新しい世界
初めまして。僕は日本人ではありません。日本語を勉強中です。何か間違いや誤りがあるかもしれません。その時はどうかご容赦ください!
これは僕の初めての小説であり、連載小説でもあります。これから一生懸命に、週1回新しい話を投稿するように頑張ります。
第一話は結構長くなりました。よろしくお願いいたします!ぜひ感想を聞かせてください!
あれは、ありふれた灰色の晩秋の日――そう言えたなら、どれほど楽だっただろう。でも本当は、この一週間、いや十日間のどの日とも決定的に違っていた。
空は重たく垂れ込めていた。今にも泣き出しそうな黒い雲が、ぎりぎりのところで涙をこらえている。まるで僕と同じに泣くのを我慢しているみたいだった。きっと祖父は、僕たちが泣くことを望まない。そんな気がした。
目の前では、掘り返されたばかりの土の穴へ、ゆっくりと棺が降ろされていく。茶色くて、どこにでもありそうな、味気ない箱。祖父があんな退屈な船で最後の旅に出るなんて、どうしても似合わなかった。あの人はもっと自由で、もっと鮮やかで、もっと生き生きとしていたはずなのに。
今日という一日は、すべてが祖父の性格に逆らっているように思えた。もし今この瞬間、地球が爆発したとしても、僕はたぶん、すべての人間の中に誰よりも幸せだろう。少なくとも、隣に立っている人たちよりは。
今日は彼らにとって、「父」であり「夫」であり「義父」であった人の葬式だ。でもきっと明日になれば、彼らはいつも通りの生活に戻る。そして今日のことは、静かに過去へ押しやられていく。選べるなら、僕は彼らと一緒に残るよりも、祖父と一緒にいきたい。
「どうしてそんなに平気な顔をしていられるんだよ」
「何も感じないのか」
「どうして死んだのがあの人で、あなたたちじゃないんだ」
喉の奥までせり上がった言葉が、心臓を引き裂きながら口から飛び出そうとしていた。そのとき、不意に誰かが僕の肩に触れた。振り向いて誰もいなかった。風も吹いていない。ただ、静かな墓地の空気だけがある。僕は小さく息を吐いて、心の中で呟いた。
「ありがとう。どうか、いい旅を」
埋葬が終わると、母が淡々と言った。
「私たち、先に帰るけど。あなたはどうする?」
「もう少し残る。先に行ってて」
母は何も言わなかった。ただ、靴が砂利を踏む音だけが遠ざかっていく。
……やっぱり。
僕は空を見上げる。
「君たちだけは、わかってくれるよね」
灰色の雲は、相変わらず泣くのをこらえているようだった。生まれたときからずっと一緒にあった“僕のもう一人の友達”は、そろそろ眠りにつこうとしていた時僕がやっとこの世界に戻ることできた、何時間もかかった。戻されたのは、自分の意志じゃない。
「そろそろ門限の時間だ。帰りなさい」
背後から、しゃがれた声。墓地の管理人だった。
「……はい」
僕は小さくうなずく。
「また来るよ、じいちゃん。長い別れじゃない」
それが彼に向いてた今日の最後の言葉になった。出口へ向かう途中、無数の墓が視界に入る。どれも草に覆われ、手入れされていない。まるで何年も誰も訪れていないかのようだった。
「きっと、みんな寂しいよね。」
門の近くまで来たとき、右側の街灯の下に、何かが落ちているのが見えた。灰色の表紙だった。最初は、学生が教科書を忘れたのだと思った。でも近づいてみると、科目名も学年も書いていない。ただ、無機質な灰色だけがそこにある。
不思議に思って、僕はそれを拾い上げた。表紙を開く。数ページめくった瞬間、全身に鳥肌が走った。
「……こ、これ……」
喉がひどく乾く。
「本……?」
