9
日曜の午後。
カーテン越しに差し込む陽の光が、部屋の床に淡く広がっていた。
ベッドに寝転がったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
特に何かを考えているわけじゃない。
でも、何も考えていないわけでもない。
静かすぎる部屋の中で、自分の呼吸音だけが聞こえる。
澪との通話から一晩。
心の中は、不思議と穏やかだった。
寂しさはまだある。
でも、その奥に、なにか“納得”のような感情があった。
「……終わったんだな」
口にしてみると、少しだけ喉が詰まった。
けれど、涙は出なかった。
それだけで、もう十分だった。
* * *
スマホに届いたメッセージ。
《ヒマならカフェ来い。課題やるの手伝え。by 結花》
つっけんどんな文面なのに、
なぜか少しだけ、笑ってしまった。
俺の失恋を知ってて、こういう距離感で接してくれるのはありがたい。
干渉しすぎず、放ってもおかず、無理に明るくもしない。
そういうのが、ちょうどよかった。
《今から行く》とだけ返信して、ベッドから起き上がる。
鏡を見る。
昨日より、少しだけ顔色が良かった気がした。
* * *
日曜のカフェは、意外と空いていた。
入り口近くの席に、結花がいた。
大きめのトレーナーに、メガネをかけていて、学校のときとは少し雰囲気が違う。
「おそーい。死んだかと思った」
「寝てただけだよ。てかその格好、誰?」
「カフェモードの私。レアキャラ」
笑って、手元のプリントを差し出してくる。
「これ、わかんない。助けて」
「……結局、課題じゃん」
「だってハルくん、成績いいじゃん。頼れるでしょ?」
「そういうときだけ頼られるの、地味に傷つくんだけど」
そう言いつつ、俺は椅子に腰を下ろした。
隣に誰かがいる。
声が聞こえる。
それだけで、少し救われる気がした。
プリントを眺めながら説明を始める。
結花は、思ったよりも真面目に聞いていた。
「なるほど……でもこの公式、意味わからん」
「前に似たやつやったろ?ほら……」
「うーん……あ、あれか!……あれ?」
「違う。全然違う」
「くっそぉ、記憶喪失になりたい」
「それは俺に効くからやめろ」
そう言った瞬間、ふたりとも黙った。
数秒の沈黙のあと――
「……ごめん」
「いや、別に。冗談だってわかってるし」
「でも、あんまり引きずってるようには見えないね」
「……引きずってるよ。見えないだけ」
そう言った俺を、結花はじっと見つめた。
「そっか」
それだけ言って、またプリントに目を落とす。
ああ、そうか。
この人は、ちゃんと“わかってる人”なんだなと思った。
「無理して切り替えなくていいよ。
ちゃんと引きずってる方が、人間味あって私は好き」
「それって褒めてんの?」
「わかんない。気まぐれでしゃべってるだけ」
また笑った。
この笑顔は、“俺を励まそうと作っているもの”ではない。
ただ、隣にいる人間として、自然に向けられたものだった。
だからこそ、あたたかかった。
* * *
カフェを出る頃には、日が傾き始めていた。
並んで歩く帰り道。
ふたりとも無言だったけど、重苦しさはなかった。
「ねえ、ハルくん」
「ん?」
「忘れたくない記憶って、どうすれば消えないかな」
不意に聞かれたその言葉に、立ち止まる。
「……どうして?」
「ううん、なんとなく。
忘れたくないって思ったら、逆に薄れていく気がして」
「俺は逆だな。忘れたいって思ってる記憶ほど、残る」
「それって、皮肉だね」
「うん、めちゃくちゃ皮肉」
夕陽が、彼女の横顔をオレンジ色に染めていた。
「でも、ハルくんの中に“澪”が残ってるなら、
きっとそれって“嘘の恋”じゃなかったって証明だと思うよ」
「……」
その言葉は、やけに優しくて、痛かった。
「じゃあ、結花は? 忘れたくない人、いる?」
「……いるかもね。でもまだ“その人”が、自分にとってどういう存在かはわかんない」
「そっか」
「うん。たぶん、もう少し一緒に過ごしたら、わかるのかも」
何気ないようで、少しだけ含みのある言葉。
でも俺は、まだその意味に気づかないふりをした。
今はまだ、誰かを“新しく好きになる”準備ができていないから。
それでも――
「……ありがとな」
その言葉だけは、心からだった。
結花は、黙ってうなずいた。
夕陽の中で、少しだけ笑った気がした。