家の都合で婚約したら初恋泥棒に遭遇した話
「待たせたか、エディス嬢」
待ち合わせたのは最近評判の店で、美味しい焼き菓子とお茶を出すことで有名だった。路面にも少し客席があるが、店内を通り抜けた裏にある席が素晴らしい。
ごみごみした王都の中央部にあるとは思われぬほど、みごとな薔薇園。面積も相当なもので、互いに見通せない場所に、蔓薔薇に覆われた四阿がいくつか点在している。この特等席を取るのは、至難のわざといわれている。
リチャードには、その席を取れるだけの財力と人脈があった。ゆたかな領地を持つ貴族の嫡男なのだから、当然だ。
「いや、先ほど来たところだ」
エディスも貴族の令嬢である。リチャードは、婚約がととのったことを親に知らされてから、はじめて顔合わせをした。
彼女は美しい。家柄も悪くない。それは認めざるを得ない。
ただ……背が高い。
リチャードは男性の平均よりやや背丈が低く、それを非常に気にしていた。
気にしていないと嘯いてはいたが、実際どうかというと――気にしまくっていた。
その上、彼女は短髪だった。
最近、そういう流行があることは知っている。肩にも届かぬくらいに切り揃えた髪を、ひらりと風になびかせるのがお洒落らしい。
だが、エディスの髪はもっと短い。
前髪は長く、その秀麗な目元を覆うほどであった。隠していたものが見える瞬間がまた最高に美しいので、あきらかに意図的なものだろう。然るに、襟足のあたりは指でつまむのが精一杯という程度の長さしかない。
さらにいえば、彼女の装いは男性的であった。街を歩くにも、好んで男装しているらしいとは、友人から聞き込んだ情報だ。さすがに顔合わせのときはドレスを身につけていたが……。
つまり、エディスとリチャードが並んで歩くと、どっちが男なのか微妙……という絵面になってしまうのだ。
リチャードには、それが耐え難かった。
とはいえ、家同士の了承があっての婚約である。事前に顔合わせさえなかったのは、本人たちの意思など尊重されないのと同義だ。
相手の方がかっこいい男性っぽく見えるから、みたいな理由で婚約解消がかなうはずがないし、それを自分や先方の親に訴えるなど……想像するだけで憤死できる。
顔合わせ当日に、リチャードは結論した。相手から婚約解消を願い出てもらうのが最良である、と。
彼は決断が早い男なのだ。
いくつか作戦を考えた内で、手早く実行できそうなものを選んだ結果が、この薔薇園でのお茶会である。
「今日は、僕の幼馴染を紹介したくてな」
「手紙にも、そう書かれていたね。楽しみにしていたんだ」
リチャードの言葉に、エディスは如才なく応じる。
動揺もなにもしていなさそうだが、ここは押し切るしかない。そう判断して、リチャードは同行者を紹介した。
「僕が親しくしている、ダイアナ・バロレット嬢だ」
ダイアナは、可愛い系の美少女だ。目がくるっとして、頬もふっくらと血色もよく、ふわふわした巻き毛が愛らしい。
そして――これはリチャードにとって重要なことなのだが――背が低い。
恋愛関係にあるかと問われると、微妙なところだ。少なくともリチャードには、彼女に惚れているという自覚はない。
ダイアナの方は、大きくなったらリチャード様のお嫁さんになりたい、などと口走っていた時期もあった。だが、彼女の家はリチャードの家より家格が低い。単にタウンハウスが隣だからつきあいがあるだけ、というのが家同士の関係である。
よって、お嫁さんにするどころか、友人づきあいさえ推奨されてはいなかった。
無論、ダイアナの方は別だろう。親からも、つきあっちゃえよ! くらいの勢いで期待されている……と、本人から聞いたことがある。
リチャード自身は彼女との結婚は無理だろうと思っているし、ダイアナもそれは難しいと理解している。
が、君の競争相手を見たいかい? とリチャードに問われれば、見てみたいかもと答えるのがダイアナだった。
あわよくば別れさせてやれ、とダイアナは思っているだろう。頑張ってほしい。
「ダイアナ、こちらが僕の婚約者のエディス嬢だ」
「はじめまして、エディス様。ダイアナと申します」
そういってダイアナがお辞儀をする――と、エディスはすっと立ち上がった。
「なんて可愛らしい淑女だろう」
は? とリチャードは思った。
おそらく、ダイアナも同じに違いない。
硬直するふたりに――というか、ダイアナに、エディスはその長い前髪をかき上げて、蕩けるような笑みを向けた。
