プロローグ
そこは、地獄だった。
もちろん、わたしは地獄なんて見たことないし、本当にあるのかだって知らない。
「信じるか?」と聞かれれば、心の奥底ではあるわけないと思いつつ「よく分からない」と無難な答えを返す。
地獄なんて言葉は、わたしにとってその程度の、全く縁のないもの。
……だった、はず、なのに。
「っ……は、ぁ」
光の届かない、洞窟のような場所を一人歩く。真っ赤な絵の具に黒と青と緑をほんの少しずつ足したような、リアルな血の色をした壁に囲まれた空間。
ぐにゃり、と壁が蠢く。見間違いじゃない。
人工的なものではない。生きている洞窟。消化器官。腸。巨大な生き物の中で、溶かされながら先へ先へと押し流されているような感覚。
ぜんどう運動……だったっけか。生物の授業で習った言葉が頭に浮かんでくる。漢字は思い出せないけど、とにかく、それだ。
「……ゃ……は、ぁ」
乾ききった唇の間から息を漏らすと、代わりに重苦しい空気が喉をこじ開けてくる。
空気が喉を押し潰し、窒息させてくる矛盾。口から身体の中に無理矢理手を突っ込まれた気分。侵食される肉体。支配されるわたし。気持ち悪い。吐きそう。
ふらつく足で半分倒れ込むように、足を前へと踏み出す。
──ヌチャリ。ネチャリ。トプッ。
紅い、高粘度のゲルのような地面が嫌な音と共に沈み、半透明の液体がしみ出してくる。湧き上がってくる臭いが鼻をつく。
雨の日の泥道で、長靴の中に水が入った時の気持ち悪い感触を何倍にもした感じ。まるで、肉塊で出来た地面を歩いているみたい。しかも活きのいい、まだ温かさの残る生肉だ。
凍えそうに寒い空間の中で、足元からむわっとしたものが立ち上ってくる。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
ここは、地獄、だ。
──へ、へ、へ。
声がした。笑い声? ううん、違う。抑揚のない、何の感情も含まれていない、もっと言えば「音だけがそこに在る」ような声。
怖い。得体の知れないモノは、理解出来ないモノは、恐怖しか呼び起こさない。
わたしはその場にうずくまって、両肩を抱いてぶるぶると震えた。
やめて。お願い。何もしないで。
何もかもが分からないまま、許して、と首を左右にぶんぶんと振る。
この地獄から……出して。
──へ、へ、へ。
──へ、へ、へ。
──へ……い。
──よ……ぐ…い。
また聞こえた。思わず耳を塞いだけれど、隙間を縫うように鼓膜を震わせてくる。
今度はリズムがある。祭りのお囃子や太鼓を少しだけ思い出す、強弱のある声。
そのギャップが怖い。楽しげにも思えるテンポで奏でられているのに、何も伝わってこない。さっきと同じ、音だけの存在。
人外。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。人間じゃない。人間じゃないモノが、そばに近づいてきている。この地獄にわたしを誘い、捉え、捕らえ、呑み込もうとしている。
叫び出したい。叫んでその声を掻き消したくなる。
なのに、声が出ない。吸い込んだ悪臭が胃袋の中で渦巻き、全身を侵し、犯し、体中をかき回す。ぞわぞわしたものが、体の奥をくすぐってくる。胃袋の中で練られた吐瀉物が、吐いちまえよ、とばかりに食道を逆に駆け上がる。
「……っぁ……、うぇ、ぇ……」
目尻に溜まる涙を拭うことも出来ず、わたしは倒れ込むように、地面に両手をついた。
びちゃっ。脛と手のひらに赤い液体がこびり付く。数滴、跳ねたのが頬を汚す。
「─────ッッ!! ぐ……げぇ──っ!」
悲鳴すら声にならない。涙と涎と嘔吐物を撒き散らしながら、わたしは赤ん坊のように両手、両足をばたばたとさせて暴れ回った。
もうやだ! もうやだ! もうやだよ!
脳みそが、どす黒いもので塗り潰されていく。
壊れていく。バラバラになっていく。自分が自分でなくなっていく。
果てにあるのは──発狂。
その時だった。
「──こっちだ、沙恵っ!」
凛とした声が、重苦しい空気を引き裂いた。
周囲の肉壁が引き締まる。まるで、その声が空間の新たな支配者になったかのように。
名前? 誰の? わたしの。呼んでるのは誰? 分からない。だけどその声には感情がこもっている。頼もしい。嬉しい。人が、誰かが、わたしをこの地獄から解放しようとしてくれている。
「……っ」
力を振り絞って立ち上がる。涙でぼやける視界で、声がしたほうを捉える。
光が見えた。
黒と赤だけが支配する地獄の中で、たった一つだけ輝いている光。
「手を伸ばせ! 戻ってこいっ!」
「心配すんな! 引っ張ってやる、あたしが!」
「お前のいる場所はこっちだ、沙恵っ!」
小さな瞬きの中に、五本の指が見える。小さな手。甲高い、なのに力強い声。女の子? わたしと同じくらいの? もっと小さい? もしかしたら子供?
ううん、そんなのどうだっていい。
わたしをここから出してくれるのなら、何だっていい。
ただただ、嬉しいだけ。
導かれるように、手を伸ばす。指と指とが触れ合う。冷え切った手を癒すように、お互いの体温を交換するように、濃密に絡ませ合う。
そして、彼女の柔らかな手を握り締めた、その瞬間。
世界が回った。
黒から白へ。闇から光へ。悪から善へ。
ぐるり、と。