31.純愛(中)
相変わらず、のんびりと平和主義的なハレンガルの住人達は、月夜城の面々の中の新顔に非常に友好的であった。
「はあああぁ、べっぴんだなあ」
「血なら、何時でも俺が進呈しますっ!」
「あ、俺も俺もっ!」
「僕もっ! 若い方が美味しいんでしょ?」
あっという間に町の男達にやんやと囲まれたネフェイラは、さすがに驚き、目を瞬かせたが、すぐに気を取直し “コホんっ” とわざとらしい咳を零した。
「お前達、怖くはないの? 吸血鬼に血を吸われるなんて、人間なら普通怖れるものよ」
ネフェイラは、顎をつんと上げてお得意の傲慢さで物を問う。すると周囲の男共はそろって “にひゃら〜” と、すでに緩んでいた顔を更に緩ませた。
「ウィード様のお知り合いに、悪いお人はいないだべさ」
「うんうん、だから別に怖くなんか.....」
皆、のほほんと笑っている。ネフェイラはビシッと、取り巻く男達の内の一人を勢い良く指差すと魔族的な瞳で見下す様に見た。
「あら、例えばあたくしがお前の首筋に牙を立てたとして、お前の血があんまり美味しくて止められなくて、最後の一滴まで吸い尽くしたら? お前、死ぬわよ」
「え........」
意地悪なネフェイラの言葉に指差された若者は無論の事、取り巻き達は笑顔のまま固まった。
「そんな事をしてみろ...、俺がお前の血を吸い尽くしてやる」
突如、後ろから冷気と共に怒りを押し殺した様な声が起こった。ネフェイラはぎくりとするも、素早く表情を取り繕って振り返る。
「冗談に決まってるでしょ、アレスウィード。大体このあたくしが、そんな品の無い食事の仕方をすると思って?」
つんと顎を逸らせながら、黒眼鏡で瞳を隠しているウィードに目を向けるネフェイラ。
「夫婦者には手を出すな。恋人のいる者にも手を出すな」
「何ですの? それ?」
「警吏達の仕事が増える」
「は?」
ネフェイラに意味の通じる筈も無かった。
ここハレンガルの三人の警吏達の最大の仕事、それは.....、痴情の縺れによる男女の争い事の鎮圧。ネフェイラの周りの住人達から、力無い笑いが上がった。
ウィードの後ろではラーグが「けっけっけっ」と楽しそうに笑っている。
「ラーグ様も、気を付けてね」
ルヴィーが、目尻をつり上げてラーグを見上げた。
「え? 俺、ちゃんとその言いつけは守ってるよ、ルヴィーちゃん」
「はい、はい」
「何それ?」
「じゃあ、ジャスリンにちょっかい出さないでね、ラーグ様」
「へ? 私?」
「え〜、ジャスリンは特別でしょ?」
言いながらジャスリンの手から、繋がれていたルヴィーの手を解き自分の手を絡めるラーグフェイル。
「何ですか?ラーグったら」
「あいつらほっといて、二人でデートしようぜ、ジャスリン」
「ちょっと待て」
ジャスリンを連れ去ろうとするラーグの肩を、ウィードがすかさず掴んだ。
「ちぇ〜っ、いいじゃんかよ、たまには。俺だってジャスリンの事好きなんだからぁ」
「お前も、血を吸い尽くされたいのか?」
「え〜、ウィードにそんな趣味無いだろ?」
へらへら笑いながら言い返すラーグに、ウィードは空恐ろしい笑みを向ける。
「ふんっ、魔族に “そんな趣味” も何もあるか」
「えっっ!?」
ラーグが顔を引き攣らせながら後退った。
「しっ、知らなかったぜ、ウィードが両刀だったなんて...。おおお俺、自分とおんなじ顔とやる趣味ねえし、大体、女専門だから、俺っ」
「え.......」
ジャスリンが目を見開き固まった。
「話を飛躍させるな、阿呆、何故そうなるんだ?」
ウィードは軽いめまいを覚えながら、固まるジャスリンの肩を抱いて歩き出した。
