2. 記念日
「俺は、人間達が呼ぶところの吸血鬼だ」
少し癖のある黒髪を掻き上げながら、アレスウィードが言った。
「まあ.....、そうですの?」
「そう、魔族は魔族でもな」
ジャスリンは納得し、深々と頷いた。魔族の中でも吸血種族は強い能力を持つ者が多いのである。だけど....と、ジャスリンの中に疑問が浮かぶ。
「あなたは.....、あなたは、何故昼間起きているのですか? 何故、昼間に起きていて死なないのですか?」
途端に黒髪の青年が鼻で笑う。
「お前、吸血鬼が陽に当たると、灰になって死ぬとでも思ってたのか?」
ジャスリンは、おずおずと頷いた。
「阿呆か? あんなのは人間がでっちあげた話だ。吸血種族は太陽を嫌うが、別に死にゃあしないぞ。ちなみに、十字架でも銀でもにんにくでも、死なないからな」
「まあ.....、じゃあ棺桶の中でも」
「寝るかっ! 阿呆っ!」
スミレ色の瞳をまあるく見開いて、本気で驚いているらしい魔女を尻目に、吸血鬼の青年はもう一度鼻を鳴らした。
「お前、人間に感化され過ぎじゃないか? それでも魔族か?」
「あ.....」
ジャスリンは、さらにびっくりして、さらに目を見開く。元々童顔であるのに、そうしていると余計に幼く見える。
「やっぱり分かりますか?」
「何がだ?」
「その...、私の...魔族の血...」
ジャスリンは上目遣いに尋ねる。
「当たり前だ」
即答されてしまった。
「だが、お前のは薄いな。混血だろう? 見てくれも、てんで人間だしな」
「あの、魔族なら誰でも分かるものですか? 私に魔族の血が流れている事。たとえ外見に特徴がなくても....」
「さあなあ...。阿呆な小悪魔には分からんかもな....、お前の血は薄そうだから...」
はあ....などと相槌を打ちつつ、ジャスリンは何やら複雑な顔をしていたのだが、そうかと思うと、どうしたものか急ににっこりと笑った。
「実は私も、今の今までは定かに知りませんでした。三十歳を過ぎてもどうも老けなかったので、もしかしたら〜って思ってはいたのですけど..、大当たりだったわけですね?」
ウィードはソファーの肘掛けに頬杖をついたまま、二〜三度瞬きをした。ジャスリンは、胸の前で両手を合わせ、小首を傾げてニコニコと微笑んでいる。長年の疑問が解け、実にすっきりしたと言いたげな笑顔であった。
「お前、阿呆か...? 阿呆だな。それでよく魔女を名乗ってるな。ある意味感心するぜ、俺は....」
ウィードの呆れ顔に、ジャスリンは再び目を見開く。
「だって仕方が無いですわ。親の顔を知りませんし、魔族の特徴なんて、年を取らない事以外に明らかな点が無いですし、私を十歳まで育ててくれた魔女も何も言ってなかったですし、魔族の方とは、今まであまり親しくありませんでしたし」
「ああー、分かった分かった!」
ウィードは、むきになって早口でまくしたてるジャスリンを、片手をひらつかせて遮った。
「で? お前は今幾つなんだ?」
「まあ、女性に年を尋ねるなんて。でも教えて差し上げます。あなたは私を助けて下さいましたから」
「いちいち勿体ぶるな、年齢くらいで」
「七十二歳ですの」
「ふん、ガキだな....」
ジャスリンの見かけは、十八〜九という処であろうか。顔立ちが幼い分、下手をしたらもっと若く見られたかもしれないが.....。
「そう仰るあなたはお幾つなのですか?」
「今年で、ちょうど四百歳になる」
「まあ....、そんなにお年を召してるんですか?」
ジャスリンはしきりに感心する。
「珍しくも無いだろうが。魔族は普通千年生きるって言うぞ」
「まあ...、そんなに?」
やれやれ、無知な魔女ってのも中にはいるんだな....などと独りごちながら、ウィードは立ち上がった。
「僕、小さい頃教会の悪魔払いの神父に捕まって、殺されそうになってた処をウィード様に助けて貰ったんだ」