「この薔薇園のどの薔薇よりも可憐で、美しい……」
は? と、リチャードは思った。二回目であるが、は? としか思えない。
ダイアナの方は、戸惑いながらも応じる。
「そんな……わたしなんて、全然。エディス様の方が、お美しくていらっしゃると思います」
それはそうだが、と内心認めつつ、リチャードはダイアナのために椅子を引こうとした――が、先を越された。
誰に? エディスに、である。
「どうぞ、薔薇の妖精さん」
戸惑いつつも、できるだけしとやかに腰掛けたダイアナの髪に、エディスがふれる。
「あの……」
「この薔薇を、君に」
いつのまにか、卓上の花瓶に活けられていた薔薇の茎を短く折り、ダイアナの髪にさしている。
半歩ほど下がって、にこり。
「うん、とてもよく似合う」
は? 三回目が出てしまった。
しかし、それをそのまま声にするわけにはいかない。
リチャードはかるく咳払いをすると、君も座りたまえとエディスに告げた。すると、エディスはもとの席に戻った――が、眼差しはダイアナに向けたままだ。
なんなんだこの女、という内心の声がうっかり出てきそうになった。
「リチャード、こんな可憐な女性を今まで隠していたなんて。人が悪いじゃないか」
いやなんで? なんでそんなこと、いわれなきゃならない?
混乱しつつ、リチャードはもっともらしく応じた。
「たいせつな女性だからな。そう誰にでも紹介するわけではない」
「ああ、なるほど。わかるよ。こんなに愛らしい花だもの。人目にふれさせたくないだろうね」
会話しているのは自分なのに、なぜエディスはダイアナをみつめているのか。
「あの、わたしはほんとうに……エディス様の方がずっとお美しくて」
どんな女か見定めてやりますわ、と勢い込んでいたはずのダイアナが、たじたじである。
まさか誉め殺しに来るとは。リチャードはもちろん、ダイアナも予想していなかったはずだ。いわゆる想定外というやつである。
「まさか。君に優る花など、この庭には咲いていないよ」
予想の斜め上過ぎて、返す言葉に詰まる。というか、リチャードは返しどころか存在すら求められていない気がする……。
そこへ、店の者があらわれた。
「茶葉はいかがいたしましょう」
お茶のリストを見せられて、平和だ……今のうちに常識を取り戻したい、とリチャードが思っていると。
「ダイアナ、わたしに似合う茶葉を見立ててくれないか?」
エディスの台詞である。
いや……似合う茶葉ってなんだよ。なにいってんだ。
「エディス嬢、僕の幼馴染に無理をいわないでくれ。はじめて会った相手にあわせて茶葉を選べなど、ひどいじゃないか」
「ああ、これは失敬。そうだね、わたしたちは初対面だったね……とてもそうは思えないけれど」
なんでだよ。
ツッコミたかったが、リチャードは堪えた。一周回って、冷静になってきた。
片手で数えられるほどしか会ったことのないエディスだが、はじめて見る一面である。べつに見たくはなかった。とはいえ、これは順当な返しであろうと判断し、言葉にする。
「ダイアナ嬢といると、エディス嬢のあらたな一面を見られて、実に興味深いよ」
「はは、照れるな」
なにがだよ。
結局、各自で好きな茶葉を選ぶことになった。順当である。
ほどなく、この店自慢の菓子と軽食が運ばれてきた。三段のケーキスタンドには、伝統的なキュウリにスモーク・サーモンをあわせたサンドイッチやチーズ、薄く切ったローストビーフなどの軽食から、華やかにデコレーションされた一口大のケーキまで、伝統を重んじつつ先進的なものが用意されている。
食器は白磁で、ティーポットとカップにのみ、それぞれ一箇所だけ薔薇の模様が描かれていた。今風に装飾を抑えながら、薔薇柄だけは古典的なモチーフ。実に趣味が良い。
「ダイアナ、ほら、これが美味しそうだよ。食べてみて?」
ね? といわんばかりの顔で、フォークにさしたチーズをエディスがさしだす。
あ〜ん、である。
……おまえの婚約者、誰? と、いいたくなる。いや、あ〜んされたいわけではない。公共の場でそんなの憤死案件である。とはいえ、絶対におかしい。
ダイアナもダイアナだ。なんで素直にパクッとしてるんだ。
「いいなぁ、可愛い幼馴染。わたしは子どもの頃は病弱でね……同年代の子と遊ばせてもらえなかったんだ」
病弱だなんて情報あったか? いや、子どもの頃の健康状態までは調べてないな……。