ネフェイラのハレンガル見物に、何故だかくっ付いて来たウィードとラーグ。どうやら、ネフェイラがジャスリンに危害でも加えたりしやしないかとの一抹の不安を感じての事の様だが、勿論ジャスリンがそんな二人の心配に気付く筈も無く、只素直に喜び、町に繰り出して来た。
ジャスリンは、漸く住人達に解放されたネフェイラに再びあれこれと話しかけながら町中を案内する。《カフェ黒猫》の前まで来た時にはトマトジュースを勧める事も忘れない。店内を覗けば、デルフェンの夫婦も仲良く例の真紅のトマトジュースを飲んでおり、そこで根本的に性格の合わない女二人の皮肉の応酬合戦が展開されると、ジャスリンはおたおたしながら仲裁に入ろうとするもウィードに素早く腕を取られ椅子に座らせられた。
「放っておけ」
「はあ....でも...」
ジャスリンの向かいに腰掛けると、ウィードはかけていた黒眼鏡を外した。丸いレンズのそれは、去年の誕生祝いにジャスリンとルヴィーから贈られた物である。
「止めたところで、止まらんだろうが」
「まあ、そうかもしれませんけれど...」
ジャスリンは心配そうに、二人の魔族の女達へと目を向ける。ネフェイラは、エディラスジーナ達のテーブルにちゃっかりと腰を下ろして皮肉のやり取りをしている。ヒースラーグがジャスリンに苦笑しながら肩を竦めて見せた。
「あら? ラーグとルヴィーは?」
ジャスリンが辺りを見回した。ウィードもつられて見回し、そして眉間に皺を寄せた。
「あの馬鹿め、手当り次第に...」
「........」
開け放たれた窓の外に、うら若い娘の手を取り何やら熱心に話しかけているラーグの姿と、そのラーグのシャツの袖をしきりに引っ張っているルヴィーの姿があった。するとそこへ二人の神父が通りかかり、ドードが背後からラーグの頭をべしっと叩く様が見て取れた。「痛えなっ! くそじじい!」というラーグの怒声に、ジャスリンは呆気にとられ、ウィードはといえば、珍しくも実に楽し気な笑い声を零していた。ドードは、ラーグの怒りの声などには耳も貸さずに、さっさと《カフェ黒猫》へと入って来た。
「こりゃこりゃ、皆おそろいじゃなあ」
「本当ですね、老師」
ドードは店主のラスベスに機嫌良く片手を上げながら、ウィードとジャスリンのテーブルへと歩み寄って来た。当然の如くクレシスもその後に続けば、ラーグもぶつくさ言いながら、ルヴィーに背を押される様にして後に続いて来た。
辺りの魔族達と普通に和んでいるドードとクレシスの姿に、ネフェイラは唯一人表情を硬くした。普通の魔族ならば、まあ当然の事ではあった。
「あれは、神父ではなくて? エーデルワイズ伯?」
「うむ、いかにも彼等は神父だ」
ヒースは優雅にゴブレットを持ち上げながら答えた。
「し、神父がいるなんて聞いてないわ」
「大丈夫ですよ、ネフェイラさん。ハレンガルの神父さん達は、私達の味方ですから」
ネフェイラの様子に気付いたジャスリンが、優しく微笑みドードとクレシスを紹介した。しかしネフェイラは二人の神父達の胸に下がる十字架を見て、実に嫌そうな表情をした。その様子にドードがひゃっひゃっひゃっと笑い声を上げた。
「正直じゃなあ、わし等の聖なる印が嫌いか、お前さんは」
「魔族ですもの、好きなわけが無いわ」
「別に、お前さんに害はないと思うがの」
「でも、そっちの神父のはありそうだわ」
そう言って、クレシスに嫌悪の目を向けるネフェイラ。瞬時に彼の力を感じ取ったのであろう。
「安心して下さい。私は貴女の様な美しい女性に害をなしたりはしませんから」
爽やかな笑顔でクレシスは言った。
「おっ、出た出た、フェミニスト神父の悩殺スマイル、タカビー・ネフェイラを口説きに出るか?」
「何ですの? その “タカビー” って?