ルヴィーは厨房で、火にかけた鍋をかき混ぜながら言った。
「そうでしたの。じゃあ私と一緒ね」
「うん、そう」
ルヴィーは頷く。
何て可愛い子でしょう...と、ジャスリンは内心思いながら微笑む。こんな良い子を、あの日攻撃しようとした自分を思い出し、ジャスリンの胸は痛んだ。心の中で謝りながら、彼女は一生懸命ジャガイモの皮を剥いた。ルヴィーの手伝いである。
ルヴィーはといえば、先程羽をむしった鶏に詰め物をしているところである。ジャスリンはそれを感心しながら眺めていた。
「ウィードは吸血鬼なのに、人間の食べ物を食べるのですね」
「うん、その代わりウィード様は、あまり人間の血を吸わないんだ。最低限しかね」
「へえ〜、そうですの??」
何て変わった吸血鬼だろう...、とジャスリンは思った。
「ウィード様は、良い吸血鬼なんだよ。ハレンガルの町の人達にも好かれてるし」
「人間達に?」
「そうだよ」
人間達に好かれる吸血鬼.....,というよりも、吸血鬼を好く人間がいるなんて、まさか...、ジャスリンには信じられない。
「町の人たちは、ウィードが魔族だって知らないのですか?」
「皆、知ってるよ」
益々、ジャスリンには分からない。
「町には、神父はいないのですか?」
「いるよ、一人。時々ここに遊びに来るから、その内会えるよ」
「えぇぇぇぇ〜っ! 痛っっ!!」
びっくりして、ジャガイモの皮と共に、自分の指まで切ってしまった。
「いたたぁ〜」
「大丈夫? ジャスリン」
傷を舐めながら情けない表情で頷くジャスリンを、心配そうに振り返りつつ、ルヴィーの手はてきぱきと動いている。大したものである。まるでプロの料理人の様だなどとジャスリンはちらっと思った。それにしても、吸血鬼の元に遊びに来る神父?? 本当だろうか.....。
そもそも、ハレンガルなどという町自体、ジャスリンはこれまで知らなかった。ウィード曰く、ライトン樹海のすぐ東に位置するそうだが、この城へ来て初めてその町の名を耳にしたのである。
『小さい町だから、地図にものってない。知る人もそう多くはない。無知なお前が知らないのは当然だ』
ウィードは、そう言った。
「あれっ?」
とは、ルヴィーの声。
ジャスリンが顔を上げると、ルヴィーが金色の瞳をきらりと光らせ、宙空に彷徨わせた。
「ウィード様がお出かけになるみたいだ。夕食は召し上がらないのかなあ...」
ジャスリンは、剥き終えたジャガイモをテーブルに置くと立ち上がった。
「私が聞いて来てあげましょう、ルヴィー」
両手を粉で真っ白にしながらルヴィーはニコッと笑った。
「ありがと、ジャスリン、玄関ホールにいらっしゃると思うよ」
果たして、そこには黒マントを着込んだ城主の姿があったのだが、少し様子がおかしい。歩く足取りが頼り無い。数歩ふらつきながら進むと、壁に体当たりして寄りかかったまま動かなくなった。
「どうなさったのですか?」
ジャスリンが驚いて足早に近付きながら尋ねると、ウィードは緩慢な動作で顔を上げた。その顔色の悪さにジャスリンは息を飲んだ。元々白皙な人物ではあったが、今のウィードの顔色は蒼白なのである。
「具合が悪いのですか?」
「ただの貧血だ。何でもない」
そう言って再び頭を壁に預ける。
「......血の匂いがするな...」
ウィードの力ない呟きに、ジャスリンは先程切った指を見る。それに気付いたウィードは、手を伸ばして彼女の手を掴んだ。指の傷を苦し気に見たかと思うと、わずかに滲む紅い色に唇を寄せた。傷を舐めるウィードの舌の感触に、ジャスリンは少し頬を赤らめた。
「残念...、ほとんど血が止まっちまってる」
「もしかして、血が必要なのですか?」
ぴんときたジャスリンが尋ねると、ウィードはにやりと笑った。
「そういう事。ちょっくら町へ血液補給に言って来る」