記憶を検索中のリチャードの横で、ダイアナが眉を下げる。
「まぁ、お可哀想に……」
「せめて君のように可愛らしいお嬢さんが近くに住んでいてくれれば、お見舞いにも来てもらえて、心も弾んだのだろうけどね。わたしの周囲は、男ばかりで。兄が三人いるんだが、兄の友人も男だろう? 遊びに来ても、わたしの身体に障るからと、会うこともできなかったよ。男の子なんて、乱暴と悪戯でできているようなものだしね」
「お兄様がたは、やさしくしてくださったのでしょう?」
ダイアナが気遣わしげに尋ねると、エディスは曖昧な笑みを浮かべて答えた。
「兄たちも、出入り禁止を申し渡されてしまったんだ。蛙を持ち込んだのが原因で、乳母が激怒してしまってね。兄たちは、わたしを楽しませるつもりだったんだろうが……。だから、わたしの幼少期の記憶は……ひとりでベッドから窓の外を見ているものばかりなんだよ」
「エディス様……」
「ああ、申しわけないことをしたね。こんな薄暗い話、君には似合わない。忘れてくれ、今はすっかり元気だし。こうして、君のように可愛らしいひとと出会うこともできるんだからね」
……なにを聞かされているんだろうか。
リチャードは、エディスのウィンクを眺めた。もちろん、ウィンクの相手はダイアナである。
なお、リチャード自身はうまくウィンクができない。練習したが、顔が引き攣って微妙なので披露したことはない。
その点、エディスのウィンクは完璧であった……敵ながら、天晴れである。
「エディス嬢、あなたが病弱だったとは初耳だ」
「あまり心配をかけたくないからね。滅多に話さないことにしているんだ。今日は、なぜだろう……つい、そんなことも話していい気がしてしまってね。ダイアナ嬢のやさしさが、わたしの心の扉を開けはなったのかな」
会話しているのはリチャードのはずだが、エディスはダイアナを見ている。
そして、ダイアナもエディスを見ている……。
二周回って、どうでもよくなってきた。
リチャードはお茶を飲み、サンドイッチを食べた。実に美味しかった。さすが評判の名店である。
その後も女子ふたりの会話は弾みまくり、あやしい雰囲気が醸し出されまくった。
どうでもよくなっていたリチャードは、単刀直入に訊いてみた。
「エディス嬢、君は僕との婚約についてどう思っているんだ?」
「家と家との契約だよね。時代遅れだな、というのが正直な感想だが……」
「だが?」
リチャードが眉を上げて見せたのは、実に久しぶりに視線が合ったからだ。
エディスは肩をすくめ、やれやれ、というジェスチャーをして見せた。似合ってるのが腹立たしい。
「ま、しかたのないことだろう。今後も、よろしくたのむよ」
向こうから断ってもらうのは難しそうだ、とリチャードは思った。
男兄弟の中でたったひとりの娘だから、親は溺愛しているという情報があった。それで、エディスの願いなら聞き入れてもらえるだろうと踏んで、今回の計画を立てたわけだが……現状、誤算しかないといっていい。
なお、リチャードはリチャードで一人っ子であり、可愛がられてはいる。が、スペアとなり得る弟がいないため、間違いが許されない立場でもあり、厳しく躾けられてもいる。
エディスが本気で嫌がってくれるほどの不品行をはたらくのは、家の評判にかかわる。女性関係を派手にする路線――相手さえきちんと選べば、多少の浮名を流す程度、社交界ではそこまで忌避されないのだ――は諦めて、次の手を考えるしかないだろう。
もっと情報が必要だ、とリチャードは思った。
「なるほど、では僕については?」
「可愛らしい幼馴染がいて、羨ましいと思うよ」
意味ありげな視線は、もうダイアナに向いている。いっそ清々しい。
「そうか。ダイアナの可憐さは、僕の心を慰めてくれるんだ」
「わかるよ。わたしも慰めてもらいたいな」
もはや、内心のツッコミも尽き果てた。
ケーキスタンドに並ぶものも、少なくなっている。非常に美味だった、評判が高いのもわかる――とリチャードは思ったが、同時に、こうも思った。
こんな経験をした店、もう一回使うことがあるかな、と。
「さて……そろそろお開きかな。どんな薔薇より可愛いひと、今日はあなたに会えてほんとうに嬉しかった。引き合わせてくれたリチャードには感謝しているよ。……彼とわたしが婚約を結んだことで、君が傷つかなければよいのだが」
一瞬、リチャードは考える。その線はアリか?
