第1話──部室にて
「──あだっ!?」
目の前に火花が散る。衝撃。
ひんやりとしたものが頬に触れ、鼻をつく埃っぽさに顔をしかめる。
「……沙恵ちん、だいじょーぶ?」
降りかかってくる声に顔を上げ、モヤを振り払うように二、三度まばたきをする。腕と足に、何かにぶつけたようなズキリとした痛み。
わたし──来宮沙恵はそこでようやく、自分の体が床の上に投げ出されていることに気がついた。四肢の鈍痛の理由は、恐らく傍らに倒れているパイプ椅子。寝ぼけて机からずり落ちて、その拍子にぶつけてしまったんだろう。
「変な夢みた……」
体を起こし、ぐるりと辺りを見回す。ところどころがひび割れている白い壁に、古い姿見が一台に、湿気で少し歪んでいる本棚が二つ。そしてテレビとゲーム機が、カモフラージュのカーテンと並んで一組。
部室棟の隅っこにひっそりと位置する、慣れ親しんだわたしたちの部室だ。
そして、目の前には心配半分、呆れ半分の顔を浮かべている友人──真夏の顔。
如月真夏。わたしと同じ民俗学研究会に所属するクラスメイトだ。少し変わった名前には八月生まれなのと「真夏の太陽のように明るい子でいてほしい」という両親の願いがあったらしいけど、その願いそのままに、本当に彼女は人懐こい……というか、馴れ馴れしくて暑苦しい。すぐ抱きついてきたりするし。
わたしが寒がりなところがあるから、そんなに悪くない組み合わせだとは思うけど。
いや、それはあまり関係ないか。
まあとにかく、どちらかと言えば内気なわたしにとって、真夏が数少ない友人なのは間違いないわけで。
「夢? どんなの?」
「いいよ、ほんとよく分かんないから」
他人の夢の話ほど、聞いててつまらないものはない。何かの雑誌に載っていたそんな記事を思い出し、真夏の前で手を振ってみせる。
夢って不思議だ。あれほど臨場感があったはずなのに、口に出すとバカらしいほどに現実味がない。目を覚ました瞬間に霧散してしまったかと思うと、何かの拍子にふっと思い出したりもする。
そのあたりを理屈っぽく考えるつもりはないけど、脳みそのいつも使ってないところを使ってるんだろうな、くらいには思う。
「びっくりしたよー。沙恵ちん、急にズルってなるんだもん」
よっぽど印象に残ったのか、真夏が律儀にもさっきのわたしを再現してくれる。机に突っ伏して寝ていて、そのまま額がずるずると下がっていって、最後にがくん、と。
うわ、かっこ悪い。自分のことながら思いっきり間抜けだ。
「沙恵ちん、よくこうなるよね。授業中とか」
「そんなに寝てる?」
「うん」
即答だ。きっと他のクラスメイトからも同じように思われてるんだろう。自分ではそんなつもりはないからちょっとショック。よく寝てるって言っても、ときどき先生に出席簿で叩かれたり、チョークを投げられたり、黒板の隅にペナルティで名前を書かれたり、「おはようさん」「いい夢見ろよ」と生温かい声で皮肉を言われたりするだけなのに。
……うん。やっぱりずいぶん寝てるや、わたし。
ちなみに睡眠中の生徒の肩やら背中をやたらと撫で回して『セクハラ教師』と影で言われていた先生は昨年の秋、一身上の都合とやらで退職してしまった。まあ、これは変に詮索しないほうがいいような気がする。
「沙恵ちんもテスト勉強?」
「そういうわけじゃないけど」
羽織っていたコートの埃を払い落とし、んん……と大きく伸びをする。壁に掛かっているカレンダーを見るまでもなく、今日は待ち望んだ期末考査の最終日。いちおう県下トップクラスということになっているうちの高校──県立東岸高等学校──では、徹夜で試験に臨む人も多い。それも、その場しのぎの一夜漬けというわけじゃなくて普通に毎日勉強している上で、だ。
だからテスト最終日ともなれば寝不足や徹夜組やらストレスやらで教室はピリピリしっぱなし。それが一気に解放された放課後ともなれば、いくら進学校とは言ってもおかしなテンションになるのは当たり前。駅前に遊びに行ったり部活に励む人はもちろん、自習室や図書室、教室で寝てる人もたくさんいるはずだ。
中には「これで自分の勉強が出来る」なんて喜々として予備校に向かう人もいるけど、さすがにそれは特別だろう。
で、わたしも試験勉強で寝不足かというと、そんなことは全くない。
もちろんテスト勉強は人並みにはするけど、眠くなったら寝るし、いい成績を取ってやろうと身構えたり、内申点やら大学入試やらの目標を見据えているわけでもない。
二年生の上半期が終わるのにいまだに志望校も決まっていない。目の前の試験をこなすだけで精一杯。そんな自分はこの学校では少数派だ。ついでに真夏も。
そういうわたしのやる気と目的意識のなさは、文系クラス136人中100番前後、中の下という微妙な成績がよく表していると思う。
それでもやっぱり、試験が終わるのは嬉しいし肩の荷が下りた感じもするわけで。
「まあ……気が抜けたってのはあるかな」
「だよねー」
「追試、引っかかってないといいけど」
「うぇ?」
何の気なしに呟くと、真夏が変な声を出す。……この反応、まさかとは思うけど。
「……もしかして、追試決まった?」
「数ⅡBー、教室出るとき後光さんに肩叩かれたー」
「あー」
