お願いです、どうか私のことなど忘れてください
「お願いです、どうか私のことなど忘れてください」
頭を下げる彼女を見て、心臓がきゅっと止まった。
赤橙色の空の下、街全体を見渡せる高台で、胸を押さえれば、内に忍ばせた四角い箱が手に当たった。
中には緑のエメラルドで作らせたネックレスが入っている。
今日、この瞬間に、結婚を前提とした交際を申し込む予定だった。知人には独占欲だと笑われたが、石は自分の瞳と同じ深い緑色にした。見透かされたとおり誰にも渡したくなかったし、自分には彼女だけだと思った。
ぎゅっと箱の硬さを拳で感じながら、目の前の彼女を見る。
喜ぶ顔が見たいと思っていたけれど、実際は頭のつむじが見えるだけ。ふわふわと波打つ美しいプラチナブロンドの髪は下へ流れ、彼女の顔は今も隠されたままだ。
「なぜ……」
「……申し訳ございません」
「い、いきなり? 何か、あったのか? 俺が何かしてしまったか?」
「いいえ、レオンハルト様に悪いところなどございませんわ。……私の都合で、とだけ」
理想の女性だった。
とある舞踏会で出会って、目が合った瞬間、強烈に惹かれたのは彼女が初めてだった。それからどうにか近づきたいと何度も会う約束を取り付けた。彼女も決して嫌そうには見えなくて、それどころか心許してくれているとさえ感じていたのに。
「もう、会えないのか? ——いや、また会ってくれないか?」
「……申し訳ございませんが、もう、会うことはないでしょう」
とりつく島もなく、彼女はさらに頭を下げた。
「理由も、聞かせてはもらえないのか?」
「……ここ王都から、離れることになりましたの。ですので」
「そんな……! いや、手紙を送ろう、連絡先を教えてくれ」
「いいえ、いいえ。私など、レオンハルト様には分不相応だったのですわ。これまでが幸福すぎました」
好かれたくて、彼女の笑顔が見たくて、色々やった。
良い景色を見に行ったり、美味しいと評判のカフェに並んだり、好きだという花を一輪プレゼントしたり——高価なプレゼントは喜ばなさそうで、苦労した。
「……シャルロッテ」
彼女の名を呼ぶ。
それでも、彼女の顔を見えなかった。
「ああ、どうか。私のことなど忘れてください、レオンハルト卿」
そう言って走り去った彼女を、どうして引き留めなかったのだと、後悔ばかりしている。
◆
「で? まーた、メソメソ言いにきたんです? 何度目?」
「うるせえなあ。あんな女、今までいなかったんだよ」
泣き言を聞きながら、私は鉢の中で薬草をゴリゴリとすり潰す。
その傍らにやってきて、最近別れたという女性の話をするのは、薬室に常連の、騎士サマだ。
「はいはい、理想の?」
「理想そのもの、だ!」
熱の入る返事にも顔を向けず、一心に薬草の様子を伺った。乾燥した葉を細かく潰して、粉を作る。
「でも、いなくなっちゃったんでしょう? 振られちゃってんじゃん」
「だあーーーー! 何でだ! ちくしょう!」
暴れる騎士——レオンハルトの荒ぶる声を聞きながら、砕いた葉を天秤に乗せた。
「俺はあの時、プロポーズするつもりで! 普段なら絶対買わないネックレスなんかを準備していてだな!」
ドキッとして手元が揺れた。早くなった心臓を落ち着かせようとレオンハルトを責めることにする。
「わ! ちょっと、今大事なところなんだから、大声出さないでくださいよ! 風が!」
「おっとすまない、いやでも聞いてくれよ!」
「わかった、わかりましたから! ちょっと離れて、ちょっと待っててください!」
大人しく下がったレオンハルトは椅子に座り、私はもう一度秤を確認した。
うん、大丈夫。私も……落ち着いた。
レオンハルトもまた少し落ち着いたのか、私の手元を見つめながら不思議そうに口を開けた。
「なあ、ヘレナ。時々、薬草を潰してるが、それは使うのか?」
「あったりまえでしょ! え、一体何のために頑張って潰してると思ってんですか」
「いやあ、魔女サマには薬草の力なんて必要ないのかと思ってな」
「……勘違いしてる人も多いんですけどね、別に魔女だって言ったって、不思議な力を使えるわけじゃなくて。人より薬草のことをよく知ってるってだけなんですって」
そんな魔女界隈の通説を、当たり前のように説くと、レオンハルトはますます首を傾げた。
「でも、お前は使えるだろ?」
