第7話──島の兄妹
彼女の足は、意外なほどに遅かった。
息を弾ませながら斜面を登り切ったときには、まだ遠くに背中が見えていて。わたしが駆けていく間に、その姿はどんどん大きくなっていって。草履と登山靴の違いや体格の違い──歩幅の差が大きい──はきっとある。だけどそれ以上に、もしかしたら彼女も本心では追いかけてきてほしいのかも……と考えてしまうのは、わたしのうぬぼれだろうか。
「は……ぁ──っ!」
ややあって、彼女の動きが止まる。行き止まりだ。林を歩いていたときも聞こえていたせせらぎ。十メートル幅くらいの小川が、いつの間にか、わたしたちの距離をゼロにするように目の前を流れていた。川面からの冷たい空気が火照った頬を冷やしてくれる。気持ちいい。
もう逃げられないと観念したのか、彼女が舌打ちをして振り返る。息一つ切らしてないところを見るに、さっきの予想は正しかったのかも、と少し思ったり。
「なんで追いかけてくんだよっ!」
「なんでって言われても……」
「はぁ? それくらいはっきりしろよ! このアホが!」
わあ、すごい逆ギレ。そしてまたボキャブラリーに乏しい悪口。まあ実際、わたしも「逃げられたから追いかけてしまった」くらいに適当な理由しか思い浮かばないんだけど。
「いや、だって、あんなふうに逃げられたら……」
「だからこっち来んなよ!」
わたしが一歩、前に出る。彼女が一歩、後ずさりをする。
前、後ろ。前、後ろ。前、後ろ。彼女の逃げ場がどんどんなくなっていく。うぅ、何だか追い詰めてるみたいでちょっと罪悪感。
──つるり。
と、彼女が濡れた石に足を滑らせたのは、その時だった。
「どわっ!?」
「佳世ちゃんっ!?」
──危ない! 慌てて駆け寄り、腕を伸ばす。彼女の手が、その場に踏みとどまるようにわたしのコートの袖を掴む。
そこで初めて、わたしは彼女の名前を叫んでいたことに気がついた。
佳世ちゃん、という呼び方が、自分の中でしっくりきた。無意識のうちに口をついて出ただけなのに、懐かしかった。欠けたパズルのピースが嵌った。
ああそうか。わたしはきっと、昔も、彼女のことをこう呼んでたんだ。
だけど、そんな感慨に浸る暇もなく。
わたしたちは二人揃ってバランスを崩し、浅瀬に滑り落ちていた。
意外に思われるけど、わたしは泳ぎだけは得意だ。運動はからきしで特に球技はノーコンもいいところだけど、両親いわく、なぜか水泳にだけは異様なやる気を見せていたらしい。転校を繰り返していたにもかかわらず、スイミングスクールなんかに通っていた時期もあったくらい。今は全く興味もないし、どうしてそんなにやる気があったのかも思い出せない。まあ、きっとテレビを観て影響を受けたとかそんなところだろう。幸い体だけは覚えているから、体育でクラスメイトの驚く顔を見てちょっと得意になることはあるけど、いいことと言えば本当にそれくらい。そもそも水泳の授業なんてみんなやる気ないし。見学する人多いし。
……というのは、膝よりも低い浅瀬でびしょ濡れになったわたしたちには、何の関係もない話なわけで。
「──ぶぇっくしょい!」
大きな岩に腰掛けた佳世ちゃんが、派手なくしゃみをする。日当たりのいい川辺ということもあり、服は雑巾みたいに絞ってばさばさとしただけですぐに乾いたようだけど、コートを羽織っているわたしと違って彼女は薄着。体が冷えちゃってないかちょっと心配。
「……大丈夫?」
「おう。そっちこそどうだ?」
「うん。平気」
どっちかというと思いっきり打ちつけたお尻のほうが不安かな。痛みは引いてきたから骨は大丈夫なんだろうけど、下半身がガクガクと震えて、しばらく立てないくらいだったし。
「ねえ……佳世ちゃん」
少しは動かしたほうがいいのかも、と思い、立ち上がって佳世ちゃんの前に出る。
「何だよ」
「わたしたち、前に会ったことがあるんだよね?」
確信はあった。いくらわたしでもそこまで鈍感じゃない。何度も引っ越しをしていた自分。佳世ちゃんだって、この島から一度も出たことがないわけじゃないだろう。どこかで接点があり、記憶に残るくらいの付き合いがあったんだ。きっと。