祖父が昔、話してくれたことがある。教科書によく似ているが、中には数式も表も図もない。そこにあるのは、誰かが想像した、もう一つの世界だ、と。
ページの中には、物語があった。知らない世界。知らない人々。だけど確かに、生きている。
そのとき、左手の木立から、誰かの足音が聞こえた。目を上げる。五十メートルほど先。暗い影が立っている。街灯の光が届かず、顔は見えない。逆光のせいで、ただ輪郭だけが浮かび上がっているでも僕の顔は、きっと向こうからはよく見えている。
さっきまで胸を満たしていた興奮と感動が、一瞬で凍りついて恐怖に変わった。僕は反射的に反対方向へ走り出した。そこには駅がある。走りながら、何度も思った。
「どうして拾ったんだ。どうして、そのままにしておかなかったんだ」
答えを見つけれずに駅前のコンビニにたどり着いた。そこで買った黒い袋に本をねじ込んだ
黒いスーツ、黒い靴、黒い鞄。見渡す限り同じ装いの男たちが並んでいる。違いがあるとすれば、僕が抱えている黒い袋くらいだった。彼らの手には規格品のような黒いブリーフケースが握られ、白いシャツがネクタイの両脇からわずかに覗いている。その細い白だけが、この暗い色の世界に許された唯一の明度のように見えた。他の国なら、誰もが喪服だと思うだろう。でもここでは、それが日常だ。
次の駅で扉が開き、二人の男が乗り込んできた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。軍服。肩章には金色の四文字「芸術対策」。芸術対策特別部隊。国家を守るために芸術を排除する存在。そう教えられてきたし、誰もが疑わない。二人は僕のすぐ前に立ち、途中だった会話を続けた。
「今日はなかなかの成果だったな。昇進も見えてきたか?」
「間違いない。大学教授の家から五十冊だぞ、五十冊」
喉がひくりと鳴る。本。その単語が、袋の中身と重なる。
「しかし、あの教授も妙なやつだ。家に半百の本なんて、何のためだ?」
「さあな。見た目は賢そうだったが、やってることは愚か者だ。安定した仕事も、高い給料も、家族もいたのに」
指先が震える。どうしてわざわざ僕の真上でそんな話をするのか。まさか墓地にいたあの影は...
「判決はどうなると思う?」
「考えるまでもない。十点以上の芸術所持で死刑。家族も含めてな」
死刑。その言葉僕の中に炸裂しそうになった。頭の中が真っ白になる。僕の袋の中には、一冊だけ。しかも僕のものですらない。それでも基準に触れるのだろうか。呼吸が浅くなる。
「まあ、大物だから減刑もあるかもしれんがな。党に知り合いがいるらしい」
「どうだか」
ちょうどそのとき、車内アナウンスが僕の降車駅を告げた。本当もっと話を聞きたかったが仕方ない。
階段を上る途中、周囲には笑い合う学生、試験の話をしているらしい高校生、疲れ切った会社員、手に薄いマメを持つ工場労働者がいる。でもやはり顔は曖昧なままだ。誰も彼も同じ輪郭の中に収まっている。目も鼻も口も、そこにあるはずなのに、なぜかはっきりと認識できない。誰の顔も、何かで塗り潰されたみたいに曖昧だ。わかるのは制服のおかげで性別だけ。
外へ出ると、夜の空気が頬を撫でた。もしこの国に旅行者が来たら、きっと全員迷うだろう。道も家も、まるで複製されたように同じ造りをしている。家具の配置まで規定されていると聞いたことがある。
僕の足は考えなくても家へ向かう。恐怖、驚き、期待、そして名付けられない感情が胸の奥で混ざり合っている。何度か右に曲がり、左に曲がり、ようやく自分の通りへ出た。表札「光川」(まつかわ)まであと少し。再び足音の音がした。