ネフェイラが眉を顰めながらラーグを振り返った。
「え? 高飛車のタカビー、あんたにぴったりじゃん」
「まっ! エーデルワイズ伯夫人と同じ位憎たらしいわね、お前は」
「ほら、俺の事 “お前” って言うとこからしてタカビーだっつうの」
この二人も根本的に性格が合わぬらしい。
「まあまあ、美しい女性をそんな風に苛めるものでは無いよ、ラーグ」
「そうですよ、ラーグったら」
クレシスは別に良いとして、ジャスリンにまで責められたラーグはほんの少し拗ねた様な顔をした。
「まあ、いじけるな。お前の気持ちも分からないでも無い」
珍しくもウィードが溜息混じりにラーグを慰めた。
「そーだろ、そーだろ? 分かるだろ? ウィードってば、たま〜に、ホントにごくたま〜に優しい時あるよな」
「悪かったな、 “ごくごくたま〜に” で」
ウィードは実に面白く無さそうに鼻を鳴らした。
「で、どれ程滞在されるのじゃ? お前さんは」
ラスベスの入れた薄荷茶の香りを満足げに嗅いだ後、ドードはネフェイラに尋ねた。
「ずっといるつもりよ。お前達神父の存在は気に食わないけれど、あたくしはここが結構気に入ったわ」
「ほえ、ずっとかいな?」
ドードは目を丸くした。
「何とか言えよ、ウィード〜。俺、やだぜ、あんなのと一緒に住むの〜」
ラーグが情けない顔をしながら隣のウィードの袖を引っ張って小声で耳打ちした。
「ってか、ウィードがあの女と一緒んなって、俺とジャスリンで “はっぴーえんど” なら、我慢するけどさぁ.....」
ウィードは腕を組み、眉間を深々と寄せながら溜息を吐いた。
「ネフェイラ共々お前を追い出す事にしよう」
「え〜っ! やだよっ! 鬼かよっ、あんたは!?」
突然叫び声を上げたラーグに、皆が驚きの目を向けた。
「大丈夫ですよ、ラーグったら」
傍らに座るルヴィーの、ミルクの白いヒゲを拭いてやっていたジャスリンが、苦笑しながら声をかけた。
「ウィードが本気で貴方を追い出す筈が無いでしょう、ねえ、ウィード? 大丈夫ですよ、ラーグ」
軽く言って退けるジャスリンに、ラーグとウィードは目を見合わせた。ドードと同じ薄荷茶を飲んでいたクレシスが、くすくすと笑い声を立てた。
「随分信用されているね、領主殿」
ウィードは、再びフンと鼻を鳴らすとトマトジュースのゴブレットに手を伸ばした。
一通りの町散策を終えての、散歩がてら徒歩での帰路の途中、湖の前でネフェイラがふと足を止めた。
「ネフェイラさん? 如何なさったのですか?」
「ねえ、あの湖のほとりまで行きたいわ、ジャスリン」
言い終える前にネフェイラはジャスリンの手首を掴んで道を逸れ、湖へ向かってずんずんと歩いて行く。
「俺、絶って〜あの女好かねえ。馴れ馴れしくジャスリンに触りやがって」
ラーグはぶつくさと愚痴った。
「お前は人の事言えるのか?」
湖のほとりへと歩いて行く二人の背を見送りながら愚痴るラーグへ、ウィードとルヴィーは呆れ顔を向けた。
「真珠湖程ではないけれど、綺麗ね」
ネフェイラの言葉にジャスリンは嬉しそうに微笑んだ。
「小さな湖ですけれど、お魚も沢山住んでいるのですよ」
「そう」
湖の周りにはシロツメクサの白い花が沢山咲いていた。ネフェイラはかがみ込みその花を一本摘み取った。
「真珠湖の辺りにも、沢山咲くのよ、この花」
そう言ってネフェイラは、摘んだシロツメクサに唇を寄せた。
「そういえば、昔、ネフェイラさんはカササギさんによくシロツメクサの花冠を編んで差し上げたのだそうですね?」
「えっ?」
ネフェイラは吃驚して目を見開いた。
「カササギさんが嬉しそうに教えてくれました」
「....タマフィヤンドラカスが...? 嬉しそうに....?」
ジャスリンは静かに微笑み頷いた。
その日の夕刻頃、すい〜っと飛んで来たカササギが月夜城に降り立った。言うまでも無いであろうが、タマフィヤンドラカスであった。
