第5話──奏目島
手触りが違う。
奏目島に着いたわたしは、最初にそう思った。
指の間を抜けていく、ゆるりと流れる風。暖かさとはまた別の、マシュマロを掴んでいるような感触。少しくすぐったくて心地いい。
ずいぶん遠くまで来たんだな、としみじみ思う。とりあえず、デジカメで写真を一枚。
「きれいなところだねー」
「うん」
きょろきょろと辺りを見回す真夏に、軽く頷く。もっと「いかにも田舎」(考えてみれば失礼な話かも)というのを想像していたけれど、道路はしっかりと舗装されているし、幅も広い。トラックや普通の乗用車もそれなりの頻度で行き交っている。
都会のようなせわしなさや混雑があるわけでもなく、かと言って何もかもが自然のままというわけでもない。バランスがいい? 過ごしやすそう? 全部ひっくるめて、真夏のように「きれい」と一言で表現してしまうのが正しい気がする。
「しかし、あまり歓迎はされてないみたいだな」
一日に二本しかないというバスの時刻表を覗いていた先輩が、ぽつりと呟いた。
「どういうことですか?」
「人の少ない離島だ。観光客が来るとなれば、送迎が来るのが普通だからさ」
「そういうものなんですか?」
「まあな」
「でもでも、そういうふうに決めつけちゃうのってちょっとヤですよ?」
『歩く性善説』の異名を持つ(漢文で習ったあと、一週間くらいふざけてそう呼ばれていただけだけど)真夏が、らしい返事をする。うん。わたしもそう思う。人が少ないっていうのは、皆がそれぞれの役割を持っていて忙しいってことでもあるだろうし。それに「客だから大事にされるのが当然」みたいな先輩の態度にも、ちょっと反論したい気にもなったり。
「ま、とにかく行くか。迷子になるなよ」
「なりませんって」
とりあえず港にほど近い民宿に向かい、荷物を置いてから行動開始。これからの予定を頭の中で軽く確認し、わたしはリュックサックを背負い直した。先輩のいつもの冗談なんだろうけど、いくらなんでもそこまで子供じゃない。知らない土地とは言え、その気になれば歩いて横断出来そうな狭い島だ。しかも道の数がものすごく少ないから「一本間違えて変なところに」なんてことも起こらない。
そもそも、こうして一緒に行動してる限り、迷子になんかなりえないわけで。
先輩を先頭に、三人揃って歩き出す。
奏目島での合宿は、こうして始まった。
「うそー……」
それから、たったの二時間後。
わたしは完全にはぐれ、山道を一人歩いていた。
アスファルトではない、少し湿ってる土の道。たまに木の板や丸太で出来た階段のようなところがあるから、ここが正しいルートで間違いないんだろうけど……やっぱり不安だなあ、こういうの。
ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだっけ。額の汗をぬぐい、今まで歩いてきた道を振り返る。
民宿に荷物を置き、軽装で出発したのが一時間前。最初の目的地は、島のほぼ中心部、山のてっぺんに建っている奏目神社だった。離島の神社というのは分社──本土の大きな神社から祭神を分け与えられたもの──が多く、ここのように独自の、しかも島の名前を冠する神社というのはけっこう珍しいらしい。見学するにはもってこいだし、最初に山の上から島の全貌を眺めておきたい、ということで決まった場所。
最初は談笑しながら緩やかな山を登っていたんだけど、「こっちのほうが近道だな。競争するか?」と先輩が一人、横道にそれてしまったのが15分前。方向感覚に自信があるのは分かるけど、急に予定を変えるのはやめてほしい。それも山の中で競争って。
そして「ねえねえ、あれリスじゃない!?」という甲高い声とともに、真夏が林の中へ消えていってしまったのがついさっき。とっさのことで、引き留める間も、追いかける余裕もなかった。
……以上が、わたしが一人になってしまったいきさつ。うん。わたしは何も悪くない。全部先輩と真夏のせいだ。遭難するような広さでもないし、天気も穏やか。ハイキング気分ではしゃぎたくなる気分も分かる。でも、ちょっと考えなしで好き勝手すぎないかな、二人とも。