「……ああ。どっかの市民センターだったかな。偶然出会ってダチになったんだ」
ほんの少しの間を挟み、佳世ちゃんが小さく頷く。昔の友だち。やっぱり思い出せない。そんなに記憶力は悪くないと思うんだけど。そんなに薄情だったかな、わたし。
「どうして逃げたりしたの?」
尋ねてから、しまった、と思う。悪いのは忘れてたわたしだ。それをこんな責めるような言いかたをしてしまうなんて。
「何でもねえよ。ちょっとびっくりしただけさ」
「でも」
追いすがるように言葉が口をついて出てくる。そんなつもりじゃないのに、つい。
「……あたしら、つまんねえケンカしてさ。そのまま引っ越しちまったんだ」
「ケンカ? わたしたちが?」
「それ、ずっと気になってたし、コーカイしてたから。そんなヤツがいきなり目の前に出てきたんだ。ビビって逃げるしかねえよ。どんな顔すればいいか分からねえし」
「……そうだったんだ」
佳世ちゃんが、ぷい、と顔を背ける。ケンカ別れ。もしかしたらわたしは自分から忘れようとしたのかもしれない。友だちと仲直り出来ずに転校してしまった苦い記憶を消したくて、そんなふうに。
けど、それこそ薄情だ。嫌な思い出だったからって簡単に捨てていいわけじゃない。そんなの、わがままなわたしの、一方的な自己満足。
「……えっと、わたし、ぜんぜん覚えてなくて」
「昔のことだ。気にすんな」
「……うん」
ごめん。デリカシーのないことしかできないで、本当にごめんなさい。
重苦しい空気。わたしも目を伏せ、お互いに背中を向ける格好になる。沈黙。
「……あ」
気まずさを払うかのように、コートの裏ポケットで携帯のバイブ音が鳴った。ああ、そう言えば入れたままだった。これ防水機能ってついてたっけ? 動いてるから大丈夫だろうけど、ちょっと心配。
「ケータイか?」
「うん。先輩たち先に着いたみたい。神社で待ってるって」
鈴香先輩からの簡潔なメールを確認し、佳世ちゃんに頷く。もう一通、真夏からもすごい長文のメールが来ていたけどこっちはとりあえず無視。後でちゃんと読むけど今はそんな時間ないし。アンテナが一本かろうじて立っているだけだから、いつまた繋がらなくなるかも分からない。……もうすぐ着きます、と短く先輩に返信。
「そっか。んじゃ行くか」
話は終わりだ、とばかりに佳世ちゃんが大きく息を吐いて立ち上がった。わたしもそれに合わせ、携帯をポケットへ。うん。できるだけ自然でいよう。せっかくまた会えたんだから、気まずいのが続くのは嫌だ。楽観的だけど、お互い変に意識しなければ、きっと時間が解決してくれるはず。昔のことだっていつか思い出せるかもしれないし。
気を取り直した、その時だった。
「──そこにいるのか、佳世!?」
山道に入ってから初めて聞く、低い、男の人の声が響いた。
「兄貴っ!?」
声を上げる佳世ちゃんと一緒に、さっきわたしたちが走ってきた細い道を見やる。
二十歳くらいの短髪の男性が、長身を丸めるようにして現れた。
妹の佳世ちゃん同様、奏目神社で働いているという虎治恭介さん。
彼の第一印象は、最悪とまではいかないけれど、決していいものではなかった。
何しろ、わたしと佳世ちゃんを一瞥するやいなや、「てめえ、佳世に何しやがった!」といきなりすごい形相で掴みかかってきたのだ。あまりに唐突で『怖い』と感じる暇もなかった。たぶん、わたしが男子だったらそのまま締め上げられてたんじゃないだろうか。服が伸びなくてよかった。
その後、恭介さんは佳世ちゃんに後ろから飛び膝蹴りをくらわされ、事情を話したところでわたしに平謝り。年上の人に頭を下げられるなんて初めてだったから、何て言うか、すごく戸惑ってしまった。いや、まあ、傍目だとわたしが佳世ちゃんを泣かせたりしているようにも見えなくもなかっただろうし、誤解だって分かってくれればそれでOK。むしろこの喧嘩っ早いところが「ああ佳世ちゃんのお兄さんだなあ」と思って微笑ましくなってしまったのは、さすがに危機感が足りなすぎだろうか。甘ちゃん。世間知らずなわたし。……どうなんだろう。どんな人だって話せば分かってくれる、と思いたいけど。
