半歩だけ
隔離区画の扉は、以前より軽く開いた。
重い封鎖音はない。
鍵も、二重ではない。
「――問題なし、っと」
作業者の声は、記録用ではなく独り言だった。
帳簿が閉じられる。
赤字はない。
注意書きも、減っている。
「冷却反応、安定」
「周辺影響、基準内」
「接触時の急激な変化……なし」
“なし”という言葉が、並ぶ。
箱は開けられない。
だが、距離は縮められた。
以前より、半歩。
その半歩が、
判断としては大きかった。
(……近い……)
氷の内側で、
空気がわずかに沈む。
理由は、ない。
ただ、そうなった。
《凍理:周辺温度微調整》
勝手に、動く。
止める理由が、思いつかない。
「お、ほら」
「やっぱ問題ないだろ」
作業者が笑う。
手袋越しに、
箱の表面へ触れる。
一秒。
二秒。
――何も起きない。
「な?」
「冷たいだけだ」
“だけ”。
その言葉で、
一つ、判断が進む。
《管理記録:接触許可(条件付き)》
《備考:過剰反応なし》
条件は、曖昧だった。
具体的な数値はない。
前例がないから。
「じゃ、次は移設だな」
「隔離区画、もったいねぇし」
“もったいない”。
その単語が、
用途を生む。
箱が持ち上げられる。
以前ほど慎重ではない。
(……運ばれる……)
氷の思考は、
途中で止まる。
どこへ、ではない。
なぜ、でもない。
ただ、
揺れが来た。
《凍理:環境変化》
《反応:抑制》
抑えた、という感覚も、
薄い。
「冷却、ちょうどいいな」
「この区画、前より楽だわ」
誰かの作業効率が、
上がっている。
理由は、
箱の中にある。
だが、
誰もそこを見ない。
《管理判断:環境補助として有効》
《危険度:低》
《分類:設備補助相当》
設備。
氷は、
言葉を拾う。
(……もの……)
否定は、浮かばない。
怒りも、ない。
ただ、
少しだけ、
内側が削れる。
《負価:進行》
《削減対象:比較》
前はどうだったか。
以前は何だったか。
そういう基準が、
薄れていく。
「これ、常設でいいんじゃね?」
「だな。報告も通るだろ」
決定は、
雑談の延長で下される。
正式な会議は、ない。
問題が、起きていないから。
箱は、
隔離区画を出た。
扉は閉まる。
だが、それはもう、
“戻る場所”ではない。
(……ここ……)
どこか、分からない。
だが、
人の動線の中だ。
《凍理:配置変更》
《状態:運用準備》
準備。
使う前段階。
誰も、
「使う」とは言っていない。
ただ、
「便利だ」と言っただけだ。
氷は、
冷やす。
理由は、ない。
目的も、ない。
問題が起きないように。
その結果が、
また一つ、
次の判断を呼ぶ。
誰も、
間違えたとは思っていない。
――それが、
いちばん大きな誤判断だった。