血の気が引く。振り返ると、道の反対側を暗い影が歩いている。墓地で見た距離感と同じ。顔は見えない。同じ人物なのか。それとも別の誰かか。考えるより先に僕の足は動いていた。全力で走る。肺が裂けそうでも止まらない。わざと自分の家を通り過ぎ、さらに数軒先まで走ってから木の陰に隠れる。影は見えない。しばらく息を潜め、追ってくる気配がないことを確認してから、慎重に戻る。門を静かに開け、家へ入った。
階のリビングには誰もいない。急いで二階へ上がり、自室に駆け込む。黒い袋を机の下へ押し込み、深く息を吐いた。でもそこまで焦る必要はないだろう。たとえ誰かに見られても、きっと気に留めないだろう。……祖父以外は。
部屋は昔から何も変わらない。角に置かれたベッド、隣で時を刻む時計、クローゼット、机と椅子、ランプ。変わるのは机の上の教科書とノートの山だけだ。でも今日は違う。退屈な教科書たちの上に、新しい友達が加わる。それとも敵と言うべくだ。袋から本を取り出し、しばらく見つめる。恐怖はまだ消えない。それでも、期待がそれを押しのけようとしている。
僕は、そっと表紙を開いた。文字が並んでいる。それを目で追うたびに、言葉が脳を通り、まっすぐ心臓へ落ちてそこで広く響くのを感じた。
文字を追うたびに、僕の中で何かが静かにほどけていくのがわかった。ページの向こうには、知らない街があり、知らない人々がいて、僕の知らない感情があった。けれど不思議と、それらは遠い存在ではなく、まるで昔から知っていたかのように胸の奥へ染み込んでいく。現実の音が少しずつ遠ざかり、代わりに紙の上の世界が輪郭を持ちはじめる。物語の登場人物が笑えば、僕の胸もわずかに温かくなり、誰かが傷つけば、喉の奥が締めつけられた。
どれくらい時間が経ったのかわからない。突然、ドアノブが回る音がして、僕は反射的に本を閉じた。慌てて机の上にあった数学の教科書を掴み、本をその下に滑り込ませる。振り返ると、母が立っていた。
「夕飯、食べる?」
いつもと変わらない声。何も知らない声。
「いらない。お腹空いてない。もう寝るよ」
母は少しだけ僕を見つめ、それ以上何も言わずにドアを閉めた。足音が遠ざかる。完全に一人になったのを確認してから、僕はゆっくりと教科書を持ち上げた。本はそこにある。消えていない。夢でもない。
再びページを開くと、物語はさっきの続きを当然のように語りはじめた。まるで僕が離れていたことなど、最初から問題ではなかったかのように。時間の感覚が曖昧になる。ページをめくる指が止まらない。登場人物の呼吸、街の匂い、空の色、すべてが僕の中に流れ込んでくる。僕はただ読んでいるだけのはずなのに、どこかで確かにその世界を「生きて」いた。
そして、最後のページに辿り着く。そこに本の名前はあって「月に沈む桜」だ。けれどそこにあったのは終わりではなかった。物語は、明らかに続く形で途切れている。胸の奥が空洞になる。こんなところで終わるはずがない。終わってはいけない。
布団に入って目を閉じても、頭の中では登場人物たちが動き続けていた。あの後どうなったのか。誰が何を選び、どんな言葉を交わしたのか。考えれば考えるほど、眠気は遠ざかっていく。おそらく一週間は眠れない。そんな確信さえあった。
そのとき、ふと思った。
「ないなら、僕が書けばいい」
その発想は、ひどく自然だった。机に向かい、ノートとペンを手に取る。最初の一文を書いた瞬間、不思議なことが起きた。言葉が、自分で考えるよりも早く、頭の中に浮かんでくる。まるで誰かが背後で囁いているみたいに。僕はただ、それを書き写すだけだった。物語は流れを持ち、勢いを持ち、僕を引きずっていく。激しい川に身を任せているような感覚だった。やがてその流れは滝となり、僕は躊躇なくそこへ落ちる。その先に広がっていたのは、底の見えない大きな海だった。