後光さん、もとい後藤先生は見事なスキンヘッドで「後光が差している」ような数学の先生だ。自分でもそれを分かっているのか、授業中に意味もなく合掌したり不意に念仏を唱えてわたしたちを笑わせてくることがある。
そんな先生が、何かを悟ったような穏やかな顔で肩を叩いてくる仕草は『菩薩の微笑み』と影で恐れられていたりする。つまりは、追試の決定だったり大量の課題だったりだ。
テストの返却は一週間の秋休みを挟んだ下半期になってからで、ほとんどの先生は休みの間に採点を行う。つまり真夏の答案は、ぱっと流し見で追試決定──赤点だと分かるくらいにヒドいものだったんだろう。
わたしも数学は得意じゃないけど、真夏ほどではない。ベクトルは何か書いていれば少しは部分点がもらえるだろうし、微積も基礎問題だけは押さえたつもり。平均点は無理だろうけど赤点は回避出来ているはず……だ。たぶん。心配になってきた。
「沙恵ちーん、リーコン取ってー」
「……追試いいの?」
「現実逃避ー」
「……はい」
「ありがとー」
直感的な操作で人気のあるゲーム機『Lii』のコントローラー(通称リーコン)を真夏のほうにポンと投げてやる。ちなみにこのゲーム機、真夏の私物だ。入学祝いに買ってもらったものみたいだけど、真夏は長女ということもあってか弟や妹に譲りっぱなし。ずっと触ることすら出来なかったらしい。
で、ついこの間、弟たちがとうとう取り合いの大喧嘩をやらかしてしまい、最終的に落ち着いたのが部室に置いておくという形。普段は温厚な真夏が「こんなのがあるから争いが起きるんだよー!」と爆発した……かどうかは定かではないけど。
両親が共働きで、弟が三人に妹が一人。大家族で大変だというのは想像に難くない。まあ、賑やかで退屈しないとは思う。
ぼんやりとそんなことを考えていると、部室に来たときには確かにいた、もう一人の部員──部長の姿が見えないのにふと気づいた。
「真夏、先輩は?」
「生徒会室だって。ほら、予算のあれ」
真夏がドアの外をちらりと見る。わたしもつられ、部室棟から見える校舎のほうに目をやる。
各部の部長が一人一人呼び出されての、領収書の提出や四月に配布された予算案とのすり合わせ。先輩がわたしや真夏とは違う、いわゆる『デキる人』なのもあるけど、そういうお金のことや難しいことは全部任せっぱなしだ。たまに申し訳なくなる。
来年、引き継いだ後にきちんと出来るだろうか。ちょっと不安。わたしが部長になるというのは別にうぬぼれてるわけじゃなくて、家のことを優先させたい、という真夏と相談してすでに決めていることだ。年の離れた弟や妹たちを心配する彼女の気持ちはよく知ってるし、だからこそ、簡単に頼っちゃいけないと思う。
なるべく家から近い公立高校、という理由だけでこの学校に合格してしまったくらいなんだし。
「お、眠り姫はようやくお目覚めか」
と、ぼんやりと見つめていた部室の扉が、かちゃり、と開く。わたしより少し背の高い女子生徒。わたしや真夏とは違う、いわゆる『優等生』。生徒会室に呼ばれていた部長、瀬川鈴香先輩だ。
「……やめてくださいってば、それ」
『眠り姫』。このこっぱずかしい名前は三年生の先輩たちの中でのわたしのあだ名らしい。由来は、いつ教室を覗いてみても寝ているから。ちなみにもう一つの呼び名は外跳ね気味のくせっ毛と合わせての『眠り猫』。ほとんど変わってない。そしてひどい。まるでわたしが年中寝てばかりいるみたいじゃないか。……否定は出来ないけど。子供の頃から「よく寝る子」と言われ続けてきた自分の睡魔がちょっと嫌になる。
「そうか? 女の子は誰だってお姫さまに憧れるものだろう? 小学生の頃とか」
「もう高校生ですよ」
先輩が腰に手を当てたまま、わたしの傍らに立つ。芝居ががかった口調。それが嫌味でも格好付けでもなくごくごく自然になっているのは、先輩の自信というものがにじみ出ているからなんだろう。不安も迷いも一切ない、自分の言動への全面的な信頼。
『デキる人』だからそういう態度になったのか、そういう態度を貫いていたから『デキる人』になったのか。卵が先か、ニワトリが先か。どっちかは知らないけれど、とにかくわたしとはそういうところが違うのだ、先輩は。
「ま、それはそれとして沙恵ちんに目の覚めるニュースだ」
「沙恵ちん言わないで下さい」
先輩にそう呼ばれると何だかバカにされてるような気がする。真夏だと別にいいんだけど。
「ほれ」
軽い声と共に机の上に置かれたのは、平等院鳳凰堂が描かれた一枚の硬貨。どうでもいい話だけど、最初の中間テストで『平等院凰鳳堂』と書いて×をもらったのは苦い記憶だ。
「何ですかこれ」
「十円玉だ」
「いや、それは分かりますって。……旗文でパンでも買ってこいって言うんですか? 全然足りませんよ」
旗文堂──通称『旗文』は売上の99%がうちの高校から出ているであろう近所の個人商店だ。文房具からお菓子からコピー機の貸し出しまで行っている、第二の購買部みたいなお店。昼休みには菓子パンやインスタントラーメンを買い求める生徒たちで賑わうんだけど、カップ麺のフタを押さえながら往来で談笑する女子高生の集団は結構シュールだったりもする。
「下半期の部費だ」
「は?」
「ふぇ?」
思わず変な声を出してしまう。テレビを向いたままの真夏の手も、ぴたりと止まる。
部費? 確かに先輩は生徒会室に行ってたはずだけど、十円?