そうでした。彼は私の力を知ってる。
「う。ま、まあ? 使えたとしてもほんの少し。あと、使える力も限られますし。万能じゃないってこと!」
「ふうん、ま、俺はラッキーだったってことだな、お前がいて」
そうやって簡単に人懐こい笑顔を見せられるから。
だから、こんな簡単にときめいて——分不相応な気持ちを抱いちゃうのよ、もう。
詳しい話は知らないが、レオンハルトは街での警備中、飛び出してきた子供を庇って、馬車に轢かれたそうだ。
大怪我だった。担ぎ込まれてきた彼を、特別に調合した魔法薬で治療してからというもの、すっかりとここの常連となってしまっている。
が、彼はそもそも伯爵様なのだ。怪我のせいでたまたま面識ができただけ、たまたま使ってしまった魔法薬が気に入られただけ。いや面白がられているだけかもしれないが。
とはいえ、王宮の薬室で働いているだけの、しがない平民がおいそれと口を利ける立場にはない。
それが許されているのは、彼がそう、望んだからだ。ただそれだけ。
平民の私が、それ以上の関係になりたいだなんて、おこがましいことだ。
「……全く、ここをどこだと思ってるんです! 無駄口叩きにきただけならとっとと帰ってくださいよ!」
「はっはー! 俺にそんな口を利く女なんて、お前だけだよ」
「恩人に気を遣われたくないって言ったのレオン様でしょ! それに何ですか、美貌自慢? 寄ってきてくれる女性がいるなら、その人たちに言えば良いじゃない。理想の女性の話」
「ばぁか、どこに俺の理想を喜んで聞いてくれる女がいるんだよ。無理無理、ここだけ」
「私だって別に……!」
「でも聞いてくれるだろ」
真顔の問いに喉を詰まらせた。
事実だ。事実だけれど、本当は聞きたくない話なんだってば。
口を噤んだ私を気にしたそぶりも見せず、レオンハルトは人差し指を向けた。
「あ? そういえば、ヘレナの髪も銀だな? そんなきっちり纏めずにさ、下ろせばいいんじゃないか」
「っ、だめよ。薬に混ざっちゃったら大変でしょ!」
銀色の髪が落ちてきていないことを確かめるように頭を触った。
ボサボサで、薬草の匂いが染み付いていて、手入れされた髪とは程遠い、輝きが消えた私の銀髪。
きつく編み込んでまとめた髪は固く、おそらくシャルロッテの髪には程遠いだろう。
「それもそうか。ま、下ろしたところでシャルロッテのような髪にはならないか、ははっ」
「うるさいなあ、帰ってくださいよホント」
他の誰でもない、シャルロッテの髪とは比べてほしくなかった。
なんせ、その理想の彼女——シャルロッテこそ、私なのだ。
◆
運び込まれた騎士は命に関わる大怪我をしていて、急を要した。
目の前で人が死ぬところは見たくなくて、人目を盗み、趣味で作っていた魔法薬を飲ませた。時々市場に流していることもあって、もちろん効果には自信があった。
甲斐あって、その騎士はみるみるうちに傷が塞がり、無事回復。
通常では考えられない回復力に、奇跡だなんだと騒ぎ立てられる頃、その騎士レオンハルトは私の腕を掴んだのだ。
「お前の薬、よく効いたみたいだ」
生きた心地のしないまま、あれこれ言い訳を唱えてみたけれど、一向に響かず。
私がほとんどおとぎ話のようになっている生粋の魔女であることがバレてしまうと、それから彼は薬室に入り浸るようになった。美味しい差し入れを持って。
「お仕事はいいんですか、レオン様」
「あー? いいんだいいんだ。俺は元々、普段の警備には出るなと言われていてな。爵位持ちは何かと面倒でさ」
「そういえば、伯爵様でしたね。気軽に話してるので、忘れてしまいますが」
「ハハッ、そんなやつ他にいないけどなあ」
そう言って笑う顔は、恐ろしく整っていて。
「ちょ……! そんな顔で笑わないでくださいよ!」
「ハハハ! 舞踏会では女に大人気の顔だぞ、失礼だな」
綺麗な顔の男性に免疫のない私には、猛毒だったりする。
そんなレオンハルトの噂は、私の耳にも届いていた。
と言っても、貴族世界に興味津々の平民は、面白おかしく吹聴して回るから、どこまで信憑性があるのかは甚だ疑問ではあるが。
舞踏会に参加したレオンハルトは、常に無表情で冷徹。
どれだけ女性に言い寄られようと、一切相手にしないと有名だった。
「どうして舞踏会に出るんです?」
