負価
馬車は、止まらなかった。
だが――
氷の内側では、
確かに何かが、引っかかっていた。
(……今の……)
一瞬だけ触れた、異質な感触。
冷でも、熱でもない。
凍理が「異質」と判断したもの。
《凍理:再解析》
《理の痕跡:消失》
《再検出不可》
(……消えた……?)
違う。
消えたのではない。
最初から、掴めなかった。
氷は理解する。
(……今……
何かに……触れた……)
だが、その“何か”を
思考に留めようとした瞬間、
輪郭が、すり抜ける。
形がない。
名も、概念も、伴わない。
(……なんだ……これ……)
不安が、内側に広がる。
分からない。
分からないことが、怖い。
感情は、まだある。
恐怖も、違和感も、確かに存在している。
だからこそ、
この感触を無視できない。
(……前にも……
似た……)
――前?
思考が、止まる。
(……前……?)
“前にも感じた”
そう思ったはずなのに、
そこから先が、存在しない。
氷の内側で、
乾いた音が、小さく鳴った。
――キン。
《凍理:自己状態確認》
《記憶領域:部分欠損》
《欠損理由:不明》
(……欠損……)
失われた、という感覚ではない。
最初から、そこに無い。
そうとしか、思えなかった。
(……何を……
持っていた……?)
必死に探る。
人だった頃。
転生の瞬間。
溶けかけて、再び凍ったこと。
そこまでは、ある。
だが――
“呼ばれていた”という感覚だけが、
説明のつかない形で、残っている。
(……呼ばれて……
いた……?)
その先が、ない。
名を示すはずの何かが、
思考に浮かぶ前に、落ちる。
(……おかしい……)
恐怖が、はっきりと形になる。
溶けるより、
壊れるより、
欠けていると気づくことの方が、
はるかに、恐ろしい。
(……あの時……)
熱。
溶解。
存在を保つために、
一点に集まり、凍り直した。
(……保った……
代わりに……)
何かが、
そこに置いていかれた。
それが何かは、分からない。
だが――
(……次も……)
氷は、理解してしまう。
次に同じ状況になれば、
また同じ選択をする。
保つために。
消えないために。
たとえ、
次に削れるものが、
もっと重要な何かであっても。
馬車は進む。
外の空気は、澄み、冷たい。
朝の光が、箱の隙間から差し込む。
世界は、優しい。
それなのに、
氷の内側だけが、
静かに、削れていく。
《凍理:存在安定》
《代償:未確定》
(……まだ……)
感情は、ある。
怖いと思える。
嫌だと感じられる。
――だから、まだ、成立している。
だが。
あの“異質な理”が、
確かに存在したことだけは、
氷の奥に、消えずに残っていた。
理由は分からない。
それでも――
避ければ済んだはずのものに、
いつか自分は、
また、触れてしまう。
そんな予感だけが、
凍ったまま、そこにあった。