「どういうことですか?」
「うちの学校は実力主義だからな」
うん。それは知ってる。進学校だから……かどうかは知らないけど、うちの高校は生徒の自主性を重んじており、部活動の予算まで生徒会が中心になって決めているのだ。各部の部長が半期ごとに活動計画書を提出し、必要なお金を計算し、それに見合った分だけ受け取れるという形式。もちろんどの部だって予算はたくさんほしいから、そのあたりは生徒総会で議論を重ねて。
つまりは、きちんとした成果を出していない部には金はやらんぞ、というわけだ。
で、わたしたちのこの部活──民俗学研究会──の今までの活動はというと。
「うちの部、普段は何をしてる?」
「……別に何も」
活動日なんてあってないようなもの。この雰囲気が心地いいから用がなくても集まることは多いけど、好き勝手におかし食べたり、ゲームしたり、ぼーっとしたり、昼寝したり、たまにはテスト勉強したりするだけ。……うん。自由行動ばんざい。
「去年の学祭の発表は?」
「東岸城址の紹介と喫茶店……でしたっけ」
題目だけは立派だけど、実際は地元の博物館の見学レポートに毛の生えた、小学生の自由研究のようなもの。加速度やら何やらを計算した自作プログラムを走らせている物理部に、半球状のドームまで作り上げてしまった天文部のプラネタリウム、全国レベルの部員を有する囲碁将棋部のトーナメント戦など、進学校の面目躍如とばかりにすごいものが並ぶ文化部の展示の中では完全に浮いていた。喫茶店も、たった三人で出来るわけもなく実質ただの休憩所だったし。
「今年の新入部員は?」
「……ゼロです」
人見知り気味なわたしと、家のことで忙しい真夏と、唯我独尊の先輩。この三人でまともな勧誘が出来るわけもなく、当然のように一年生はゼロ。二年生はわたしと真夏の二人だし、三年生は先輩一人。現時点でもう、部活動として申請が出来る最低人数、三人ギリギリなのだ。
で、先輩は学祭が終われば引退し、半年後には卒業してしまうわけで。
「生徒会はこう言いたいんだろうな。『ふざけるな、廃部だ』と」
先輩があざけるような笑みを浮かべつつ肩をすくめる。いや、そんな大げさなジェスチャーしてる場合じゃないですよ? たった十円で、来年に新入部員が入るような活動をしろ、と? 事実上の死刑宣告じゃないですか?
「すっちー先輩、それ困りますよー……」
さすがにゲームなんてしていられないことに気づいたのか、真夏がリーコンを放り投げてわたしたちのほうに寄ってくる。進学校ながら『文武両道』を掲げている東岸高校では、部活動も全員どこかに所属するのが原則だ。何の遠慮もなく家のことを優先出来る部がなくなってしまう、というのは、真夏にとっては死活問題のはずだ。
もちろん、わたしも廃部なんて嫌だ。今から他の部に溶け込めるなんて思えないし、なにより、この居心地のよさから離れたくない。少し照れ臭いけど、気に入ってる、のだ。
「何とかならないんですか?」
鈴香先輩の落ち着き具合を不審に思い、わたしは探りを入れる感じで尋ねてみた。そもそも先輩が動じるところなんて想像出来ないけど、今日の雰囲気はいつもとちょっと違う気がする。まるでわたしたちをやきもきさせて楽しんでいる、そんな余裕があるような。
「ああ」
はたして、先輩が口元を緩ませ、首を縦に動かした。
「合宿に行こう」
突然の提案だった。