ、凄い! 生で見られるなんて!」
「有名なのですか?」
ジャスリンは、意味が分からず取りあえず尋ねてみる。
「はいっ! 四百年位前の画家で巨匠と呼ばれている人です」
「まあ.....」
「あ、これもエデン ファン・マースだ。あ、これも、あれもだ」
「気に入ったか?」
三人が一斉に声の主を振り返る。いつの間にか、ウィードが室内にいた。
「はい、ウィード様! このハレンガルで、エデン ファン・マースの絵を見られるなんて感激です。しかもこんなに!」
瞳を輝かせながら答える少年に、ウィードは微笑む。
「エデンの絵なら、他にもあるぞ」
「えっ?」
「ルヴィー、見せてやれ。場所は分かるだろう?」
「はい、ウィード様」
という事で、三人は月夜城の片隅の物置にいた。物置とは言ってもそれなりの広さの窓付きの部屋である。ルヴィーはまず背伸びをしながら窓を開けた。軋む音の後に、爽やかな風が室内に流れ込む。部屋の片隅には古そうなイーゼルが置かれ、随分と年月を帯びたらしき朽ちかけたかの様なパレットや、毛の抜けかけた大小の筆。物置というよりは、今はもう使われていないアトリエと行った趣である。そして白い布があちこちを被っていた。ルヴィーがその一枚をはぐると、いきなり埃がもうもうと立ち、哀れにもルヴィーは酷く咳き込んだ。
「大丈夫ですか? ルヴィー?」
ジャスリンが慌ててルヴィーにかけよるも、ジャスリンも埃の為にくしゃみを始める。
「ああっ!」
ルクスは一人、くしゃみとは無縁に瞳を輝かせていた。布の下から現れたのは、夥しい数のキャンバスや板であった。額に入っているもの、そうでないもの、大きい物から小さい物まで....。
「まあ! こんなに沢山!」
ジャスリンもびっくりして目を丸くしている。そして、他の布もそっとはぐって見る。
「まあ、こっちにも! 凄いですね。こんなに沢山ありますよ、ルクス」
三人は、それぞれの場所で絵を物色し始めた。ルクスは夢見心地で一枚一枚手に取っては、じっくりと絵を眺め、ジャスリンとルヴィーも楽しそうに絵を眺めた。
「こんなに沢山あっては、とても一日では見切れませんね」
「はい...」
「暇な時にいつでも来たら良いですわ、ルクス」
「ありがとうございます、魔女様!」
実に嬉しそうに返事をする少年に、ジャスリンは優しく微笑んだ。
「うふっ、この絵の女の子、とっても可愛らしいです」
「本当だね、とっても可愛い。誰だろう...? ウィード様の眷属かなあ...」
ジャスリンはルヴィーが綺麗に埃を拭き取ってくれた年代物の木の椅子に座って、甚く気に入った然程大きくも無い凝った意匠の額入りの絵を、先程からルヴィーと共にずっと眺めている。ごく幼い少女の胸元までの姿絵であった。恐らくは本繻子であろう、光沢のある鮮やかな蒼い色の頭巾から、緩やかな癖のある艶やかな黒髪が覗いている。首元から肩を凝った編みの金色にも見える黒レースが飾っている。身に纏っているのは、これ又高価そうな織りの衣装である。上げた手元に美しい色合いの小鳥がとまっている。
「決めましたよ、ルヴィー。この女の子の絵も、絵のお部屋に飾りましょう」
「うん、ジャスリン」
ルクスは、実に興味深気に、感嘆の瞳で溜息を零しつつ、絵画を一枚一枚手にとって眺めている。
「ルクスは本当に絵がお好きなのですね」
瞳を輝かせているそんな少年の姿を微笑ましく思いながら、ジャスリンが話しかけると、少年のはにかんだ笑顔が返って来た。
「はい、僕は絵を描くのも見るのも大好きなんです。世界は、何でも絵になります。エデン ファン・マースは本当に何でも絵にしてる。素晴らしい景色や、高貴な人々や、農民や動物から、道ばたの取るに足らない小さな花まで....。僕も彼の様な画家になれたらなぁ....」
「なれますとも貴方なら、ルクス」
すかさず返って来たジャスリンの力強い肯定の言葉に、ルクスははっと我に返る。
「あっ、いえ、でも、僕は畑仕事のかたわら、絵を描ければいいんです。ウラス親方の家具の絵付けも楽しいし..」
そう言う少年は、儚気な笑顔を浮かべていた。
「何を熱心に見ているんだ?」
居間で、物置から引っ張り出して来た件の絵を眺めているジャスリンに、いつの間にか姿を現していたウィードが興味も無さげにそれを覗き込んだ。
「..........」
気のせいか妙な表情を浮かべるウィードを、屈託の無い笑顔が見上げた。
「可愛いでしょう? この女の子。とっても気に入ったので、絵のお部屋に飾る事にしました」
「..........」
さらに妙な表情を浮かべるウィード。気のせいでは無かった様だ。
「どうしたのですか? ウィード? この女の子の絵、嫌いですか?」
ジャスリンが、やや心配そうに尋ねた。
「......“女の子” じゃ無いだろうが、それは....」
ぼそりと呟かれたウィードの言葉に、ジャスリンは大仰に目を見開いた。
「えっ!? 違うのですか?女の子にしか見えませんよ、ウィード」
「その服装は、女じゃ無い」
気のせいか、苦々し気に答えるウィード。
「違うのですか? こんなに可愛いのに」
「それは、昔の男児の服装だ。それにその時代、女児の肖像画に小鳥が描かれる事は無かった。鳥は、自由の象徴だった。昔の女達に自由は無かったからな」
「まあ......、そうなのですか?」
ジャスリンは素直に驚き、そして次の瞬間にはにっこり微笑んでいる。
「男の子でも良いのです。可愛い事には変わり有りませんもの。さっそく絵のお部屋に飾りましょう」
「止めとけ、胸くそ悪い」
「え? 嫌いなのですか? この絵」
「見たく無いぞ」
「じゃあ、私の部屋に飾っても良いですか?」
「......絵の部屋にしておけ」
ジャスリンの寝室は、今や自分の寝室も同然であると見なしているウィードは、苦々し気に妥協した。
「この女の子、いえ、男の子....、どなたなのでしょうね...」
うっとりと絵画を見詰めるジャスリンを横目で見ながら、やがてウィードは小さな溜息を吐いた。
「.........さあ...」
ぼそりと極り悪気に呟き、目を逸らすウィード。
「ウィードのご家族とかでは無いですか?きっとご先祖ですわ。だって黒い髪と蒼い瞳がウィードと一緒ですもの」
微笑みながら首を傾げるジャスリンを一瞥し、やはり気まずそうに目を逸らすウィード。何やら不審である。
「この絵も、エデンさんという方が描いたのですか?」
「ああ」
ジャスリンの問いに、ウィードの紺碧の瞳が、ふと懐かし気に細まった。