つまり、ダイアナが傷つくから婚約解消してくれとエディスに仄めかせば――。
リチャードの考えは、ダイアナが立ち上がったことで途切れた。
「ダイアナ?」
「リチャード様、申しわけありません。わたしが今までリチャード様に覚えていた感情は、恋ではなかったとわかりました」
「は?」
うっかり口に出してしまったが、しかたがないだろう。一回くらいは勘弁してほしい。
それはそれとして、ダイアナはリチャードに話しかけているというのに、見ているのはエディスである。さすがに、堪える。
「エディス様、わたし、エディス様に恋をしてしまいました……」
早いよ、とリチャードは思った。チョロ過ぎだろ、ダイアナ。
と同時に、自分もあんな風に立ち回ればダイアナを恋に落とすことができたのかと考えてみる――が、旨味がなにもなかった。
でもまぁ参考になるから覚えてはおこう、とリチャードは思った。
「恋をしたの? 困ったな……君がますます綺麗になってしまうよ」
……覚えておこうと思ったばかりだが、自分にこれは無理かもしれない。
エディスは優雅に立ち上がり、ダイアナをエスコートした。
リチャードは座ったままだ。マナー的には立ち上がるべきだが、それがどうした。彼女らにとって、どうせ自分は置物レベルのサムシングなのだから、動かない方が適切だろう。
「では、わたしたちは失礼するよ、リチャード。今日は素晴らしい出会いをありがとう」
「リチャード様、わたしからも御礼を申し上げます」
女ふたりはリチャードに礼をいうが、視線はお互いに向いている。
「いくらでも恩に着てくれ。一応、釘を刺しておくが……同性愛は法律にふれることは知っているんだろうな?」
この国には、そういう法律があるのだ。男色が発覚して一気に権威失墜した貴族もいるので、洒落にならない。法律改正を求める動きもあるそうだが、とにかく現状では同性愛は違法である。
リチャードとしても、婚約者が同性愛で断罪されるのは困る。婚約解消は可能だろうが、どういう噂が広がるかを考えるだけで頭が痛くなる。たとえば、リチャードの男性としての魅力がたりないからエディスが同性愛に走ったのだろう、とか。
それだけは、絶対にやめてほしい。
思いを込めて見上げるリチャードに、エディスはふっと笑った。前髪をかき上げれば、最終兵器級の美しさである。やめろ、攻撃力を上げるな。
「心配してくれるのか。ありがとう、婚約者殿。でも大丈夫、わたしは同性愛者ではない。ただ、可憐な花を愛でるのが好きなだけなんだ」
心配しかないが、リチャードはこの返答をもって手打ちとした。
「礼をいわれるまでもない。先に行ってくれ」
「ああ。……ダイアナ、このあとの予定はある?」
「特にはなにも。エディス様は?」
「ないよ。わたしの妖精さん、いっしょに街歩きをしてくれるかい?」
「もちろんですわ」
いいから早く行け、とリチャードは思った。
* * *
けしからん女たちを放流したのち、リチャードは店を出て、若者向けの会員制クラブへ向かった。
クラブには男しかいないのである……今の気分にうってつけだ。
「おや、リチャードじゃないか」
「ヘンリーか。変わりないようだな」
気の置けない友人と顔を合わせるのは、久しぶりだ。学校を卒業して以来だろうか。
それなのに、耳は早かった。
「婚約したんだって? あのバートラム伯爵令嬢と」
「婚約はしたが……なんだその『あの』っていうのは」
「僕の双子の妹が、彼女と同じ女学校に通っていたんだよ。だから、噂はいろいろ知ってるんだ」
こんなところに情報源が!