労いの意味もあって大きな舞踏会には王宮で働く薬師も参加できたが、尻込みをして行ったことはない。平民にはダンスに馴染みがなければ、準備にもお金がかかることもあって、なんとなく貴族家系の人だけが参加するイメージだ。
素朴な疑問にもレオンハルトは嫌な顔せず答えてくれる。
どう見ても、冷徹とは思えないが。
「まあ、義務だ。これでも伯爵だからな。あとはまあ、結婚相手を探せとも言われてるが……こんなので見つかれば苦労しないがな。いずれどこかのご令嬢を娶ることになるんだろう……っとこんな話してもつまんねえな」
「それだけ女性がいて、気になる方がいらっしゃらないとなると……理想が高すぎるんじゃないです?」
「お。言うねえ。そうかもなあ、嫌なんだよ、寄ってこられるの。俺としてはお淑やかで心優しい感じの女が……っとまた余計なことを」
そんな会話で興味が湧いた。
舞踏会では冷淡で、私の前では気さくな彼は、理想の女性の前では、どうなるのだろうかと。
気になってしまえば抑えられない性分だ。
丸三日、寝ないで研究し完成させた、理想の人に出会える魔法薬。
薬を飲んだとき目の前にいた人間の姿が、世界で一番魅力的な存在として映るようになる。
効き目は一日。ただ、効果が出るまでには時差があるから、舞踏会へ行く日に飲ませた後、帰る頃を見計らって会いに行った。
レオンハルトは、別人のようだった。
無表情で冷徹。よく聞いた噂の通り、なおも話しかけようとする令嬢にも見向きもしない。
そんな彼が、ちらりと視界に入っただけの私に目を見開く。
解いてうねる長い銀髪も、鼻の頭にそばかすがある顔も、くすんだ青色の瞳も、彼にはどんなふうに映っているのだろうか。
彼の、目尻が緩んで下がった瞬間、その綻んだ口元を、私は目に焼き付けた。
「お初にお目にかかります。ラーベンヴァルト伯爵、レオンハルトと申します。こんな場所で、こんなにも心を掻き乱される女性にお会いするとは思いませんでした。もしご迷惑でなければ、お名前を伺っても?」
躊躇しながらも、シャルロッテだと名乗った私は、流されるまま、また会う約束をする。
そして約束通り、カフェへ行き、その次には演劇へ。そのまた次は。
同僚で貴族家系の友人に洋服を借りながら、溺れるように逢瀬を重ねた。
普段とは違う、私を一人の令嬢として扱うレオンハルトの姿が不思議で、どこか滑稽で、胸が躍った。
もっと、もっと、一緒にいたくて。熱っぽく見つめてくれる彼を見ていたくなって。
寝ても覚めてもレオンハルトの顔がチラつく。いつの間にこんなに好きになっていたのだろう。
一回だけのつもりだった魔法薬を、何度も精製した。
そのツケが来ることをわかっていなかった。
「今度、プロポーズしようと思ってるんだ! ちょっとやりすぎかもしれねえが、緑の石を嵌めたネックレスを作らせてる」
「え? もしかしてレオン様の瞳の色です? 独占欲丸出しじゃないですか」
「ばぁか、いいんだ、丸出しでも! それくらいやらないとわかってくれなさそうでな」
そう言って見せてくれた、精巧で凝った作りのネックレスの製図を、複雑な気持ちで見ることになる。
(……バカでしょ、私。こんな、偽物の私で好かれたって。レオン様の人生を狂わせるようなことまでして)
薬を混ぜる手を止めていた。杓子からも手を離す。色づいていた世界が急に白く薄れた。
やめだ。全部。
もう一回、ちゃんと初めから。
……本当の私では、見向きもされないかもしれないけれど。
「——どうか私のことなど忘れてください、レオンハルト卿」
そうしてゼロにする。実験が失敗したときみたいに。
◆
「でな、その時、シャルロッテが」
(で、なーーんでリセットされないかなあ。いなくなった女のことをいつまで考えてんのってば)
レオンハルトは、変わらず薬室にやってきては、シャルロッテの話をする。おかしい。これで何度目だ。
「初めて出会った時なんかはもう、言葉にならないほどだったんだよ。寄ってくる女たちなんか気にならなくなるくらい、シャルロッテしか目に入らない」
「へえ」
相槌を打ちながら、確かにあの時はそんな顔をしてたな、なんて思った。
「一緒に行ったカフェではさあ、カラフルな色の菓子に目を輝かせててさ。そんな珍しいもんでもないだろうに、口に頬張る姿も可愛らしくてな」
