比較不能
隔離区画は、静かだった。
音がないわけではない。
機構の低い唸り。
遠くで流れる空気。
人の足音も、時折は通る。
だが――
それらはすべて、
氷に向けられていない。
(……来ない……)
扉は閉じたまま。
視線も、手も、声もない。
《凍理:環境固定》
《外部干渉:なし》
(……何も……
起きない……)
その状態が、続いている。
長い、と思った。
――気がした。
だが、
その“長い”という感覚に、
根拠が見つからない。
(……前は……
こういう時……)
思考が、止まる。
(……前……?)
「前」が、何を指すのか分からない。
隔離区画に来る前?
馬車の中?
それとも――
もっと、別の「前」か。
比較しようとした瞬間、
基準が、立たない。
《凍理:自己参照》
《比較軸:不成立》
(……あ……)
理解する。
失われているのは、
記憶そのものではない。
“比べるための自分”が、
削れている。
(……俺は……
どうだった……?)
思い出そうとすると、
映像は浮かぶ。
だが、
それを「今」と並べられない。
良くなったのか。
悪くなったのか。
変わったのか。
変わっていないのか。
判断できない。
《負価:進行》
《削減対象:自己比較》
(……これが……)
何かを失った、という確信だけがある。
だが、
失った“前後”が、成立しない。
だから、
喪失は痛みにならない。
ただ、
輪郭が曖昧になる。
それでも、
凍理は働く。
壁際の空気が、微かに冷える。
床下の熱が、一定以上、上がらない。
誰にも気づかれない範囲で、
環境は整えられていく。
《凍理:自律最適化》
《負価:累積》
(……今……
やった……よな……)
その問いに、
答えが返らない。
「やった」という感覚が、
確定する前に、滑り落ちる。
残るのは、
“安定している”という結果だけ。
(……役割……)
そう呼べるものが、
ある気はする。
だが、
「それが自分に合っているか」を
確かめる術がない。
比べられないから。
《凍理:存在成立》
《状態:安定》
(……成立……
してる……)
成立している限り、
ここに在る。
使われなくても。
理解されなくても。
氷は、
冷やし続ける。
「以前の自分」より
良いのか、悪いのか。
――その問い自体が、
もう、意味を持たない。
隔離区画は、今日も静かだ。
そして氷は、
“変わってしまったかどうか”を
判断できないまま、
そこに在り続けていた。




