ひとつめの贈り物
乱れる呼吸と不快な痛みを放つ心臓の所為で多少もたついた物の、診療所から家に戻るまでにかかった時間は数分だった。少々無理をしたので後で体に反動が来そうだが、それを危惧している場合ではない。
家に入り、それから彼女の寝ている寝室に向かおうとして、ふと妙な異臭がすることに気が付いた。
嫌な予感を覚えながら臭いをたどればその出所は食堂で、まさか毒霧の魔法でも発動しているのかと口を押さえながら中へと飛び込む。
だがそこにあったのは、あまりに予想外の光景だった。
「……なに、してる」
思わず尋ねた先にいたのは、調理器具を片手に鍋をのぞき込んでいる彼女だった。
「あ、先生お帰りなさい。今丁度、ご飯の支度してたんです」
さっきも食べただろうと尋ねかけてからそれどころではないと気づいて、俺は慌てて彼女に駆け寄った。そのまま肩を掴んで振り向かせ、俺は彼女の脈や瞳孔を確認する。
「なっ何するんですか!? 私はもう大丈夫ですよ!?」
「本当か? 誰かに魔法や呪いをかけられたりしてないか?」
「まっ魔法や呪いって、そんなものここにあるわけ無いじゃないですか」
「だが酷い異臭がする」
と言いながら改めて臭気をたどれば、そこにあったのは彼女が覗いていた鍋である。
「いっ異臭は酷いです! これはシチューです」
「物凄く不気味なマーブル色をしているが……」
「体に良いように、色々な素材を入れたんです!」
と得意げに胸を張る彼女は健康その物で、俺はほっと胸をなで下ろす。
「良かった…」
思わずこぼれた一言に、腕の中の彼女がギョッとした顔で俺を見た。
「どうしたんですか、何か変ですよ」
「いや、いいんだ。いつも通りで安心しただけだ」
「それより先生の方が顔色悪いです。よかったら、シチュー食べます? 体に良いですよ!」
「いや、激しくいらない」
「そう言わずに食べてくださいよ。丁度毒味役が欲しかったんです」
「毒味役ってお前……」
「だって、いきなり恋人に食べさせるのはさすがに心配だし」
だから食べてくださいと俺を見上げた瞳に。そして何より彼女の言葉に、俺は違和感を抱く。
「恋人?」
「はい、先生も知ってるでしょ」
知っていると答えることが出来なかったのは、俺を見つめる彼女の目に、いつもの無駄な輝きが一切なかった所為だ。
同時に俺は気付いた。俺と目が合うだけで興奮し、頬を赤らめ、嬉しそうにはにかむあの表情を、帰ってきてから一度も見ていない。
「お前……」
やはり何があったと尋ねようとしたとき、彼女の目が大きく見開かれる。そこで初めて、俺はいつもの彼女を見た。しかし輝くような笑顔と視線は、俺に向けられた物ではなかった。
「いっ今ご飯作ってるんです! 先生に毒味して貰うので、もうちょっと待ってて下さいね!」
笑顔の先にいたのは、まるで絵画の中から出てきたような完璧な美しさを称えた一人の男だった。
何者だと尋ねる余裕すら無い俺の腕からそつなく彼女を奪った男は、まるで物語の王子のような完璧な所作で甘いキスを彼女の指先に落とす。
「毒味なんていらないよ。君が作った物に入っているのは、僕への愛に決まってるんだから」
なんてクソ寒い台詞を吐くのだと思う俺とは反対に、彼女は男の言葉にうっとりと目尻を下げている。
それに無性に腹が立ち、一体何のつもりだと男と彼女の距離を引き離そうとした。けれど伸ばした腕が、二人に届くことはなかった。
「勿論、あなたへの愛をたっぷり入れてあります」
聞き慣れた頭の悪い台詞を男に向ける彼女と、そんな彼女の唇を奪う男。
その光景を歩幅一歩の距離で見せつけられた瞬間、俺の腕はまるで縫い止められたかように、その場から動けなくなった。
それどころか、深くなっていく口づけから逃れるように、体は勝手に食堂を飛び出していた。
あれは誰なのかという疑問より先に、俺以外の男に全てをさらけ出す彼女に激しい怒りを覚えた。
だが怒りを覚える意味が分からず、それ以上に理性を失い部屋を飛び出した自分の行動の意味が分からない。
「贈り物は、ちゃんと受け取ったみたいね」
怒りと混乱の中にいた俺を現実に引き戻したのは、いつの間にか側に立つ魔女だった。
「彼女に何をした」
自分でも驚くほど掠れた声に、魔女は不敵に笑った。
「言ったでしょ。これは、あなたと彼女への贈り物なの」