「ずいぶんとお疲れのようだな」
「……まあ」
二時間ぶりに合流した先輩に、何とか片手を上げて答える。うん、本当に消耗してる。見知らぬ土地で一人ぼっちにされて、佳世ちゃんと一悶着あって、恭介さんには誤解されて。両足が引きつったように重いし、少し頭も痛い。「そもそも先輩たちのせいですよ」という嫌味が喉まで出かかったけど、声にする気力もないくらい。
「……瀬川さんに如月さん、それに来宮さん。これで全員か」
「ええ。本日はお世話になります」
わたしたち部活メンバー三人と、佳世ちゃんたち兄妹。お互い一列に並んで簡単な自己紹介を済ませたところで、改めて先輩が恭介さんに頭を下げる。わたしと真夏も、慌てて会釈。
「ああ。見学はいいが、一応この島じゃ唯一の神社だ。あんま非常識なことはしないでもらえると有り難いな」
「……言われなくても分かってますよ」
「ならいいんだが」
釘を刺すような恭介さんに、先輩が不快感を隠そうともしない口調で返す。
ここに来るまでに分かったけど、恭介さんはどちらかと言えば合宿に非協力的な感じだ。山道を歩いているときも案内というより見張られてるみたいだったし、今だってそう。ニュースなんかで『最近の若者は~』のような常套句とともに嘆かれる、観光客による文化財への落書きなどをちょっと思い出す。もしかしたら奏目神社も、前にそういう嫌な目にあったことがあるのかも。
もっとも、どんな理由があったとしてもいい気はしない。特に先輩なんて、そういう先入観みたいなのをすごく嫌うタイプだし。
「背、高いですねー」
と、そこに脳天気な声をかけたのは真夏。一触即発とまではいかないにしろ、この重苦しい雰囲気だ。よく割り込んでいけるなあと思う。向こう見ずと言えばそれまでだけど、これも彼女の人懐っこさがなせる業……なのかも。
「ん……? ああ、まあな」
「吸い取ったんですか?」
佳世ちゃんと恭介さん、二人の間で視線を往復させ、そのまま上目遣いで一言。うわあ、すごい爆弾発言。
「……おいコラ、だれがチビだって?」
恭介さんは180㎝は軽く超えている長身だし、一方の佳世ちゃんは言わずもがな。うん。そういうことだよね、今の。
「にゃはははは、冗談だよ」
「冗談になってねえよ! あたしは本気で悩んでんだからなっ!」
「だいじょぶだいじょぶ。わたしも毎日牛乳飲んでるけど全然大っきくならないし」
「何が大丈夫なんだよっ!」
「お仲間さん、お仲間さん」
「一緒にすんな! あたしはまだ伸びるっ!」
唖然とするわたしたちを尻目に、真夏と佳世ちゃんが追いかけっこを始めてしまう。石段を往復したり、手水舎のところでぐるぐると回ったり。巫女さんなのに、神社の境内でこんなことしていいのかな?
でも、真夏の口調に毒気を抜かれたのか、佳世ちゃんも本気で怒ってるわけじゃないみたい。こういう扱いかたは、さすが大家族の長女、と感心すればいいんだろうか。……何だっけ、外国のアニメにこんなのがあったような気がする。なかよくケンカしな?
「……何だありゃ?」
「スキンシップ……というところか?」
「そんな感じだよな」
ともあれ、じゃれ合ってる二人のおかげで場の空気が少し和らいだのは事実。真夏、もしここまで計算ずくでやったのならすごいと思うけど。
「……ん」
しばらく二人を眺めていた恭介さんが、顎に手を当てて黙り込んでしまう。どうしたんだろう。いや、まさか真夏の体を張ったギャグ(?)がツボに入ったとかそういうわけじゃないんだろうけど。
「よそモンの女子高生……か。ちょうどいいかもしれねえな」
諦めにも似た軽い息を吐きつつ、わたしたちのほうに向き直る。
「お前らに頼みたいことがあるんだが、いいか?」
え? 頼み?
予想もしなかった言葉に、思わず、先輩と顔を見合わせた。