苛立ちとその理由と
魔女に言われたわけではない。だが散々迷ったあげく、俺は結局食堂に戻ってきてしまった。
「あ、お帰りなさい」
呑気な彼女の声に答えようとして、結局軽く頷くにとどめた。
どことなく漂う甘い雰囲気が、俺の言葉を飲み込んだのだ。
彼女に万が一の事があったらまずいと思って見に来たのだが、それが失敗だったのは明かだ。
けれどここで方向転換するのも挙動不審なだけだ。既に1回妙なタイミングで逃げ出している前科もある。
「先生も、シチュー食べますよね! 今準備しますね!」
だは彼女はそんなことを気にする風もなく、俺に笑顔を向ける。
それに答えたかったが、彼女が動くたびに、さり気なく側に寄る男が目について仕方がない。
どんなときも笑みを絶やさず、そしてさり気なく彼女に甘い言葉をはいているのが離れていてもわかる。
そしてそれに喜ぶ彼女の様子に、俺は魔女の言葉を信じざるおえなかった。男には彼女に危害を加えるそぶりはないし、甘い台詞以外を話すそぶりも全くない。
本当に、ただただ彼女が望む行為を行っている。むしろそれだけしか行っていないのは明白だ。
「はい、どうぞ」
二人の様子をうかがっているのを悟られないようさり気なく視線をシチューに移して、俺は椀と共に置かれたスプーンを手に取る。
そう言えば、彼女の手料理は初めてだなと今更のように俺は気付いた。作ると言い出したときは何度もあったが、見ていて危なっかしい包丁捌きや火の扱いを見ていられず、結局は俺が口だけでなく全面的に手を出してしまうのが常だった。
けれどそれは間違った判断ではなかったようだと、この異臭から確信する。
だが確信すると同時に、彼女にちゃんと料理を教えておくのだったと思ってしまった。そうすれば、一回くらいは俺の為に作った料理が食べられたのにと何気なく思って、そして俺は口に運びかけたスプーンをあわてて置いた。
「やっぱりいらない」
下げた椀に彼女がみるみるうちに悲しそうな顔をする。
「臭いは酷いけど、味は結構美味しいと思うんです」
ならなおさら食いたくないと思って、それから自分の頭をよぎったばかげた考えに俺はウンザリした。
違う男の為に作った料理なんて食いたくないと、言いかけた口が難かった。こんなのはまるで、あの人形に嫉妬でもしているみたいではないか。
「食欲がない」
言うと同時に立ち上がると、何故だか突然彼女が俺の腕に縋り付いた。
俺がギョッとすると、彼女の方も酷く驚いた顔をしている。
自分がどうしてそんなことをしたのかわかっていない、そんな顔だった。
「彼に無理をさせては駄目だよ。シチューなら俺が残さず食べるから」
繋がった腕を優しく外したのは男で、彼に触れられた途端彼女はまた甘い表情を顔に浮かべる。
それがなんだか腹立たしく思った直後、無意識に俺の足は側にあった椅子を蹴り飛ばしていた。
ビクリと震えた彼女の肩を、男が何の躊躇いもなく抱き寄せるのがまた面白くない。
だがなによりも、そんなことを思う自分が一番腹立たしくて、俺はそれ以上何かを蹴り飛ばす前に、食堂から飛び出した。
結局また逃げ出した自分にうんざりしつつ、これ以上あの二人の様子を見ている必要はないと無理矢理自分を納得させる。
そのとき突然聞こえてきた小さな吐息に、俺はびくりと体をとめた。
それは彼女の小さなあえぎ声で、あわせて響く衣擦れの音から二人が口づけを交わしているのが分かる。
廊下に出ても聞こえる二人の息づかいは俺を酷く焦らせ、気が付けば俺は部屋だけでなく家を出ていた。
まだ日は高いが、高いからこそ外に長時間いるのは今の俺には辛い。
だからといってすぐさま家に戻るのもなんだか腹立たしく、結局俺は、側にある診療所へと向かった。
途中心配そうな顔の看護婦とすれ違ったが、挨拶をする余裕すらなかった。
どうしてそこまで余裕がないのかわからない。だが自分でも不思議なほど俺は追いつめられていた。
逃げるようにして飛び込んだのは、今朝まで自分が寝ていた病室だ。
ようやく一人きりになり、ほっと息をついて、俺は寝台にぐったりと身を預けた。
しかし一人になっても、頭をよぎるのはあの男と彼女が口づけを交わす瞬間ばかりで、俺は思わず二度、三度と壁を殴りつけていた。
苛立つことなど何もないはずなのに、むしろ喜ばしい状況であるはずなのに、それを喜べない自分が何より腹立たしい。
そして腹立たしさの理由を、俺は薄々とだが気づきはじめている。気付きはじめているからこそ、それに苛立つ自分が滑稽に思え、なおさら腹立たしいのだ。
「先生?」
そんなとき、ききしった声が俺を呼んだ。
顔を上げたくなかったので仕方なく声のした方に視線を走らせれば、先ほどすれ違った馴染みの看護婦が入り口に立っていた。
彼女は壁に打ち付けていた俺の手に目をとめ、それから慌てたように手当をしますと薬品を取りに走る。
そこで俺は、壁に打ち続けていた手の甲が真っ赤な血で染まっているのに気付いた。殴っているウチに派手に皮がずる剥けていたらしく、我ながらかなり痛々しい有様だ。
血に濡れた手の甲を見てようやく痛みを自覚するのと同時に、戻ってきた看護婦が俺の手を取った。
