16.ジャスリンとルヴィー、初アルバイトの巻き(下)
ウィードはゴブレットを手に取り、その真紅の液体を胃の中に流し込んだ。その美味さに目を閉じて溜息を吐く。そして再び目を開き、眉間に深々と皺を刻んだ。
「で?お前は何故ここにいる?」
ウィードは、丸いテーブルを挟んだ向かい側にちょこんと座っている無表情な兎の縫いぐるみに、刺々しく言葉を投げかけた。
「いけませんか?」
「目障りだ」
「ジャスリン様から、貴方様のお世話をする様、仰せつかっております」
「ウサ公なんぞに世話を焼かれてたまるか」
「残念ですが、ジャスリン様の御命ですので。私も不本意ながら、お世話をさせて頂かないわけには参りません」
「けっ!何が世話だ。お前はさっきっから胸クソわりぃ紅目で俺にガン飛ばしてるだけだろうが」
ウィードは、ぶつぶつ愚痴りながら、再びゴブレットを口元に運び、真紅の液体を飲み干した。
処は《カフェ黒猫》、もっか魔女と少年がお手伝い中の、ハレンガル唯一のカフェである。一週間程前、見慣れぬ服装で帰宅したジャスリンとルヴィーは、身重のヨーラの代わりに、暫く《カフェ黒猫》の手伝いをする事にしたと宣言した。いつまで続く事やらと内心思いつつも、ウィードは別段異を唱えはしなかった。だが思いのほか、もう一週間も続いている。その間休んだのは《カフェ黒猫》の定休日一日のみ。ルヴィーはともかく、あの鈍臭いジャスリンが、本当にラスベスの助けになっているのか興味を覚え、ウィードは本日見物のため町に出向いて来たというわけである。いや、厳密に言えば理由はそれだけでは無い。ジャスリンとルヴィーがカフェの手伝いを始めるようになってから、ジャスリンはウィードに気を使ってか、毎日この慇懃無礼な縫いぐるみ兎の使い魔を城に置いて行くのである。この兎の、ウィードの神経を逆撫でする事この上なく、実はウィードは、この無性に腹の立つジャスリンの使い魔から逃れるべく、今日は町へとやって来たのである。それなのに......、気付けば縫いぐるみ兎は、まるで嫌がらせの様にウィードにくっ付いて来ており、現在も嫌がらせの様に、ウィードの目の前に無表情のままちょこんと座っているのである。
「ウィード様、トマトジュースのおかわり、お持ちしましょうか?」
店主のラスベスが、愛想良く声をかけて来た。
「ああ、頼む。お前のところのトマトジュースは美味い」
「ありがとうございます,ウィード様」
ラスベスは心底嬉しそうな顔をした。その時、パリーンという音が響いた。何かが割れたのであろう。ウィードは苦々しげに眉間を押さえた。確か、先程も同じ音を聞いた様な気がする...。音のした方へと目を向けてみると、案の定魔女が困惑の表情で床を見詰めていた。
「今日は何度目だ?」
「はい?」
言葉の足りないウィードの問いの意味が、ラスベスに通じるわけも無い。
「少なくとも俺はあの音をすでに2度聞いてるぞ」
「あ...ええと、さて...」
ウィードの言わんとしている事が分かったラスベスは、曖昧に笑う。
「言葉を濁すところを見ると、これが3度目というわけじゃ無さそうだな,ラスベス」
「まあ、失敗は誰にでもある事でして...」
「ルヴィーはともかくとして、あれは本当に手伝いになってるのか?俺には邪魔している様にしか見えないぞ」
「とんでもありません、ウィード様、魔女様のお陰でうちは大繁盛ですよ。この一週間、連日この調子です」
ラスベスが店内を見回す。確かに店内は満席であり、カウンターには立ち客も沢山いる。
ああ〜,危ないよ魔女様!指でも切ったら大変だ!そんなの俺がやるって。....などなどの声が聴こえて来た。見れば、ジャスリンの落とした皿の破片を、客である若者達が数人がかりで片しているところであった。
入り口のドアが開き、カランカランと小さな鐘が鳴った。又新たな客である。うら若い娘が2人、ジャスリンの姿を認めると小走りに駆け寄った。
「こんにちは,魔女様!占いをお願いできませんか?」
2人揃って手を合わせ、甘える様なお願いのポーズをとっている。
「いいですよ、アーニャさん、エムリーさん、でも今テーブルが空いていないのです」
「待ちます、魔女様」
「そうですか?すみません」
ジャスリンは、少し申し訳無さそうに微笑んだ。すると壁際のテーブルの客達が立ち上がって娘達を手招きした。そして彼らは空になった皿やらカップやらを、自らカウンターまで片しに行く。近くにいたルヴィーが笑顔で礼を言っている模様である。
「.....成る程」
一応納得してみせたウィードにラスベスは微笑むと、トマトジュースのおかわりを取りに引っ込んだ。
「私のジャスリン様は、大変な人気者でございますね」
ピシャカレスは首をひねり、ジャスリンの姿を紅い目で追っていた。
「誰がお前のだって?」
「ジャスリン様です」
室内の気温が下がった。
「命が惜しく無い様だな,ウサ公」
ウィードがにやりと悪魔の微笑を浮かべながら、ゆらりと立ち上がってテーブル越しに白兎の両耳を掴み上げた。
「痛いです、アレスウィード様」
