第4話──船上の夜
合宿の初日は、かなりの強行軍だった。
朝の五時前に起きて、六時に駅前に集合。新幹線で東京駅へ向かったあと、山手線やら特急やらを乗り継いでフェリーの出る港へ。先輩が指定席の予約などをしてくれていたから、わたしと真夏はただ後ろをついて行けばよかったんだけど……とにかく、朝が早いというのがきつかった。眠いし、体が重たい。自分でも気づかないうちに改札口の電光掲示板をぼーっと眺めていて、「ほら行くよー」と真夏に手を引っ張られてしまったくらい。
真夏はお母さんの勤務時間が不規則──看護師だと聞いている──こともあって、このくらいの時間からお弁当を作ったりすることも珍しくないというし、先輩は、そもそも眠そうな顔を見たことがない。そんな二人を見ていると、まるでわたしだけがだらしないように思えてしまったり。
それでもやっぱり、いつもと違う『合宿』に緊張と興奮があったのか。
いつの間にやらすっかり目は覚めて、午後には、地元にはない高いビルなんかを写真に撮るような余裕も出てきたりして。
『田舎者』と先輩に失笑されたのが、ちょっと恥ずかしかった。
だって東京、そんなに来たことないし。……やっぱり田舎者かも。
ぐらり。
船体が風に煽られたのか。足元が揺れ、自分が海の上にいることを実感する。
夕方に出航したフェリーは、思いのほか快適だった。
フェリーに乗るのは初めてじゃない。家族で北海道に行ったとき、一度だけ利用したことがある。
そのときは、お世辞にも過ごしやすいものじゃなかった。すごく混雑していて、教室くらいの広さの部屋で、他の人たちと一緒に寝るようになっていて。ここには入るな、とばかりに荷物で自分の陣地を作るような人までいて、子供心に嫌な思いをしたことだけは覚えている。
だけど、今回は違う。先輩が取ってくれたチケットのランクが高いからなのか、部屋はダイヤル式の鍵がついた個室。寝台列車みたいな二段ベッドがあるからゆったりと足を伸ばせるし、荷物を置くスペースだって十分。気になったのはシャワールームが共用なことくらい。船内に入ってすぐのロビーや売店を見たときなんか、ここ本当に船の中? と目を疑ってしまったほどだ。ちょっとしたホテルに泊まってる気分。
本当に先輩には頭が上がらない。お金の面でも、それ以外でも。
大きな揺れに足を取られないよう、手すりを掴みながら「シャワーの後で」と待ち合わせていたロビーへと向かう。船内は大きく二階層に分かれていて、二階が早朝に経由する八丈島、そして一階が奏目島に行く人たちの客室だ。もちろん乗客が多いのは八丈島で、わたしたちのほうはほぼ貸し切りの状態。吹き抜けのロビーで繋がってはいるけど、目的地が違うこともあり、わざわざこっちの階まで下りてくる人もいない。
つまり奏目島は、フェリーですら「他の島のついで」に回っていくような場所。観光地でもないし、そんなものなんだろう。
「終わりましたー」
ロビーの中央、円状のソファーで週刊誌を読んでいた鈴香先輩に声をかける。口を真一文字に結んだ真剣な表情で、ちょっと邪魔するのが悪いような雰囲気。
「ああ。気分はどうだ? 酔ったりしてないか?」
先輩がぱたんと週刊誌を閉じ、顔を上げる。ふわり、と漂ってくるコンディショナーの香り。先輩と、そして真夏と一緒にこの船に泊まるんだ、と改めて感じる。
「問題ないです」
何となく額に手を当て、びしっと敬礼。……やっぱり浮かれてるかもしれない、わたし。いつもは絶対にこんなことしないし。
「そうか。しかし残念だな」
「残念?」
「いや、ナンパの一つでもされないかと思ってたんだが」
「……されたいんですか?」
