エピローグ
「ここです! 凄く綺麗でしょう!」
病床にあった俺を無理矢理連出そうとしていただけあって、彼女が俺の手を引き見せた桜は酷く美しかった。
彼女についた嘘を本当にする為にやってきたのは、診療所の側にある小川。底に並び立つ桜の中でも一際大きくて美しい物の側に、彼女は俺を連れてきた。
もう日が暮れはじめているので桜の色は霞んでいるが、それでも風に散る花びらの中に立てばその美しさはよく分かる。
せっかくだからと手を引く彼女に連れられるがまま、俺は桜の木の根本まで歩く。途中何度か足がもつれたが、そのたびに彼女が支えてくれた。
「ここ、座るのに丁度良いですよ」
そう言って、俺は桜の根本に彼女と二人で腰を下ろす。正確には腰を下ろした俺の腕の中に、彼女が小さな体を割り込ませた格好だ。
「病人に寄りかかるか普通」
「だって、隣に並ぶよりこうした方が密着できるじゃないですか」
俺の胸に体を預け、彼女は言う。でもそう言いつつ、なるべく負担をかけないよう体に力を入れているのは明白だ。
だから俺は、彼女が俺に全てを預けられるよう小さな体を抱え込んだ。
「密着ってのはこれくらいだろう」
「どうしたんですか、なんかいつもより積極的ですよ!」
「人間、死に際くらい素直になるもんだ」
俺の言葉に、彼女がびくりと肩を震わせる。それから彼女はうなじが見えるほど顔をうつむかせ、ポツリとこぼした。
「今回も、あんまり一緒にいられませんでしたね」
こぼれた声に潜む悲しげな声音に、俺は更に強く彼女を抱き寄せる。
「でもでも、きっと次はもっと長くあなたと一緒にいられると思うんです! だから、今回はこうして桜を見られたし、良しとします!」
明らかに空元気だと分かる声音に、俺は返す言葉がなかった。
次はないのだと、言うべきなのはわかっていた。
それ以上に彼女に今までの事を謝罪すべきだと思っていた。
なのに、振り返った彼女の顔を見た瞬間、俺は全ての言葉を飲み込んでしまう。
俺でない男に向けられて、物に当たるほど腹立たしいと思った愛おしい顔が、今は俺に向いている。それをまた失う瞬間を想像した途端、俺は何も言えなくなった。
結局俺は最後まで自分勝手な男なのだ。彼女が俺から離れる瞬間を、俺を愛さなくなる瞬間を俺は見たくないのだ。
「俺が、好きか?」
こぼれた言葉に、帰ってくるのは「当たり前です」という彼女らしい言葉。
「大好きです」
「本当に趣味が悪いな」
「そんな事無いです。あなたは最初からずっと、素敵で、格好良くて、優しい人じゃないですか」
言いながら、彼女は俺の掌に自分の掌を重ねる。
「覚えてないかもしれないけど、初めて会ったのもこれくらい大きな桜の木の側だったんですよ」
「覚えてるよ。酷い雨の次の日で、地面がぬかるんでて、それで……」
「靴が泥にはまっちゃって、それはもう見事にすっころんだんですよね。私が」
言った後、彼女は少しばつが悪そうに笑う。
「でもあのとき、実はお見合いの最中だったのは覚えてないでしょ?」
言われてみると、彼女の他に身なりの良い男が側にいたのを思いだす。
だがその彼が手をさしのべないので、最終的に俺が彼女を抱き起こし、泥から靴を引き抜いたのだ。
「あそこにいた人は王子様だったんです。それも私が憧れてた。でもあの人、自分が汚れたくないからって見てたんですよ! 酷いと思いません?」
「でも俺だってあのときは……」
「わかってます。あなたが私を助けてくれたのは、仕事だったからだって」
でも、恋に落ちるには十分だったんです。
そう言って彼女は俺の胸に顔を埋めた。
「357回も続く大恋愛だけど、きっかけは些細な物だったんです。そしてそのあとも、私が恋をしたのは些細なことばかりなんです」
それは多分、俺も同じだったのだろう。些細すぎて気づかない、そんな小さな部分で俺は彼女に惹かれていたのだ。