「そんな調子で町まで行けるのですか? 途中で行き倒れてしまうんじゃ...」
「馬鹿にするな」
青年は、フッと鼻で笑うと扉へ向かおうとする。
「あのっ! 私のでよろしければ差し上げますけれど....、あの、死なない程度になら.....」
ウィードが振り返ると、ジャスリンは長い髪を両手で片方の肩に寄せ、細い首筋を見せる。
「.....いいのか?」
ジャスリンは微笑み、頷いた。
「あなたは、私の命の恩人ですから」
ウィードは手をのばして、その白い首筋に触れ彼女の脈を感じた。その脈の感触に背筋がぞくりとする。
長身のウィードが背をかがめて、ジャスリンに被いかぶさる。ジャスリンは、首筋を襲うであろう痛みに耐える為に目をつぶった。そして次の瞬間、ジャスリンは硬直して目を見開いていた。
首筋の痛みの代わりに、何故か唇を柔らかいものが塞いでいる。そして次の瞬間、下唇にちくりと痛みが走った。その痛みを、自分の物ではない舌に幾度もなぞられ、そして.....、吸われた。
目を見開いたジャスリンに見えるのは、青白い肌と漆黒の髪。漆黒の睫毛は、夏の夜空の様な瞳を隠していた。
「ん〜っ! ん〜ん〜っ! ん〜〜っ!!!」
状況を把握したジャスリンは、両腕をフルに使って抵抗を開始するも、哀しいかな全く意味をなさない。
唇を解放された時、ジャスリンは荒く息をついていた。
「くっ苦しいじゃないですかっ!」
「阿呆かお前は、鼻で息しろ、鼻で」
「そっそんな事よりっ!」
ジャスリンは耳まで真っ赤になり、肩で息をしながら、目には涙まで浮かべ始めている。
「ななな何するんですかぁーっ!!!」
「何って、血をくれるって言ったのはお前だろうが?」
「だだだだからってっ! 何でっ、何でっ、唇から吸うんですかぁ〜っ!? 普通、吸血鬼が血を吸うのは、美女の首筋からでしょう!?」
「そんなの誰が決めた? 大体美女って誰だ? 俺は、唇から吸うのが一番好きなんだ。一番美味い。吸い過ぎて相手を殺す心配も無いしな」
「ふっ、ふぇっ」
顔を真っ赤にして、半べそ状態であるジャスリンの様子に、ウィードは内心楽しくなってしまった。ルヴィーの言うところの、 《良い吸血鬼》 も所詮は魔族である。
「お前の血は、美味いな」
吸血鬼らしい、恐ろしくも美しい笑みを浮かべながらウィードは魔女の耳元で囁く。
「もっとくれ」
言うや否やウィードはジャスリンの腰を抱き寄せ、再びその唇を奪う。抵抗を試みる両腕は、いともあっけなく封じられ後ろに回され、ウィードの片手にがっちりと掴まれてしまった。
口の中に、何かが侵入して来る。舌を舐められ捕えられ,ちくりと痛みが走ったかと思うと、柔らかく吸われた。胸は痛い程にドキドキと鳴り、体は熱く息は苦しい。恐慌状態に陥るジャスリンはこの時、己が魔女である事をどうやら失念していた模様である。次に解放された時の魔女の様子に、ウィードは実に楽しげに、にやりと笑った。顔色は、さっき程悪くはなくなっていた。
「ひっ、ひどいです〜。わっ、わたっ、わたっ」
「綿がどうした?」
「私のふぁーすときす〜!! ふぇ〜ん」
「ふぁーすときす? そりゃ良かったな、相手が俺で」
「良く無いですっっ!」
「ふむ、決めた」
ウィードは、ジャスリンの片手を掴んだまま歩き出した。
「何なんですかっ?」
居間に入ると、ウィードは片手でマントを脱ぎ捨てる。
「出かけるのは止めた。お前の血の方が美味い」
ソファーにどっかり腰を下ろし、同時にジャスリンの腕を無造作に引っ張る。バランスを崩して倒れ込んで来る彼女を横抱きに抱きすくめると、またまた唇を塞ぎ血を啜る。
「私のふぁーすときすが〜」
「減るもんじゃないだろうが、キスごとき」
「セクハラおやじ〜」
「誰がおやじだ?誰が?」
「ふぇ〜ん」
その日は、ジャスリンにとって生まれて初めての口付けを味わうという特別な日となりましたとさ。