ジャスリンが招き入れた小さなカササギの姿に、ネフェイラは一瞬目を見開くも、すぐにつんと目を逸らした。
「やはりこちらにお出ででしたか、お嬢様」
タマフィヤンドラカスは、安堵の小さな溜息を洩らした。
「置き手紙には探すなと書いておいた筈よ。一体何をしに来たの?」
「どうか、お戻り下さい、お嬢様」
「嫌よ」
「旦那様が、大変心配してお出でです」
「.......」
ネフェイラは、不機嫌な表情も露に立ち上がった。
「お嬢様」
「あたくしはウィードの元で幸せだとでも言いなしておいたらいいわ。お父様はそれで納得するわ、きっと。分かったら、さっさとお帰り。お前の顔なんか見たくも無いわ」
ネフェイラは、タマフィヤンドラカスに目もくれずに足早に居間を出て行った。
「カササギさん...」
ソファーの背にとまったまま、がっくりとうなだれるタマフィヤンドラカスに、ジャスリンは何と言って慰めて良いかも分からない。
「あははは....、相変わらずですね、ネフェイラ様は」
突然顔を上げて力無い笑い声を上げるタマフィヤンドラカスを、ジャスリンのいたわる様な瞳が見詰める。
「でも....、お元気そうで安心致しましたです.... 」
溜息混じりの声であった。
「元気出して下さい、カササギさん」
「はい、ジャスリン様」
その時ウィードが居間に入って来た。
「これは、アレスウィード様、お邪魔しておりますです」
タマフィヤンドラカスは、ぴょこりと礼儀正しく頭を下げた。ウィードは向かい側のソファーにどっかりと腰を下ろした。
「ネフェイラ様がご迷惑をおかけしている事、主人に代わってお詫び申し上げます、アレスウィード様」
「全くだな」
ウィードが毒突くと、ジャスリンが非難の眼差しをウィードに送った。
「お前は、ネフェイラの家出の理由を知ってるのか?タマ公」
「お嬢様の、家出の理由...ですか? 貴方を追って来たのでしょう?」
「違う」
「え.....?」
「新しい恋を探す為に家出して来たんだと。吸血種族の血なんぞ、もうどうでもいいらしいぜ。で、ちなみに何故ハレンガルに来たかっていうとだな、彼女の家出は俺のせいだからだそうだ。俺の言葉で目が覚めたんだと。だから、彼女が仮に人間とでも恋に落ちたとして、ダヌベスがここまで怒鳴り込んで来たとしたら、俺には彼女の恋路を守る義務があるんだとさ」
「........」
タマフィヤンドラカスは言葉も無く、身動きもしなかった。鳥の姿では分かりづらかったものの、どうやら驚いているのであろう。
「って事だ、タマ公」
「.........私の名前はタマフィヤンドラカスです、アレスウィード様」
彼は、半ば上の空で言った。
空には半分に欠けた月が出ていた。ネフェイラは独り、湖のほとりに座っていた。ほぼ無意識の内に手は辺りのシロツメクサを摘み取り、花冠をせっせと編んでいた。
夕暮れ時、月夜城を訪れたタマフィヤンドラカスに背を向けてから、ネフェイラはそのまま表に飛び出して来た。暫くの間、空をぶらぶら飛び回り、気が付いたらこの湖沿いに降り立っていた。そして気が付いたらシロツメクサの花冠をせっせと編んでいる始末であった。
「何をやってるのかしら.....、あたくしったら....、馬鹿みたいだわ....」
花冠を編み終えてから、はっと我に返りネフェイラは自嘲気味に呟いた。
「大体、お父様ったら何故彼をここへ寄越すのよっ。一番会いたく無かったのに...」
突然、一人で怒り出すも、ネフェイラはすぐに肩を落とした。溜息と共に手は再びシロツメクサの花を摘み取っていた。
その時然程大きくも無い羽音がネフェイラの後ろで起こった。
「お嬢様、こちらでしたか、お探し致しましたよ」
振り返ってみると、小さなカササギがそこにいた。
「まだいたの? お前...」
「すみません.....」
