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いつかのハイドランジア

作者: ツバキルイ
掲載日:2026/04/20

消えゆく願い、咲き誇る絆。紫陽花の妖精と少年の奇跡の夏物語。

あの夏の日のことを、僕はまだ忘れられない。


じりじりとした日差しがアスファルトを焼いて、空気が揺らいで見えた午後だった。公園の端、誰も使っていないベンチに、彼女は座っていた。


初めて会ったはずなのに、なぜか見覚えがあるような気がした。


「ねえ、君」


声をかけると、少女はぱっと顔を上げて笑った。


「やっと来たね」


その一言に、僕は首をかしげた。やっと? どういう意味だろう。でも彼女は気にした様子もなく、隣に座るよう手招きした。


それが、僕と彼女の始まりだった。


 


彼女は明るくて、よく笑う子だった。


名前も、どこに住んでいるのかも曖昧で、聞くたびにはぐらかされたけど、それでも一緒にいる時間は楽しかった。自転車で遠くまで走ったり、川辺で石を投げたり、コンビニでアイスを買って半分こしたり。


まるで、前からずっと知っていたみたいに。


だけど、ある日を境に、彼女は変わってしまった。


 


「最近、ちょっと体調悪くてさ」


そう言って笑った彼女は、以前より少しだけ痩せて見えた。


最初は気のせいだと思っていた。でも会うたびに、彼女は細くなっていく。頬の丸みが消えて、笑顔の奥に影が差し始めた。


そして、彼女は入院した。


 


白い病室。消毒液の匂い。窓の外に広がる、夏の青空。


ベッドの上で、彼女は相変わらず笑っていた。


「来てくれたんだ」


「うん」


僕はできるだけいつも通りに振る舞った。くだらない話をして、笑わせて、元気づけるつもりだった。


でも、医者の言葉を偶然聞いてしまった日、全部が変わった。


 


――退院は、難しいでしょう。


 


その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


病室に戻ると、彼女は窓の外を見ていた。


「ねえ」


僕は言った。


「やりたいこと、なにかない?」


彼女は少しだけ驚いた顔をして、それからゆっくりと笑った。


「……あるよ」


「何?」


「花火が見たい」


 


その一言で、僕の中の何かが決まった。


 


花火大会の日。


人混みと、屋台の匂いと、遠くから聞こえるざわめき。


僕は彼女の手を引いていた。


本当はダメだってわかってる。怒られるかもしれない。でも、それでもいいと思った。


彼女の願いを、叶えたかった。


 


「すごいね……」


夜空に花が咲く。


赤、青、金色。次々と広がって、消えていく。


彼女の瞳に、その光が映っていた。


「ねえ」


彼女が小さく呟く。


「花火ってさ、紫陽花みたいだよね」


「紫陽花?」


「うん。いろんな色が混ざってて、でも一つの花みたいで」


確かに、そう見えた。


夜空に咲く、巨大な紫陽花。


「……ねえ」


彼女は続けた。


「一緒でもいいから、瞬きたいな」


「え?」


「こうやって、一瞬でもいいから……」


言葉は途中で途切れた。


 


次の花火が上がる。


紫色の、大きな花が夜空に咲いた。


 


――そのとき。


 


「……?」


隣にいたはずの彼女の手が、消えていた。


 


「……どこ?」


振り返る。


人混みの中を見渡す。


「ねぇ、どこだよ!」


呼んでも、返事はない。


走り回って、探して、探して、それでも――


 


見つからなかった。


 


 


病室に戻ったとき、違和感があった。


あのベッドが、妙に整っている。


花瓶も、置かれていない。


まるで、最初から誰もいなかったみたいに。


 


翌日、僕はもう一度病院へ行った。


 


「すみません、この部屋の……」


名前を言おうとして、口が止まる。


――名前?


そうだ、僕は彼女の名前を知らない。


 


看護師は首をかしげた。


「この部屋は、ずっと空いていますよ」


 


その瞬間、世界の音が消えた気がした。


 


「そんなはずない……」


僕は確かに、一緒にいた。


笑って、話して、花火を見た。


 


なのに――


 


彼女は、最初から存在していなかったことになっていた。


 


 


それから数年が過ぎた。


 


夏の終わり。


道端に、枯れかけた紫陽花が咲いている。


色を失いかけた花びらが、風に揺れていた。


 


僕は立ち止まる。


 


「……似てるな」


 


あの日の夜空。


あの紫色の花火。


そして、あの少女。


 


明るくて、よく笑って――


どこか、掴めない存在だった。


 


「……まるで、紫陽花みたいだ」


 


そう呟いたとき、ふと風が吹いた。


 


かすかに、彼女が笑ったような気がした。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


本作「いつかのハイドランジア」は、少年のひと夏の記憶を描いた物語ですが、その裏側には、もうひとつの視点が隠されています。


少女の正体は、紫陽花の妖精でした。かつて少年に育てられた一株の紫陽花――その記憶と縁に導かれて、彼の前に現れた存在です。


紫陽花の花言葉には、「移り気」や「冷酷」といった意味が含まれています。少女の本質もまた、それに近いものでした。最初はただの気まぐれで、少年をからかうつもりだったのです。難病を装い、限りある時間を演出することで、どんな反応をするのかを楽しむ――そんな、少し残酷な遊びのはずでした。


けれど、少年は彼女の想定を裏切ります。


何度も見舞いに来て、笑わせようとして、ただ一緒にいたいと願う。そのまっすぐで不器用な優しさに触れるうち、少女の中で何かが変わっていきました。作り物だったはずの時間は、本物の想いへと変わっていきます。


気づいたときには、もう遅く。


彼女に与えられた時間は、花火大会の夜まで。


だからこそ彼女は願いました。夜空に咲いては消える花のように、ほんの一瞬でもいいから――少年と同じ景色を見て、同じ時間を生きたいと。


最後に彼女が見たのは、紫陽花のように広がる花火と、隣にいる少年の姿でした。


その一瞬だけが、彼女にとっての“本当”だったのです。


そして彼女は、元いた場所へと還ります。まるで最初から存在しなかったかのように、すべてを残さずに。


それでも、少年の中には確かに残り続ける。


色を変え、やがて枯れていく紫陽花のように、形は変わっても消えることのない記憶として。


この物語が、あなたの中にも小さな余韻として残れば幸いです。

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