さっきからずっと『圏外』になっている携帯を確認し、ポケットの中に戻す。とりあえず自動送信モードで「奏目神社で待ってますから」みたいな感じのメールを出しておいたから、あとは上手く繋がってくれれば連絡出来るはず。……もっとも、先輩たちも同じ山の中にいる限り、あんまり期待しちゃいけないような気もするけど。
「あーもう、どうして……」
仕方なしに、再び歩き出す。愚痴の一つでもこぼさないとやってられない。こんな貧乏クジを引くようなタイプだったっけ、わたし? どっちかと言えば誰かに引っ張ってもらうほうが性に合ってるんだけど。
新品の登山靴が泥に沈み、ぱきり、と木の枝が音を立てた。
それから10分ほど登ると、ようやく広いところに出た。
薄暗かった林を抜けただけで、乾いた地面になってずいぶんと歩きやすくなる。光を遮るものがあると、湿り気ってこんなに違うんだ、と少しびっくり。
太陽の眩しさに目を細めながら、辺りを見回す。道の先に小さな休憩所。よかった。ここで間違ってなかったみたい。少しの開放感もあり、ほっと息をもらす。
地図だと『山小屋』とか『ロッジ』とか書かれていたけれど、実際はそんなに大層なものじゃない。囲いで覆われた小さなスペースに、木製のテーブルと長椅子が置いてあるだけ。どちらかと言えば公園のベンチ、あるいはバス停みたいな感じだ。小屋でもなんでもないんじゃないかな、これ。
まあ、小さな屋根もあるしそれなりには休めそう。地図どおりなら奏目神社ももうすぐ。見晴らしのいいところまで来たから、もしかしたら携帯も通じるようになるかも。
「あれ……?」
と、そこに動きがあった。
小さな赤いものが、休憩所の柱のところに、ちらりと一瞬だけ見えたのだ。
真夏や先輩が先に着いていたのかと思ったけれど、二人とも赤いものなんて身に付けてなかったはず、と考え直す。
じゃあ気のせい? でも、緑ばかりの山の中で、あんなに目立つ赤を見紛うはずもないし……。地元の人だったら挨拶とかしないと。まさか変質者ってことはないよね?
怪訝に思いながら、小屋に近づいてみる。一応すぐに走れるように、靴紐を結び直して。
その時だった。
「だりゃああああああっっ!!」
声がした。威嚇。恫喝。あるいは怒号。その場で足を止めてしまうほどの大声。
しかも、わたしの真上から。
……え? なに? どういうこと? 「あっち向いてホイ」なんかでついつられてしまった時のように、弾かれたように顔を上げる。
「てめえかああああああっっ!!」
「──あだっ!?」
降りかかってきたのは、小さな手だった。誰かが、そばの高い木からわたしに向かって飛びかかってきたのだ。あろうことか、チョップの構えで。
もちろん反応することなんて出来っこない。思いっきり額に手刀を浴び、そのまま尻もちをついてしまう。頭にくらっときたし、お尻からは突き抜けるような痛み。地面が乾いてたのが唯一の救いかも。
「──っ、て、え?」
混乱したまま顔を上げたわたしは、そのまま固まってしまった。
なぜなら、わたしにチョップをしたその人物は、女の子だったから。腰まで届こうかという長い髪。着ている服は、赤と白のコントラスト。巫女さんの服だ。さっきの赤はこれだろう。白衣のあちこちが泥で汚れているのが、活発さをよく表している感じ。
逆光で表情はよく分からないけど、背格好はかなり小さく見える。わたしはもちろん、真夏よりも。中学生? それとも小学生? 飛びかかられたというより、じゃれつかれたのかも? あ、もしかして奏目神社の子? 巫女装束だし。家の手伝いでもしてるのかな?
ぐるぐると考えを巡らせているわたしをどう思ったのか、ちっ、と舌を鳴らすのが聞こえた。わたしのほうが明らかに年上ということもあって、ちょっとむっとする。人のことは言えないけど、初対面なんだしもう少し態度ってものがあるんじゃないだろうか。そもそも、冗談にせよそうじゃないにせよ、いきなり襲われるいわれはないわけで。
「な、なに、すっ──」
「ようやく捕まえたぞ、この野郎!」
反論しかけたわたしの声を、女の子の怒声がかき消した。ハスキーボイス……というほどではないけれど、ちょっと低めで迫力がある。情けないことに、ちょっとびくりとしてしまう。あと野郎じゃない、わたし。
「あたしをずっとつけ回して、どういうつもりだ!」
腰に手を当てた仁王立ちになって、怒鳴りつけてくる。
唾が飛んできた。