最後のページに大きな句点を打った瞬間、胸のざわめきが少しだけ静まる。「これでいい。これが僕の結末だ」と小さく呟いた。その直後、目覚まし時計が鳴る。窓の外はすでに明るい。結局、一睡もしていなかった。
朝の支度を済ませ、家を出る。学校へ向かう道には、同じ制服を着た生徒たちが増えていく。遠目には、どこかの遠征に向かう騎士団のようにも見える。ただし、僕たちの手にあるのは剣ではなく鞄で、身にまとっているのは鎧ではなく規定の制服だ。空は昨日とは違い、明るい色をしている。昨日、空が曇っていたのは、祖父の死を悼んでいたから。両親よりも、きっと空のほうが僕を理解しているともう一回確認した。
そのとき、突然背後から両肩を掴まれた。体重が背中にのしかかる。僕は反射的に振り向き、文句を言おうとした。「おい、何だよ...」と言いかけて、言葉が止まる。そこにいたのは、予想していた友人ではなかった。
長い黒髪が太ももの下まで伸びている少女だった。整った顔立ちに、屈託のない笑みを浮かべている。初対面のはずなのに、はっきりと顔が見える。ぼやけない。塗り潰されていない。
「おはよう。昨日の本、面白かった?」
声が出ない。それはそう、どれだけ驚いたと思う。
「答えなくていいよ。絶対気に入ったでしょ。続きが読みたいなら、七時間目のあと、校舎裏で待ってるね。遅れないでよ?」
言うだけ言って、彼女は人混みの中へ駆けていった。まるで台風みたいだった。何もかもを一瞬でかき乱し、そのまま去っていく。
驚きよりも先に、またあの感覚が胸を掴む。恐怖だ。昨日の墓地の影。もしかして、あれは彼女だったのか。なぜ僕に話しかけた。なぜ「芸術対策」に告げ口されるかもしれないと思わない。
答えは出ないまま、授業が始まった。休み時間になるたびに校内を歩き回り、彼女の姿を探した。けれど結局、再び会えたのは七時間目後の校舎裏だった。彼女は約束通り、そこにいた。僕のほうを見て、いたずらっぽく笑う。
「ちゃんと来たね。ってことは、答えは“はい”でいい?」
僕は声を出せず、ただ頷く。彼女は満足そうに微笑み、僕の手を掴んだ。そのまま廊下を走り抜け、校門を出る。外に出るとさらに速度を上げ、ついには本気で走り出した。
「ど、どこに……行くんだ?」
息を切らしながら尋ねると、彼女は振り返って言った。
「私の家!」
その言葉に、顔が熱くなる。彼女はそれを見て楽しそうに笑った。「初めて女の子の家に行くの?」とからかう。否定も肯定もできない僕を見て、彼女はさらに笑った。
「安心して。本を置いてあるだけだから。家以外に隠す場所、ないでしょ?」
そしてふと真顔になり、僕を見つめる。
「昨日、墓地にいたのは私じゃないよ。友達。今日紹介するね」
その一言に、権利のない感情を感じた。胸の奥がわずかに沈む。
やがて彼女の家に着く。外観も内装も、僕の家とほとんど同じだ。唯一変わったものは表札でした。そこは「光川」ではなく「椿」だった。そうか、それは彼女の名字だね。彼女は迷いなくリビングへ進み、テーブルをどかし、カーペットの端をめくった。そこには床のハッチがあった。
「え……」
「うちのは特別仕様。あなたの家にはないよ」
彼女の後を追って階段を下りると、下はほとんど闇に沈んでいた。足元さえ曖昧で、ここが本当に家の中なのか疑いたくなるほどだった。やがて彼女が壁のスイッチを押すと、ぱちり、と小さな音がして、白い光が空間を満たす。目が慣れていくにつれ、そこが想像していたよりもずっと広い部屋だとわかった。そして何より見たことのない物で溢れていた。