先輩らしかぬ単語が飛び出してきて、わたしは思わずきょろきょろと辺りを見回してしまった。ロビーの受付の人に、売店で暇そうに立っているおばさん。後は乗務員や輸送業者っぽい制服を着た人がちらほらといるだけで、話しかけてくるような人は一人もいない。
それに、先輩は男の人から話しかけられるようなタイプじゃないと思う。いや、ぜんぜん悪い意味じゃなくて。何て言うか隙がないのだ。わたしでさえ「邪魔しちゃ悪いかな」と一瞬思ってしまったくらいだし。実際お金持ちだし。お嬢様だし。
堅い? 真面目そう? 高嶺の花? うん、そんな感じ。
じゃあ、わたしや真夏だったらどうだろうか。先輩ほど大人びてないし、たぶん両親同伴の家族旅行だと思われておしまい。真夏なんかわたしよりも背が低いから、下手をしたら姉妹に思われちゃうかも。
……うん。結局わたしたちは三人とも、そういうのに向いてないんだと思う。
まあ、万が一声をかけられるようなことがあっても「すみません」と脱兎のごとく逃げるだけなんだけど。ただでさえ人見知りなのに、初対面の馴れ馴れしい男の人なんて、「怖い」としか思えない。
「別にそういうわけではないが」
……と、長々と考えを巡らせていると、先輩から返ってきたのは否定の言葉。
じゃあ何でそんなこと? という疑問を押し込んで、わたしは「はあ」とだけ答えておいた。
もしかしたら先輩も、わたしと同じなのかもしれない。クールに振る舞っていて、普段と何ら変わらないように見えるけど、内心では合宿というシチュエーションに浮かれ、ちょっとしたイベントが起こることに期待しているのかも。
それが「男の人に話しかけられること」なのはどうなんだろう、とは思うけど。
「真夏、どこ行ったんですか?」
何となく話題を変えたくなって、わたしは普段より大きめの声で尋ねた。真夏はわたしよりも先にシャワーを終えたはず。トイレにでも行ってるのかも、と気にしていなかったが、どんな話題でも明るく吹き飛ばしてくれる彼女がいないと、こういう時、少し落ち着かない。先輩と二人きりなのが気まずい……とまでは行かないにしろ、ちょっと間が持たないところがあったり。
「真夏ならデッキに出てるぞ。夜風に当たりたいんだそうだ」
「出られるんですか?」
「ああ。消灯時間までだがな」
そうなんだ。だったら誘ってくれればいいのに。構ってもらいたいってわけじゃないけど、少しはそう思う。
そんなわたしの不満(というほどのものじゃない)を読み取ったのか、先輩がくい、と親指で外のほうを示した。
「呼んできてくれるか? そろそろ明日の予定を確認しておきたいからな」
「別にいいですけど」
「頼む」
「じゃ、行ってきます」
夜中の、フェリーからの海上の景色。滅多にない機会だし、せっかくだから見てみたい。何だか都合のいいメッセンジャーにされた気もするけど。
わたしは軽く片手を上げて先輩の元を離れ、船尾側にある非常口へと向かった。
音楽室の防音壁みたいな分厚いドアを押し開くと、冷たい風が頬を撫でた。
隙間に身を滑らせ、デッキに出る。フェリーは南へ向かっているけれど、この時間はさすがに寒い。湯冷めしてしまいそう。
揺れる前髪をかき上げ、海から水平線、そして空へと視線を動かす。フェリーからの光と星々を除けば、あとは一面の黒。東京湾を出るまでは水平線にちらちらと明るいものがあったけれど、今はもう何も見えない。水平線は意外と近いって地学で習った気がする。うん。確かに。
はためくコートの裾を押さえながら顔を下ろすと、真夏は展望台のようになっているデッキの一角にいた。30センチほどの足場に乗って、長い髪を風になびかせて。わたしはくせっ毛気味だから、彼女の細くてさらさらとした髪がときどき羨ましい。寝ぐせとか毎朝大変だし。
「あれ、沙恵ちん?」
