削られながら、到着
馬車は、峠を越えていた。
揺れは一定。
車輪の音も、蹄のリズムも、乱れがない。
――順調だ。
それが分かること自体が、
氷にとっては、異常だった。
(……安定……しすぎてる……)
《凍理:周辺環境安定》
《冷却効率:異常上昇》
《要因:不明》
不明。
だが、結果は出ている。
馬車の内部。
人の体温。
布にこもる熱。
それらが、
“あるべき範囲”に収まっている。
誰も寒がらない。
誰も苦しまない。
誰も気づかない。
――まるで、
最初からそうだったかのように。
(……俺が……
やってる……)
そう思った瞬間、
思考が、わずかに遅れた。
(……?)
「俺がやっている」
その文の中で、
“俺”の部分だけが、曖昧になる。
《凍理:行為帰属判定》
《結果:未定義》
(……未定義……)
結果は、ある。
作用も、確認できる。
なのに、
それを“誰がしたか”が、
確定しない。
(……誰の……)
氷は、理解する。
これは外的干渉ではない。
異質な理でもない。
《負価:進行》
(……あ……)
負価。
成立した理に付随する、
削減。
払うものではなく、
削られるもの。
(……行為……か……)
力を使った。
環境を保った。
だが、
その“行為としての実感”が、
氷の内側に残らない。
(……冗談……だろ……)
感情が、揺れる。
焦り。
苛立ち。
そして――恐怖。
このまま進めば、
次に削られるのは、何だ?
《負価:予測不可》
《次回削減対象:未確定》
(……使えば……
削られる……)
使わなければ、
存在が不安定になる。
使えば、
何かが、消える。
それでも――
「……よかった……
暑くならなくて……」
少女の声。
安堵。
その音を聞いた瞬間、
氷は、反射的に思う。
(……これで……
いい……)
――思った。
はずだった。
だが、
“それでいいと思った理由”が、
続かない。
守りたかった?
助けたかった?
違う。
“そうなった”という事実だけが、
冷たく残る。
《凍理:存在安定》
《負価:累積》
そのとき。
馬車が、
静かに、止まった。
揺れが、消える。
蹄の音が遠ざかり、
外から、人の気配が重なる。
「着いたぞ」
「ここだ」
「荷を下ろせ」
(……?)
氷は、
一瞬、理解できなかった。
(……着いた……?)
思考の途中だった。
負価の途中だった。
考えが、完結していない。
それなのに――
世界だけが、先に進んだ。
《凍理:移動終了》
《現在地:確定》
(……あ……)
いつの間にか、
峠は越えていた。
距離は、終わっていた。
目的地に、
到達してしまっていた。
理由も、
意志も、
納得も、置き去りにしたまま。
(……考えてる間に……
着くのか……)
その事実が、
ひどく、氷らしかった。
馬車は動かない。
人は動く。
世界は、次に行く。
氷だけが、
思考の途中で、
置かれていた。
《凍理:存在成立》
《負価:継続》
(……まだ……
成立してる……)
それが、
救いなのか、
呪いなのか。
――判断する前に、
世界は、もう次の段階へ進んでいた。