形も用途もわからない物ばかりだった。金属でできた箱のようなもの、木枠にはめ込まれた布のようなもの、丸くて平たい板。僕の知らない世界だったけれど大切そうに並べられている。ただ一つだけ、はっきりわかるものがあった。本だ。棚いっぱいに、ぎっしりと並んでいる。
「あれは……?」と僕が尋ねると、彼女は小さく笑った。
「本はもう知ってるよね。だから説明は省くね。あそこにあるのは、絵。絵画っていうの」
彼女が指さした先には、長方形の額縁に収められた色彩があった。その瞬間、幼いころの記憶が胸の奥から静かに浮かび上がる。
「絵というものがある。人生の美しい瞬間を閉じ込めるために生まれたものだ。一枚一枚が、描く人の気の遠くなるような努力の結晶なんだよ。人を魅了し、心を奪う力がある。」
祖父の声が、はっきりと蘇る。目の前の絵は、僕が想像していたよりもずっと鮮やかで、そしてずっと生々しかった。
「それから、あれはグラモフォン。レコードをかける機械なの。丸くて平たい盤を乗せると、音楽が流れるのよ」
「音楽よ」
その言葉を聞いた瞬間、また祖父の姿が心に現れる。
「音楽はね、美しい音と音が絡み合って生まれるものだ。それぞれはただの音でも、重なり合えば旋律になる。人はそこに声を重ねることもある。歌うというのは、自分の声を音楽と一つにすることだ。そうして生まれるものを、歌という。」
僕は無意識のうちに、その丸い盤を見つめていた。これが、本当に音を生み出すのだろうか。想像の中では何度も思い描いた。けれど、実物はもっと静かで、もっと重みがあった。
「こっちはテレビとビデオデッキ。映画を見るためのもの」
「映画」と彼女が言った。
「映画は動く絵だ。そこに音楽が重なり、物語が宿る。ただし、特別な装置を通してでなければ見ることはできない。いつか必ず、お前もそれらに触れる日が来る。そのとき、まったく新しい世界に出会うことになる。だから今は、待ちなさい。」
祖父の言葉が、まるで予言のように胸に響く。僕は思わず、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……やっぱり、あなたは正しかったんだね」
彼女が指を差し、名前を告げるたびに、僕の頭の中で祖父の語ってくれた世界が形を持ち始める。記憶の中でぼんやりとしていた輪郭が、現実の光を浴びてはっきりとしていく。中には想像とまったく違うものもあったし、驚くほど近いものもあった。自分の想像が現実と重なった瞬間、胸の奥が少し誇らしくなる。
祖父は、嘘をついていなかった。
そして今、僕はその“待っていた世界”の入り口に立っているのだと、静かに理解していた。
「全部、禁止されてるんだよ?」と僕が言うと、彼女は平然と答える。「見つかれば没収、焼却、そして処刑」
まるで明日の天気を説明するみたいな口調だった。僕はもう後戻りできないのだと悟る。
彼女は一冊の本を差し出した。「昨日の続き。読んでいいよ。終わったら呼んで」
僕は地下室の普通の家で見えない豪華な家具に座って、再び物語の世界へ沈んでいった。最後のページをめくった瞬間、胸の奥がまた空洞になる。終わっていない。まだ続く。物語は再び、未完のまま途切れていた。
苛立ちにも似た感情を抱えたまま、僕は地下室の階段を上る。さっきまで胸いっぱいに広がっていた世界が、急に狭くなった気がした。リビングに出ると、彼女がこちらを振り向いて微笑む。
「ちょうどよかった。もうすぐ友達が来るの」