俯くタマフィヤンドラカスの姿にネフェイラは何を考えたのか、手にしていたシロツメクサでちょちょっと小さな花冠を編んだ。そして数歩膝歩きでタマフィヤンドラカスに近付くと、そのカササギの頭に小さな花冠をそっと乗せ、 “ふむ” と首を傾げた。
「カササギにも似合うものね、シロツメクサって」
「.........」
ネフェイラはもう一本花を摘むと、それをカササギの尻尾にくくり付けた。タマフィヤンドラカスは己の尾を触られ、頬を染めていた。いや、鳥なので実際には分からないのだが....。
ネフェイラは更にシロツメクサを摘むと、今度は彼の羽に次々に差していった。
「あの...、お嬢様?」
困惑するタマフィヤンドラカスに、ネフェイラは面白がって花を差す。
「可愛いわよ、タマフィヤンドラカス」
「お褒め頂き光栄ですが...」
全身シロツメクサだらけにされたタマフィヤンドラカスの姿に、ネフェイラは満足げな笑い声を立てた。
「やれやれ....」
「あら、不満なの?」
「いいえ、お嬢様」
「じゃあ、嬉しい?」
「そうですね、嬉しく無い事もありませんですね」
「ウソでもいいから、素直に喜んだ見せたらどう?」
「それよりもお嬢様、本当にこの先ハレンガルで暮らすおつもりですか?」
「ええ、そのつもりよ。もう家には帰らなくてよ。あたくしを拒んだお前の姿なんか見たく無いもの」
「.....という事は、私のせいで家出をなさったということですか?」
「そうね、そう言う事になるわ」
「お嬢様.....」
「口付けくらい、してくれたって良かったと思うわよ。減る物で無し。でも、それだけお前があたくしの事を嫌っていたって事なのね」
「お嬢様っ!」
タマフィヤンドラカスは驚きに目を見開いた。(いや、実際は鳥なので分からなかったが)
「私がお嬢様を嫌う筈が無いじゃないですか...」
「あら、じゃあ何故あの時口付けをくれなかったの?」
「.........」
タマフィヤンドラカスは、溜息を洩らしながら目を逸らした。
「貴女は契約の主人のお嬢様であり、私は僕です」
「それが、何よ、くそくらえだわ」
ネフェイラは立ち上がり歩き出した。タマフィヤンドラカスはぴょんぴょんと跳ねながらネフェイラの後を追おうとした。身体から幾つかのシロツメクサが零れ落ちた。その時、綺麗に編まれた花冠に目を縫い留められた。カササギの姿は一瞬にして人型を取るや跪き、伸ばした手はその花冠に触れていた。美しい顔に切な気な色が浮かぶ。タマフィヤンドラカスは花冠を拾い上げると足早にネフェイラの背を追った。
突如背後に、地を踏む気配を認めて、ネフェイラは足を止めた。何かがそっと頭に置かれたが、暫く身動きもしなかった。背に感じる涼し気な気配が、酷く懐かしかった。少しでも身動きをすれば、その気配が遠のいてしまう様な気がして動けなかった。
「お嬢様.....」
優しい声と共に背後の気配が静かに動いた。気付けば鮮やかな翠の瞳がネフェイラを切な気に覗き込んでいた。ネフェイラは、両手を持ち上げ己の頭に乗せられた花冠を確かめると、その両手を伸ばして目の前の青年の首を捕らえ、背伸びをして唇で唇を塞いでいた。
ただ触れるだけの口付けに、タマフィヤンドラカスは拒む事も、答える事もしなかった。ゆっくりと唇を放し、後ずさるネフェイラは、先日の様に酷く傷ついた表情をしていた。
「....悪かったわね、嫌なら嫌って、言えばいいのよ、馬鹿ね.....」
ネフェイラは、自嘲気味な微笑を浮かべながら頭の花冠を無造作に外した。
「馬鹿みたいだわ....、何故今更こんな物、作ったのかしら....」
突然湖へ駆け寄ると、ネフェイラは花冠を握った腕を振りかぶった。その花冠を投げ捨てようとして、寸でのところでそれは阻まれていた。振りかぶった腕はタマフィヤンドラカスに掴まれていた。そして彼のもう片方の腕はネフェイラの肩を後ろから抱き締めていた。