あの時のデザートはすごく美味しかった。有名店だって言うのもよくわかる。並んだ甲斐があった。
いつもレオンハルトが持ってきてくれる差し入れも、本当に美味しくて。やっぱり貴族は美味しいお店を知っているのね。実は手土産も楽しみにしていたりして。
「花も好きみたいでな、でも大きい花束じゃなくて一輪でいいって言って。嬉しそうにじっと見るんだよ、その一輪を。そんな素朴な感じもたまらなくてさあ」
だって、珍しい花だった。
惚れ薬の材料になる薬草で、探した時には見つけられなかったものだ。とても高価だから、花束でなんてとても受け取れなくて。
もらった一輪は、自室でこっそり乾燥させている。
「よく行ったのは高台だな。王都全体を見渡せる。行ったことあるか? 普段、王都を見渡すことがないって言うし、いつも興味津々な感じで目を大きくさせてさ。……夕陽に光るシャルロッテの髪は、そりゃあもう美しくて」
普段は薬室に篭っていて、夕陽を見ることも風に当たることすら少なくて。
こんなに広い王都の、たくさんの住人に必要とされる薬を私が作っているんだと思うと、ちょっとうるっとしてしまったっけ。
「……ま、忘れてくれって言われたのも、そこなんだがな……」
落ちる声色が、別れの時を思い出す。
夕陽の中、下げた頭の上から、悲しそうな声がした。
目を瞑れば、理由を尋ねる彼の声が、縋るように耳に纏わりつく。
「——なあ、シャルロッテ、俺のこと嫌いになった?」
「……嫌いになんてなるわけないわ、レオンハルト様」
言ってしまって、口を押さえた。
待って。今、私はシャルロッテだった?
ぼんやりしていた。レオンハルトがシャルロッテとの思い出を語るから。
ばっと顔を上げれば、驚きと喜びが混ざったような、おかしな顔のレオンハルト。
口元が緩み、目尻が下がったその顔には、既視感がある。
「……やっぱり、お前、いや君が? シャルロッテ」
「ななななんのことです?」
「馬鹿にすんな。わかるんだよ、ヘレナ」
真面目な顔で説かれても、ちゃんと私は知っている。
「嘘! わからなかったくせに!」
「……んなこと言ったって、わかるかよ。別人だったろ。俺好みのお淑やかなご令嬢だったさ。綺麗にそばかすも消して、眼の色も変えたか? 口調だって、ほら、レオンハルト様に悪いところなどございませんわ、だったか?」
ぎゃーー。これってなんて言うんだっけ。黒歴史?
「なのに、シャルロッテといるとお前がちらついて、お前といるとシャルロッテが思い浮かぶ。俺の頭がおかしくなったかと思ったぞ」
「っ、私のことなんか、忘れてって言ったでしょ!」
ふいっと顎を上げた瞬間、「忘れるものか、理想の女だぞ」と腕を引かれて、抱きすくめられて、腕の中にすっぽりと収まった。
初めて知る体温に、これは忘れられない、と硬直した。
チャリと金属の音がして、首に感じた重みはひんやりと冷たい。
胸元を見ると、エメラルドのネックレスが光っていた。
「——お前、俺にまた、何か盛ったろう?」
整った顔を間近に見る。シャルロッテの時にもなかった至近距離にずっと心臓はばくばく鳴りっぱなしだ。いや恐怖かも?
レオンハルトはそっとエメラルドを持ち上げると、石に口づけを落とした。にっと唇が弧を描く、その顔はその、私には効果抜群でして。
「ええええと、その、理想の人に出会える薬を少々…………」
目を軽く瞠ったレオンハルトは、片眉を上げて意地悪そうに笑った。そんな顔は初めて見る。
「ああ、だからか——シャルロッテは、お前とそっくりだったよ」
腕の中でもどうにか距離を取ろうともがいたが、失敗した。
胸元で輝く宝石と同じ輝きに見つめられて、最後の足掻きに顔を覆った。掛けられたネックレスの重さが現実だと突きつけてくる。ああ、もう、逃げられない。
だって、これはそう——独占欲の証。
冷徹と噂のレオンハルトは、薬室の魔女と結婚した。彼の両親も、命の恩人と常々話を聞かされていたらしく、快く迎えてくれたそうだ。
舞踏会で見るレオンハルトは、常に傍らに妻をおき、幸せそうに穏やかな顔を見せる。それに応える彼女もまた、同じように見つめ返した。
彼女の首にはいつも、エメラルドの首飾りがあったらしい。
縁起が良いと、自分の瞳と同じ色の宝石を贈るプロポーズは、しばらく流行ったとか。
お読みいただきありがとうございます。
重いネックレス!