手当はいらないと言おうとしたが、それよりも、看護婦の厳しい視線が飛んでくる。
「治療しますよ」
という声はまるで子を叱る母親のようで、結局俺はされるがままだ。
「あまり痛くしないでくれよ」
「なら始めから、こんな怪我作らないでください」
悪いと言いながらガーゼを当てられるのをぼんやり眺めていると、看護婦が不意に顔を上げた。
「彼女さんと、喧嘩でもしました?」
「なんだよそれ」
してねぇよと続けたものの、拗ねた子どものようなその声音に自分でも驚いた。そんな俺を見て、看護婦はにこりと笑う。
「でも、先生を動揺させられるのは彼女くらいでしょ」
まるで知った風な口をきく看護婦を思わず睨んだが、彼女は相変わらずの笑顔だ。
「そんな顔しても無駄ですよ。むしろ嬉しいくらいなんですから」
「嬉しい?」
「ようやく、先生のことが分かった気がして」
当てられたガーゼの上から包帯を巻く看護婦の手は酷く優しく、腹立たしいのにその手を振り払うことは出来なかった。
「先生がこの村に来てから10年くらいたつけど、先生ずっと愛想笑いしかしないんですもの」
それに、凄く無理をしているようにも見えたと看護婦は告げる。
「別にそんなつもりはない。この村だって凄く気に入っていたし」
「確かに村には馴染んでましたけど、でもいつもつまらなそうにしてるなって思ってたんです」
近くにいる自分だから気づけたのだけどと、看護婦は少し得意げに笑った。
「でもあの子が来てから先生楽しそうに笑ってるから。だから私はね、もしあの子が本当の魔女だとしても先生の隣に置いておいてあげたいって思ったんです。もともと、早く嫁のもらい手でも見繕ってあげようって、年よりのお節介やこうとしてたし」
言われてみると、最近よく結婚相手はいないのかと看護婦を含む村の女性達に迫られることが良くあった。
見合いでも設定されると困るし、いずれ彼女が来るのは分かっていたから自分には婚約者がいると嘘をついてきたが、結果的にそれは功を奏したらしい。
「何が理由で喧嘩したのかは分かりませんけど、あの子は多分先生が思っているより先生に必要な子だと思うんです」
「あんな奴はいてもいなくても同じだ」
思わずこぼれた本音に、看護婦はおかしそうに笑う。
「でもこの10年で1度も見せなかったいろんな表情を、あの子は引き出してるんです。そうやって拗ねたような顔や、わかりにくい笑顔や苛立ちをあなたは私達に一度も見せてくれなかった」
「腹の内を全てさらけ出すのが良いことだとは思わない。それにそんなことで彼女が必要だとは思わない」
「必要です。だって今までのあなたはまるで死んだようでした。なのにこうして、病気で死にかけている今の方がずっと生き生きしている」
「それのどこが良い」
「その良さはあなたが一番よく分かっているはずです。この10年間と彼女が来てからの3日間、あなたにとって充実していたのはどちらですか?」
とっさに10年間だと言おうとした。だが「具体的な理由も行ってください」という看護婦の言葉に俺は詰まる。
この10年で楽しかったことを思いだそうとして、そこで俺は全く心当たりがない事に気づいた。
いつもより地味な生活をしている所為だと言い訳しようとしたが、何一つとして頭に浮かばないのでそれも難しい。
むしろ思いだそうとすればするほど、頭をよぎるのは俺の作った食事を美味そうに食べる彼女の姿や、俺の用意した服を手に取り笑う彼女の顔ばかりだった。
「彼女とちゃんと仲直りして、また笑顔にしてもらってください。うちの旦那とか周りのことは私が色々手回ししますから、今は思う存分あの子と一緒にいてもらいなさいな。先生には、絶対あの子が必要だから」
そう言う看護婦の目元が僅かに赤くなっているのに気付き、それから俺は何気なく目を向けた窓ガラスに映る自分の姿に愕然とした。
死と苦痛に慣れすぎているので気付かなかったが、俺の体は確実に死の間際に立つ人のそれだ。下手をすれば彼女以上に俺の今の容姿は酷い。
それに比べてと、ふとよぎったのはあの男の顔だ。
甘すぎると俺は馬鹿にしたが、少なくとも今の俺と比べたら奴の方がよっぽど彼女にはお似合いだ。
むしろ彼女が望むのはきっと、ああ言う男だったのだろう。
どんなときも笑顔で愛を囁き、彼女を心の底から受け止め、慈しむ男を彼女は望んでいるに違いない。彼女の望みのために、そうなろうと務めてきた俺が言うのだから間違いない。
あの男もまた偽りには違いないが、己の為に笑顔を浮かべる俺と比べればあの人形の方が何倍もマシだ。そしてきっと、呪いが解けた彼女が出会うであろう男の方がもっと彼女を幸せにするに違いない。
「俺は、彼女の側にいるべきじゃない」
こぼれた本音に続き、看護婦が何か言った。
しかしその言葉は俺には届かなかった。耳障りな音が、彼女の言葉をかき消したからだ。
「先生!」
看護婦の悲鳴にも似た声に何があったのかと考えて、そこで俺は声を遠ざけていたのが激しく咳き込む音だと気づく。そしてそれが俺自身の物だと自覚した直後、胸が焼けるように熱くなり呼吸が乱れた。
そのまま息が苦しくなり、せっかく巻いて貰った包帯が真っ赤になった直後、こらえ性のない俺の意識はあっという間に闇に飲まれた。