崩壊の序曲は彼女と共に
「その手を放せ魔女め!」
朦朧とする意識の中、過去を反芻していた俺の目を覚まさせたのは聞き知った老人の声だった。
重いまぶたを押し上げるとそこは俺が務めている診療所の入り口で、その前には手に鍬や斧を持った村人達が立っている。
穏やかさが取り柄の村にしては物騒だなとぼんやり考えていると、俺の体ががくりと揺れた。
そこで今更のように自分が車いすに乗せられていることに気付いた。
彼女は本気だったのかと思わず苦笑していると、今度は背後で甲高い悲鳴が上がる。
どうやら笑っている場合では無さそうだ。
「放してください!」
彼女が村人の一人に腕を掴まれているのに気付くと同時に、俺の体は反射的に車椅子から立ち上がっていた。
あまり無理をすると寿命を縮めることになるが、死を繰り返すうちに苦痛に耐える術は学んでいる。
それに多少無理をしても、ここは収拾を付けた方が後々の為だ。俺にとってこの手の修羅場はいつものことだが、初動を誤り更に酷い状況になったことは多々ある。
「乱暴はやめて頂けるだろうか」
俺が静かに言えば、彼女を取り囲んでいた村人達が退いた。それと同時に村長が不安げな顔で俺に駆け寄ってくる。
「でも先生、この女は絶対魔女ですぜ。こいつが来てから先生は急に倒れちまったし、先生がいなくなったらこの村は……」
村長が不安がるのも無理はないだろう。ここには俺以外の医者はいないし、確かに俺の不調は全面的に彼女の責任である。
だがそれを告げたところで彼らが信じるとは思えないので、俺は違う方向から村長を安心させることにした。
「もう既に後任の医師は手配してあります。それに彼女と私の病気は関係ありません、隠していたのですが元々私には持病があったんですよ」
むしろ隠していてすいませんと頭を下げれば、村長が複雑な顔で俺と彼女を交互に見ている。
「この女を庇っているとかじゃないですよね?」
「庇ってはいけませんか?」
あえて堂々とそう宣言すれば、村人達は唖然という顔で俺を見る。
口をあんぐり開けたまま硬直する村人達の顔は滑稽だが、俺は笑いそうになるのを堪え、さり気なく彼女を抱き寄せる。
「彼女は私の婚約者なんです。長旅の所為で今は少しみすぼらしい格好ですが、一応きちんとした貴族のお嬢さんですよ」
そう言って彼女の頬の口づけをとした直後、村人達はなるほどと頷く。
はずだった。
ここで彼女が久々のスキンシップに鼻血を出して倒れるまでは。
いつぞやのように血の雨を降らせて倒れる彼女を抱き支えれば、その情けない姿に村人達が本当にお嬢さんなのかとひそひそやり出す。
「まあ、少々変わり者ですが」
慌てて出したフォローも、この時ばかりは村人達の耳に入らなかったようだ。
やはり俺が魔法で騙されているのではと疑い出す村人達の様子に危機感を覚え、俺は気絶した彼女を車椅子に乗せ、その鼻にハンカチを突っ込むと、状況を立て直すためにここから立ち去ることにした。
とりあえず彼女のこの醜態では、俺が何を言っても誤魔化すのは無理だろう。
鼻血もそうだが、何より問題なのは彼女の格好がいつもの3倍はみすぼらしいことだ。
長い黒髪はボサボサで、手足は枝のように細く、着ている衣服も薄汚れてボロボロだ。
一体どんな生活をしていたのだと心配になったが、それをこの場で思案している暇はない。
僅かでも「婚約者」という言葉が効いているうちに、これ以上の争いが起きぬよう手を打たねばなるまい。
事態をこじらせて、彼女どころか自分まで死ぬ羽目になったことは今までに何度もあるので、ここは慎重にならねばと俺は気を引き締める。
どんなに良好な人間関係を築いていても、そこに彼女という異物が混入した途端、全てが崩壊するのは俺達の人生のお約束なのだ。
その上彼女は正直空気が読める方ではないので、ただでさえ険悪な状況をさらに悪くするのが得意だった。
俺も始めの頃は内心酷く腹を立てた物だが、357回も同様のことが起きればさすがに慣れてくる。
少々呆れはするが、怒るよりも繕うことに全力をかかげる方が得策だと最近では割り切っている。
だから心配そうに声をかけてくる村人に笑顔で「大丈夫です」を繰り返し、俺は彼女の乗った車椅子と共に、診療所の裏手にある俺の住まいへと急いだ。
この問題を解決したところで伸びるお命は僅かだが、それでもせっかくのんびりと暮らしてきたこの日々を、彼女の鼻血で潰されるのは嫌だった。