357回目の後悔
「私のことは忘れてください。そしてあなたは幸せになって下さい」
そう言って微笑む彼女の手を取ってしまった瞬間のことを、後悔と共に思い出すのは決まって自分が死ぬときだった。
どうしてあのとき、俺はあんなにも安易だったのだろうか。
そして何より、酷く面倒な女を調子づかせることを言ってしまったのか。
そんな後悔と共にあのときのことを思い出しながら、俺はもう356回も死んでいる。
たぶんあと1日もすれば、そこに回数がひとつ足されるだろう。
356回も死を繰り返していると、何となくだがそろそろ自分が死ぬ事がわかるようになるのだ。そしてその予感は、数日前からこうして俺を時々襲うようになっている。
そのたびに俺は357回目のささやかな人生を静かに終わらせたいと願っているのだが、残念ながらそれは叶わないらしい。
なにせ、俺が寝ている小さな部屋にはガラス窓を震わせるほどの泣き声が響いている。
そしてその原因は、俺の体に縋り付いている女である。
死んだらイヤだ、行くなと泣き叫ぶ彼女もまた俺同様356回も生き死にを繰り返し、そしてその記憶を共有しているというのに、どうにもこの瞬間が慣れないらしい。
「私達、まだであって3日なのに! 3日なのにもうお別れなんて酷すぎです!」
といいつつ病人の体をばんばん叩くのはやめて欲しいが、こいつは人生をいくらやり直しても、常識という二文字が欠落したままなのだ。
「そう騒がなくても、まだ1日くらいは生きていると思うぞ」
「1日ですよ、たった1日!」
俺が元気だったら色々出来ることもあるが、1日じゃ何もできないと騒ぐ女に俺は辟易する。
だけどその思いを、決してを口に出すことは出来ない。
彼女に呆れていることも、かつて彼女の手を取った俺の真意が愛とは別の所にあることも、悟られるわけにはいかないからだ。
「そうだ、どうせ死ぬなら病院抜け出しましょう! 裏の小川の所の桜が凄い綺麗だったんです! せっかくならそこで死にましょうよ!」
「いや、ここで良い」
「良くないです! 私達、今回はまだお付き合いっぽいことすらしてないんですよ!」
だから最後くらい素敵な想い出を作りましょうと言うが早いが、車椅子を探しに部屋を出て行く彼女にはため息しか出ない。
ここ50回ほど、彼女が俺の死に目に立ちあう事がなかったので忘れていたが、俺の死に際が近づくと彼女は普段からあまり無い冷静さを完全に失うたちなのだ。
正直、頼むからどこか別の所に行ってくれと思うが、勿論そんなことを言えるわけがない。
そう言えば彼女は俺の気持ちに気付くだろう。
357回も出会いを繰り返しながら、これっぽっちも彼女のことを好きになれない俺の気持ちに。
「車いす強奪してきました!」
そう言って部屋に駆け込んでくる彼女に仕方なくありがとうと微笑めば、やつはだらしのない顔で笑みを返してくる。
「愛するあなたのためなら、例え火の中水の中です!」
火や水どころか時間も世界も死すら乗り越えて俺に縋り付いてくる彼女に、正直辟易しないほうがおかしい。
だがそれを口にすれば、この長い長い人生で得た唯一の利点を手放すことになるので、俺は黙って笑みをはり付けた。