女学校は男子禁制の乙女の園である。学校に問い合わせても、成績優秀で人望も厚く、問題なく卒業したという回答しか得られなかった。
「なにか彼女の弱みはないか」
「弱み? ああ、可愛い女の子に弱いらしいよ」
それはもう熟知している。
「ほかには?」
「うーん、弱みは知らないなぁ。すごく美しくて、全女子生徒の憧れの『お姉様』だったとか……」
それは知らないが、想像がつく。
ヘンリーは少し考えてから、言葉をつづけた。
「あと、あだ名が『初恋泥棒』だそうだ。出会って数分で女性をめろめろにさせるらしい」
……それも知っている。さっき、ダイアナの初恋が奪われるところを見学してしまった。見学したくはなかった。
「ほかになにか、ないのか?」
「弱みは思いつかないなぁ。兄のガードがすごくて、男は近づけない……って話もあるよ。そうだ、もうバートラム三兄弟には会ったのか?」
「いや、まだだ」
このまま婚約がつづけば会わざるを得ないのだろうが、会いたくないな、とリチャードは思った。
いや、むしろその猛烈そうな兄たちにガードされて婚約解消という流れはどうだろうか……殴られるのは嫌だが、最悪、そこまで織り込み済みで作戦を立ててもいい。
「君は会ったことがあるのか?」
ヘンリーに尋ねると、良い笑顔でうなずかれた。
「ボクシング・クラブの先輩なんだ。でも、妹の話を聞き出すのは無理だよ。殴られて終わりだ」
「強いのか?」
「すごく強い。パンチ力があるんだ。相手の手を先読みして応じるんじゃなくて、受けても倒れなきゃいいだろ、こっちが倒せばそれで問題ない……って感じの選手だね。僕が直接知ってるのは、末弟のトーマス先輩だけだけど」
殴られる案は捨てた。リチャードは決断が早いのだ。
これはもう、婚約とその先にある結婚を受け入れるしかないかもしれない……。
いろいろ諦めて、リチャードはワインを注文した。こんな気分のときに上物はもったいないので、軽く飲める銘柄のボトルを開けさせ、ヘンリーにも勧める。
ありがたくいただくよ、とグラスを掲げるヘンリーに、リチャードも疲れた笑顔で応じた。
ヘンリーの情報がなければ、もっと足掻いていたかもしれない。その点は、感謝だ。
「しかし『初恋泥棒』は問題にならないのか? その……手当たり次第に落としてるということだろう?」
「妹曰く、お姉様は皆のお姉様なので、ひとりが独占しなければそれで大丈夫、らしい」
まったく大丈夫とは思えない。世の中の常識は、リチャードが知らないところで変わってしまっているのだろうか。
「よくわからないな、そういうの」
「まぁ、女学院も卒業したのだから、そういう騒ぎも終わるんじゃないか?」
終わっていないことを、リチャードはよく知っている。
が、刺客として送り込んだ幼馴染の初恋まで盗まれたとは説明しがたいため、黙って微笑むにとどめた。それをどうとらえたのか、ヘンリーはニヤついた。
「とにかく、大した美貌だそうじゃないか」
「ああ。非常に美しい女性だ」
方向性が、かっこいいに特化してるけどな……と思ったが、リチャードはそれも胸の内におさめた。
実際、エディスは美しい。貴族としての義務も受け入れている。頭も悪くないようだし、必要とあらば女性籠絡要員として使える……なにも依頼せずとも、連れて行くだけで発動するのだ。
うちの婚約者殿はすごいな、とリチャードは思った。そして、決意した――この婚約を、前向きに受け入れよう、と。
何回でもいうが、リチャードは決断が早いのだ。
* * *
そののち、リチャードは結局、三兄弟の洗礼を受けることになったが、エディスが
「彼は正当な婚約者だから、むしろ兄様たちが無法」
と割って入ってくれたことで一命をとりとめるなどの事件があった。
このときが、リチャードがバートラム伯爵家に婚約解消を突きつける最後の機会だったのだが、なぜかエディスにそれを告げることができず、結局、それなりの賠償金をもらって落ち着いた。
いや実際、ひどい怪我だったのである。肋骨が折れたくらいだし。あれは地獄だった。
そんな地獄をくぐり抜け、ふたりは順調に婚約期間を過ごし、結婚した。
結婚式では、エディスの信奉者たちのあいだで、誰がブライズメイド役を射止めるかで熾烈な争いが勃発しそうになったが、これもエディスが
「選ぶなんてとてもできない。全員が、わたしの可愛い小鳥ちゃんたちだ。皆で祝っておくれ」