その事にもっと早くに気づいていれば、何かが変わっただろうか。それとも勝手な俺のことだから、彼女の愛を得られぬのことに耐えきれずやっぱり諦めてしまっただろうか。
そんなことを思いつつ、俺は彼女の髪を撫でる。
そして気付く。俺はこうして彼女の髪を撫でるのがたまらなく好きだったのだと。
「私、これからもあなたのいろんな所に恋します。呪いが悲鳴を上げて逃げ出すくらい沢山恋をして、そしてあなたのお嫁さんになります」
そう言って微笑む彼女を見ていると、本当にそうなる気がするから不思議だ。
でもそれは絶対にあり得ないことで。でもそれを認めたくなくて、俺はまた一つ嘘を重ねた。
「じゃあ、いつ呪いが解けても言いように次からは指輪でも用意しとくか」
「本当ですか!? 良いんですか!?」
「ちゃんとはめるのか?」
「決まってるじゃないですか!」
と彼女があまりに嬉しそうにするので、俺は側に生えていた花を引き抜いた。きっと彼女が次にはめる指輪は、俺が贈った物ではない。
魔女が言うように、さすがの彼女も俺の記憶が無くなれば諦めざるおえないだろう。呪いを解く条件を知り、心の底から俺を軽蔑する可能性もある。
でも今だけは、今この瞬間だけは、俺は彼女を自分のものにしたかった。
「とりあえず今は、これで我慢してくれ」
花を輪にして指輪を作り、俺はそれを彼女の指にはめる。お世辞にも綺麗な花とは言えなかったが、彼女は泣きながらそれを喜んだ。
そして俺は告げる。今まではただの口約束でしかなかった言葉を、初めて本心から。
「俺と結婚してくれるか?」
俺の言葉に彼女が大きく頷いた。
「もちろんです! 私、何度でもあなたのお嫁さんになります!」
それが本当になればいいと思った瞬間、俺の体が不自然に傾いだ。
俺の名を呼ぶ彼女の言葉に答えようとして、そこで俺は気付く。
彼女の名前が、俺は思い出せなかった。
357つもあるはずのそれを、俺は一つとして口に出来なかったのだ。
諦めるとはこういう事かと理解した瞬間、命と共に少しずつ、彼女との思い出が失われていくのを感じた。
初めてあったときの彼女の顔も。
俺を苦しめまいと自分を忘れろと行った時のことも。
再会を喜び俺に抱きついてきたときのことも。
目があった瞬間に死んだ自分たちを、来世で一緒に笑い飛ばしたことも。
どちらがより不幸な生い立ちにうまれかたを、馬鹿らしく自慢しあったことも。
キスをした瞬間冷たくなった彼女を見て、痛むとは思わなかった心が痛んで動揺したことも。
357回分の人生で出会った彼女の笑顔と泣き顔を少しずつ失いながら、俺は最後の力を振り絞って彼女と口づけを交わした。
「まだ死なないで……」
一人で支えることすら出来なくなった俺の体を抱きながら、彼女が俺の顔にポロポロと涙をこぼす。
その涙の一つ一つを覚えていたいと思った。思うと同時に、俺は自分が思う以上にそれまで見た彼女の涙を覚えていたことに気付いた。
今思えばそのどれもが大事な物だった。でもその大切さに気づけば、愛を得られぬ人生に耐えきれない気がして、そして自分の中の何かが壊れてしまう気がして、俺はずっと目を背けていたのだ。
本当に、俺は最低な男だ。
「逝かないでください……。私、まだ好きって言い足りないんです……」
それは俺もだとぼんやり思いながら、俺は彼女の髪を撫でた。どうしてそんなことをするのかも、もう分からなかった。
それでも髪を撫で続ける腕をぼんやりと見つめ、それから俺は心にただ一つ残った言葉をはき出した。
そして帰ってきたのは涙に濡れた笑顔と、「私もです」という言葉。それを嬉しく思ったはずなのに、返す言葉は見つからなかった。
感じたばかりの喜びすらも消え去り、最後に残ったのはやはり深い後悔だけだった。
いつもいつも、俺は死際に後悔してばかりだ。だけど今回は殊更死ぬのが辛い。
しかしその理由はもはや胸の内になく、唯一残った後悔すらも静かに消えて無くなり、俺は357回目の生涯を終えた。