僕は言いかけていた不満を忘れ、ただ彼女を見つめてしまう。どうしてこの人は、いつもこんなにも落ち着いているのだろう。そのとき玄関のドアが開き、足音と笑い声が聞こえた。
入ってきたのは二人の男子と一人の女子。年上に見える。おそらく大学生だろう。その瞬間僕があ見れる顔数はほぼ二倍に上がった。彼らの顔は、はっきりと認識できた。ぼやけない。塗り潰されない。そのことに、自分でも驚いた。彼ら僕の存在まれで気付かないように振る舞っていた。声掛けられるには時間がかかった。
「お、こいつが例の?」と一番活発そうな男子が僕を指差す。彼女が嬉しそうに頷く。
二人目の男子が歩み寄ってきた。「中村 翔太 (なかむらそうた) だ。昨日、墓地で見たよ。怖がらせたなら悪かったな」
「……正直、だいぶ怖かったです。どこまで追いかけましたか」
「駅までかな。そこからは別方向」
これで一安心だ。家の近くで見た影は、別人だったらしい。少しだけ安堵した。
「橘 平子 (たちばな ひらこ)。よろしく」とさっき入った女子が言った。最後に落ち着いた雰囲気の青年が「小林 健太 (こばやし けんた) 」と名乗った。
「僕は光川 ヒロです、よろしくお願いします。」
「そういえば、私まだ言ってなかったね。椿 妃美子 です~。妃美子でいいよ」
全員が地下室へ降りる。さっきと同じ空間なのに、人数が増えただけで空気が変わる。棚に並ぶ本、壁に掛けられた絵画、隅に置かれた蓄音機。すべてが息をしているみたいだった。
「何から見た?」と橘さんが聞いた。
「月に沈む桜の二冊を読みました」と答えると、彼女は目を輝かせた。「あれ私も好き!」
「続きも読みたいですが……」と言いかけると、中村さんが肩を叩いた。「焦るなって。本は逃げない。それより、もっと面白いものがある」
彼に連れられて壁の絵の前に立つ。色彩が目に飛び込んでくる。祖父の言葉がもう一回蘇る。「絵は、人生の一瞬を閉じ込めるものだ」いま僕は、その意味を理解していた。筆の跡ひとつひとつに、時間と感情が染み込んでいる。言葉では足りない。
「顔、やばいぞ」と中村さんが笑う。「そんなに衝撃?」
返事ができない。喉が塞がれている。
「よし、次は映画だ!」彼のお気に入りを観ることになった。正直、妃美子の好きな作品も知りたかった。でも映像が動き出すと、そんなことはどうでもよくなる。画面の中の人々が生きている。音楽が流れ、感情が交錯する。時間が溶ける。
やがて彼女が蓄音機にレコードを乗せた。針が落ち、音が生まれる。僕は初めて音楽を聴いた。音が耳から体内へ流れ込み、血液のように巡り、心臓に届く。鼓動が速くなる。生きている、と強く感じる。その時大学教授の話を思い出してついに答えを見つけた。なぜ彼は人生を賭けて本を読んでた。
「踊ろう」と妃美子が手を差し出す。「ダンスって何?」と聞く僕に、彼女は笑って説明する間もなく手を引いた。「ワルツっていうの」
左手を持たれ、右手を彼女の腰へ。ぎこちなく動くたびに周囲が笑う。「足踏むなよ」「象かよ」とからかわれ、顔が熱くなる。それでも彼女は笑って言う。「最初はみんな下手だよ」
やがて橘さんと小林さんが見本を見せる。滑らかな回転。流れるような足運び。芸術とは、きっとこういうものだ。祖父は、こんな時代に生きていたのだろうか。自由に、堂々と。
「今日一番よかったのは?」と聞かれ、僕は迷わず言う。「音楽でした」
「え~もしかして妃美子とダンスという意味ではなあいの?」と中村さんが茶化す。彼女が笑う。どうして彼女は、こんな状況でもこんなに明るいのだろう。