わたしの気配に気づいたのか、真夏が振り返る。
「先輩からここにいるって聞いたから。明日の話し合いするって」
エンジンの駆動音がけっこう大きいから、近くにいないと声が聞こえない。わたしも真夏の横に立ち、同じように海を眺めた。日が沈むまでは透き通っていた青い海も、光のない今は真っ黒。海中で蠢く巨大な魚──あるいは、もったりとしたコールタールの固まり──みたいで、少し気味が悪い。足が震え、尻込みしてしまう。
「ちょっと怖いよね。落ちちゃったら大変だし」
にっこりと笑いつつ、真夏が手すりに体重をかけて身を乗り出す。いや、言ってることとやってることが逆だと思うんだけど、それ。
「……真夏、危ないって」
「でも気持ちいいよ。世界の中心にいるみたい」
一瞬、風の勢いが強まって真夏の髪を大きく揺らす。周り360度、何もない海の上というステージで、瞬く星の光というスポットライトを浴びて。
世界の中心……か。ちょっと素敵な考え方かも。
「ねえ、沙恵ちん」
真夏がくるりとわたしのほうに向き直り、今度は背中を手すりに預ける格好になった。危なっかしくて、見てるこっちがはらはらしてしまう。心臓に悪い。
「なに?」
「わたしが落ちそうになったら、助けてくれる?」
「……え?」
いきなりの質問に面食らっていると、真夏が左手を伸ばしてきた。左手だ。左利きのわたしに合わせてくれる、彼女の無意識な優しさ。嬉しい反面、その手がわたしに差し出されたものだというのをひしひしと感じる。
「手、離さないでね」
「えぇー……?」
質問の意図が分からず、額にしわを寄せ悶々としてしまう。……いや、なにそれ。落ちる? 助ける? 離さないで? そんなふうにしおらしく言われても困るんだけど。そもそもシチュエーションが頭に入ってこない。それ、どういう流れ?
「あれ? もしかしてダメ? 見捨てちゃう?」
「いや無理だって」
もったりと浮き沈みする黒い海を一瞥し、ぶるり、と肩を震わせる。そんなに大きいフェリーではないけれど、海面まではかなりの高さがある。落ちてしまった時の衝撃だってかなりのものだろうし、何よりここは海のど真ん中だ。暗闇が支配する夜ともなれば、あっという間に呑み込まれ、見えなくなって、海の藻屑になってしまうだろう。わたし一人が助けようとしたってどうにもならない。圧倒的な自然の力。
……でも、まあ。
「……一応、がんばってはみる、かな?」
目の前の真夏の手に、そっと触れる。固く握り返すほど自信は持てないけど、それくらいなら。
真夏が、ここから落っこちてしまう。想像もしなかったし、したくもない。目の前でそんなことになったら、絶対にパニックになる。何が起こったか分からず、頭の中が真っ白になって、きちんとものを考えて動くことが出来なくなって。
でも。それでも、何とかしようとはすると思う。
わたしの前から、真夏がいなくなってしまうのは嫌だから。
「前向きに検討しておきます、って感じ?」
「いや、だからその前に落ちないでよ?」
「にゃはははは、分かってるよー」
真夏が軽い音を立てて足場を下り、「それじゃ戻ろっか」と船内のほうへと身を翻す。さっきまでのシリアスモードが嘘のような緊張感のない笑み。何だかごまかされた感じ。鼻歌交じりなのを見るに、わたしの要領を得ない返事にもとりあえず納得はしてくれたみたいだけど。
まあ、もともとが変な質問だったんだし、答えが変になるのもある意味当然なわけで。
「沙恵ちん、どしたの? すっちー先輩待ってるんでしょ?」
「あ……うん」
真夏の言葉に我に返り、慌てて彼女の背中を追いかける。
そして、最後にもう一度だけ空を見た。
無数の星。冷たい風。静かな海。世界の中心にいるわたしたち。
船上の夜は、更けてゆく。