本当に痛いのかが疑わしい程、彼の声の調子は変わらない。
「ちょうどいい、ここの厨房で今すぐお前をぶつ切りにして兎鍋にしてもらおう」
「そんな事なさったら、必ず化けて出ますよ。末代まで祟って差し上げますから」
「小悪魔の幽霊が恐くて魔族なんぞやってられるか」
「ウィードったら、何してるんですか!?」
ジャスリンが飛んで来て、ウィードが掴み上げている縫いぐるみ兎を抱き抱えた。兎の頬がポッと薄桃色に染まる。
「放して下さい、ピーシャが可哀想ではありませんか」
「お前こそ放せ、こんな胸くそ悪いウサ公なんかに抱きつくな」
「ウィードが放してくれなければ、放しません!」
ちっ...と舌打ちすると、ウィードは渋々兎を解放した。
「大丈夫ですか?ピーシャ?」
ジャスリンは、兎を椅子に座らせると優しく耳や頭を撫でてやった。
「痛かったです、ジャスリン様。おいたわしいです、ジャスリン様、貴女がこんな横暴な吸血魔族の虜にされてしまったなんて....」
室温がさらに下がった。
「え〜と、別に虜にされてしまったわけではありませんけれど....」
「違うのですか?では、何故こんな横暴吸血鬼の元にお出でになるのですか?私の可愛いジャスリン様、脅されておいでなのですか?」
「いいえ、脅されてもいませんよ、ピーシャ、安心して下さい」
「では、一体何故?」
無表情でいぶかしむ使い魔に、ジャスリンは少し頬を染めて微笑む。
「ウィードの処にいたいからいるんですよ」
室温が一気に元に戻った。ジャスリンの使い魔ピシャカレスは、その後口を閉ざし本物の縫いぐるみの様になってしまった。どうやらショックが大きかったらしい。ウィードはこれ幸いと兎を無視して、2杯目の真紅のトマトジュースを飲み干すと、間も無く席を立った。先程のジャスリンの一言で機嫌は頗る良い。
「帰るのですか?ウィード」
「ああ」
「じゃあ、お代下さい」
「.........」
代金など払った事も無いウィードは、目を丸くし、そして次に両掌でポンポンポンと服のポケットというポケットを探り出す。ウィードには普段金などを持ち歩く習慣が無い。
「魔女様、ウィード様からお代なんて頂けませんよ」
ウィードのマントを手にラスベスが困惑している。
「頂いて下さい、ラスベスさん。私とルヴィーがいる間は、ね」
ジャスリンはにっこり笑って言った。
「金は無いな」
ウィードのその言葉に、ジャスリンが唇を少し尖らす。
「ルヴィーから貰っとけ」
「はい」
途端に笑顔に戻るジャスリン。フッと、ウィードの口角も微かに上がる。そして彼は素早くジャスリンの唇を掠め取る。周囲からはおお〜っという声が上がった。
「皆さんの前で何するのですかっ!?ウィードっ!」
顔を真っ赤にしてきゃんきゃん騒ぐジャスリンにさっさと背を向け、ウィードは《カフェ黒猫》を後にした。
目抜き通りを暫く歩いていたが、やがて背後に近付いて来た気配に、ウィードは又しても機嫌を害し、足を止め振り返った。
「又お前か、ウサ公」
「私のジャスリン様の唇を奪いましたね」
無表情の縫いぐるみの顔は、恨みがまし気であった。
「それがどうした、鬱陶しいから付いて来るな」
「私だって付いて行きたくはありません」
「じゃあ何故来る?」
ウィードは踵を返し、すたすたと歩き出す。
「ジャスリン様の御命令には逆らえません」
「けっ!」
「貴方の様な横暴魔族の傍にいらっしゃりたいだなんて、ジャスリン様、もしかしたらご病気なのかもしれませんね....、心の病とか......」
ルヴィーの背丈程しかない、縫いぐるみ兎は、その姿の割には足が速い。長い足でスタスタと歩いて行くウィードの後ろに、きっちりくっ付いて歩いている。いや、よく見ればぱたぱたと飛んでいるではないか.....。いつの間にかその背中には白い羽が生えていた。恐らくそれも、ジャスリンの好みなのであろう.....。
さてウィードの進んでいる方向はといえば,月夜城とは反対の方角、その道の先にはドード神父とクレシス神父の教会が見て取れる。恐らく教会まで行けば、このうっとおしい縫いぐるみ兎から解放されると考えたのであろう。確かにウィードは解放された。しかし縫いぐるみ兎は、律儀にもウィードが出て来るまで、教会の前でじっと待っていたのでありましたとさ。
ところで、ジャスリンさんとルヴィーさん、どうして急にアルバイトなんか始めたんですか?
「え?それは内緒です。ね、ルヴィー」
「うん」
内緒ねえ....。でも、ひょっとして読者の皆さんは、もう分かってらっしゃるかもしれませんよ。
「えっ!?何故でしょうか?」
「.......」
だって、14話の後書きで、お2人はあんなお知らせを皆さんにしていたでしょう?
「あ.....、どうしましょう、ルヴィー」
「う〜ん、取りあえず、ウィード様には内緒にしておいて下さいね」
はいはい、分かりました。という事で、お2人のアルバイトネタは、次回へ続くのですね?
「はい、続きます。ね、ルヴィー」
「うん!」
では、皆様、次回もどうぞよろしくお願いします。インタヴュアーの秋山らあれでした。