6
昼休み。屋上の扉を開けると、冷たい風が俺を迎えた。
コンクリートの床に腰を下ろし、空を見上げる。
雲一つない、抜けるような青空だった。
こんなにも晴れているのに、心の中はまるで雨が降っているようだった。
「――ごめん、待った?」
足音とともに、あの声が背後から届く。
振り返ると、澪が立っていた。
顔には笑顔なんてなく、代わりに――罪悪感と迷いがにじんでいた。
「いや。ちょうど今来たとこ」
いつものように、そう返した。
言葉だけは、いつものままで。
彼女は俺の隣に腰を下ろす。
ふたりの間には、30センチくらいの距離。
だけど、それ以上に遠いものが、確かにあった。
「話、してくれてありがとう。……ほんとは、ずっと、怖くて」
「……怖い?」
「ハルくんに嫌われるのが、怖かった。
正直に言ったら、全部壊れちゃう気がして……」
「正直に、ってことは……紘のこと、好きになったってこと?」
小さく、彼女は頷いた。
その動きだけで、胸の奥が軋んだ気がした。
「でも、言わなきゃもっと嫌われるって、思って……」
「……いつからなんだ?」
「自分でも、はっきりとはわからない。でも、戻ってきた紘くんと話してると、
なんか、昔の気持ちが思い出されるっていうか……懐かしさみたいなものが、どんどん膨らんで……」
「俺と付き合ってる間に?」
「……うん。ほんとに最低だと思ってる」
「最低なんかじゃないよ」
言って、自分でも驚いた。
怒りがこみあげてくると思っていた。
でも、出てきたのはただの、静かな“理解”だった。
「澪は悪くない。……悪いのは、たぶんタイミングだ」
彼女は顔を伏せたまま、小さく震えていた。
「俺のこと、好きだった?」
「……好きだったよ。優しくて、安心できて、一緒にいると、穏やかになれる人だった。
でも……」
「でも、“恋”じゃなかった?」
「……うん。たぶん、私は“安心”と“恋”を間違えてたんだと思う」
心臓に、鈍い痛みが走る。
だけど、彼女が本気で悩んでいたことは、わかった。
俺との関係を、ただ捨てたんじゃなくて。
迷って、悩んで、それでも選ばざるをえなかったことが、伝わってきた。
「……俺の隣、しんどかった?」
「しんどくは、なかった。ただ……ちゃんと向き合えてなかったんだと思う。
いい彼氏でいてくれたのに、私は“ちゃんと好きになる努力”を、どこかでやめてた」
「……そっか」
沈黙。
彼女が泣いてるのに、俺は涙ひとつ出なかった。
むしろ泣けたらよかったのに、とさえ思った。
「でもさ、澪」
「……うん?」
「たぶん、俺……今も、好きなんだよな。君のこと」
彼女が顔を上げた。
目元が濡れていて、それでも、まっすぐ俺を見ていた。
「ありがとう……ほんとに」
「でも、もう言わないから。もう、終わったから」
「……ごめんね」
「うん」
俺は立ち上がった。
「さよなら、澪」
「……さよなら」
その言葉が、はっきりと終わりを告げた。
扉を開けた瞬間、背中で彼女が泣き崩れる音が聞こえたけど――
振り返らなかった。
振り返ったら、きっとまた“優しくなってしまう”から。
* * *
夜。
スマホが震えた。
画面には――紘の名前。
《今、話せる?》
《大事なことがある》
ためらいながらも、通話ボタンを押す。
「……ハル。ごめん、こんなときに」
「別にいいよ。話したいことがあるんだろ」
「……あのさ。俺、記憶、本当にないんだ。
澪のことも、最初は“誰?”って思ってた。
でも……話してるうちに、自然に惹かれていった」
「……そうか」
「思い出してたら、たぶん……もっと罪悪感とか、考えちゃって、
ちゃんと好きになることもできなかったかもしれない」
「それって……」
「今の俺は、ただ“今の澪”が好きなんだ。
過去も知らないし、君と付き合ってたことだって、途中まで知らなかった。
でも――それでも、好きになってしまった」
言葉が、優しくて、だからこそ重かった。
「ずるいな、お前……」
俺は笑ってしまった。
「でもさ、ハル」
「……ん?」
「俺、今も“お前の友達”でいたいと思ってる。
都合よすぎるけど、それでも……また笑い合えたらって」
「……それは、時間かかるかもな」
「わかってる。……でも、待ってるから」
通話が切れたあと、俺はスマホを伏せて、天井を見つめた。
誰も、悪くなかった。
だからこそ、こんなにも痛い。
泣けないのが、いちばんつらかった。
あとがき
誰も悪くない…?