小林さんが小さな機械を差し出す。「MP3プレイヤーとイヤホンだ。これでも聴ける」変な靴ひもを耳に入れると、また違う音楽が流れた。今度は歌声がある。音楽には形が無限にあるだろう。
「妃美子の好きな曲は?」と尋ねると、彼女は僕の隣に座り、片方のイヤホンを奪って耳に入れた。しばらく操作して、再生ボタンを押す。流れ出した旋律は、それまで聴いたどれとも違っていた。静かで、でも強い。
そのとき、階段の上から低い声がした。
「もう遅いぞすぐ帰ってこい」
妃美子が振り向く。「はーい。すぐ終わる」
帰らなければならない時間が来たのだと理解する。離れがたい気持ちが胸を締めつける。
「本、持って帰ってもいい?」と聞くと、妃美子は首を振った。「ごめん。ここからは持ち出せない。危ないから」
「昨日は?」
「あなたを呼ぶための例外」
その瞬間僕はずっと気になっていたことを思い出して聞いた。「どうして僕を選んだの? どうして、僕が来るってわかった?」
彼女が何か言いかけた、その瞬間だった。
上から轟音が響く。続いて、銃声。空気が凍る。全員の表情が変わる。
「芸術対策だ」と誰かが呟いた。
彼女が僕の手を掴む。「時間を稼いで!」と他の三人に叫び、僕を部屋の隅へ引っ張る。そこには換気口があった。
「もう見つかった。あなたはまだ知られてない。逃げて」
「嫌だ。一緒に行く」
「彼らがここまで来ているということは、もう私の存在も知られているはずだ。今さら何をしても無駄だろう。たとえ外へ逃げ延びたとしても、静かな生活なんて与えられない。それに、この換気ダクトの構造は一人しか通れないようになっている。最初の一人だけが抜けられる。つまり二人では助からない。
「……じゃあ、君が逃げてよ。お願いだから。僕は……僕は、君が死んだなんて知ったままじゃ、生きていけない」
自分でも、その言葉がどこまで本心で、どこまで恐怖なのかわからなかった。ただ胸の奥から溢れ出して、止められなかった。
彼女は何も答えなかった。ただ静かに首を横に振り、僕の手を握る。その温もりが、逆に現実を突きつける。次の瞬間、僕はもう自分の舌を制御できなかった。
「ぼ、僕は……その……君が……す……好きなんだ」
喉が焼けるように熱い。こんな形で伝えるつもりなんてなかったのに。彼女は一瞬だけ目を細め、困ったように、それでも優しく笑った。
「知ってるよ、ばーか。あまりにもわかりやすすぎたもん。これ、写真。持っていって。これで、ずっと一緒」
その時彼女僕の手に小さい絵を差し出した。写真の中の彼女は、いつもの笑顔だった。
「この国を変えられるのは、あなた。私たちの英雄だ」
意味を問い返す暇もなく、僕は椅子を使って換気口へよじ登る。振り返ると、妃美子が最後に手を振った。笑顔のまま、蓋が閉じられる。
換気ダクトの中で、僕は動けなかった。下から声が聞こえる。
「やっと見つけた。サークルの全員か。おっと、上の二人を除いてねはは。抵抗したと報告しておく」
「……クソ野郎」と中村さんの声。
「撃て」
銃声。
僕の喉から叫びが漏れる。
「あああああああああああああああああああ」
「まだ一匹いる! 換気口だ!」
追ってくる足音。必死に這う。金属が軋む。突然、後方で崩落音。追手は巻き込まれたらしい。出口から出ると隣家の庭にいった。空はさっきまで晴れていたのに、灰色に染まり、天はないてる。まるで僕と競うように。フェンスを越え、写真を濡らさないように胸に押し当てる。
走りだした。走っていた。止まれば、全部が無駄になる。涙と雨の区別もつかないまま、僕は家へ向かって走り続けた。
感情を首を長くしてお待ちしております!