と、三桁に近い人数を引き連れて歩くと決めて、おさめてしまった。
前例のないことなので支度も大変だったが、皆が歩けるように教会の座席を減らしてもらったりといった手配は、リチャードがぬかりなく終えた。もはや、エディス関連でなにが起きようと、彼は動じなくなっていた。
だってエディスだしな。
無事に婚礼を終えたあと、少し疲れたからと、ふたりで控え室に逃げ込んだとき。
リチャードは美しい花嫁を見上げて――残念ながら、彼の背丈はそれ以上伸びなかったのだ――告げた。
「君のあだ名が『初恋泥棒』だと知ったのは、ダイアナを引き合わせたあとのことだが」
「ああ、あの薔薇園の妖精さんだね」
ダイアナはすでに、見合った家格の男性に嫁いでいる。既婚のためブライズメイドに名乗りをあげることができないのが悔しいといいながら、祝福してくれた。
「あれを皮切りに、いろんなことがあったなぁ……」
「そうだね。君と婚約してから、わたしの人生はずいぶん変わったよ、リチャード」
「疑わしいな。僕といても、次々と女性を落とすじゃないか」
「あれは……わたしは幼少期に、あまり他人とかかわることがなかったものだから――」
知ってる。小さく首肯してつづきをうながすリチャードに、エディスは少し困ったような笑みを浮かべてこう告げた。
「――実をいうと、ベッドの中では物語ばかり読んでいたんだ。女の子向けの。理想の王子様が出てくるようなやつさ。それで、そういう言動が身についてしまって。しかも、そうすると女の子たちが皆、喜んでくれるだろう?」
ヒロインではなく王子様の方の言動が身についてしまう理由がよくわからないが、まぁエディスだしな、でリチャードは受け入れた。エディスだからな。
「天にものぼりそうな勢いで、そうなるな」
「皆が幸せになってくれるなら、それでいいかなと思って。……でも、わたしも結婚したことだしな。リチャードが嫌なら、今後は慎むよ」
既婚女性を省いても三桁近いブライズメイドが集まったという事実に関して、リチャードはもうおどろいても呆れてもいない。エディスはそういうものだと受け入れている。
彼女と近い距離で過ごせば、そうなってしまうのだと。
「べつに、かまわない。エディスはエディスが好きなように生きてくれれば、それでいい」
「……前から不思議だったのだけど、訊いていい?」
「なにを? 僕は不思議どころか面白味さえない男だと思うが」
少し考えるようにしてから、エディスは切り出した。
「わたしのこと、どう思っているの? その……兄上たちでさえ、わたしが女の子を幸せにするのはうんざりで、もうやめろというんだ。ブライズメイドのことだって、信じられないとか常識がないとか責められた。自分に常識がないのはわかっている……でも、リチャードは笑って許してくれるだろう?」
「だってエディスだからね」
「……そうなんだけど、でも……どうして?」
リチャードは手をのばし、エディスの長い前髪を耳にかけた。今日のエディスは、ひときわ美しい。
「家の都合で婚約したし、結婚まで問題なく進んでしまったせいで、君に告げる機会がなかったんだが……実は、僕の初恋も君に盗まれたみたいなんだ」
こんな台詞、エディス以外に聞かせるのは憤死案件だし、こういうのが得意なエディスに向けても意味がなさそうだと思いつつ口にしてみたのだが。
妻の頬が、ぽっと朱に染まった。
久しぶりに、リチャードはエディスのことでおどろいた。だいたいの不思議現象は、まぁエディスだしで処理できたのだが。これはちょっと珍しい。
「エディス?」
「……慣れてないんだ。いわれる方は」
なるほど。
素早く納得して、リチャードはこれまでに見聞きしたエディスの必殺技を次々にくり出してみた。
「君のような美しいひとと結婚できて、僕ほど幸せな男はいない」
「……」
「どうかこちらを向いてくれ、僕の天使」
「……ちょっと」
「恥ずかしがっているの? 僕の可愛いひと」
「リチャード!」
真っ赤になったエディスに、リチャードは告げた。
「愛している。君は世界一の花嫁だ」
「……それなら、あなたは世界一の花婿だよ、リチャード。……その……大好き」
そういうわけで、リチャードは初恋泥棒の確保に成功したのだった。
...And they lived happily ever after.
肋骨、折れちゃったことあるんですけど、かなり痛かったです。