その日、澪は俺じゃない“誰か”と手を繋いだ。
澪と別れて、紘の電話を切って、それからの時間――
俺はただ、部屋の天井をぼんやり見つめていた。
泣くでもなく、怒るでもなく。
感情という感情が、すべて水に沈められたように鈍かった。
自分が何を失ったのか、
まだちゃんと理解できていないのかもしれない。
“彼女”が“好きな人”に変わる。
たったそれだけのことが、
どうして、こんなにも胸を抉るのか。
わからない。
いや、本当はわかってる。
――俺は負けたんだ。
思い出に。
初恋に。
記憶喪失の無敵さに。
そしてなにより、“彼女の気持ち”に。
* * *
火曜日。
教室に入ると、ふたりの姿があった。
澪と、紘。
並んで席に座って、なにかを話していた。
俺に気づいた澪が、ちらりと視線を向ける。
目が合う。
けれど、すぐに逸らされた。
その一瞬だけで、
もう“元カノと元カレ”の関係なんだって、
嫌でも実感させられた。
席について、無言で教科書を開いた。
机の上の文字が、まったく頭に入ってこない。
斜め後ろから、紘の声が聞こえる。
「……今日さ、帰りに図書室行かね? あの話の続き、気になるし」
「うん、いいよ。あの絵本、ほんと懐かしかったよね……」
「な、あれ俺読んでたのか。やっぱ思い出補正ってやつ?」
「ううん。思い出じゃないよ。たぶん……今でも好きなんだと思う」
――もう無理だった。
あの声のトーン。
あの微笑。
それは“俺に向けていたはずのもの”だった。
“好き”のベクトルが完全に移動している。
それが痛いほどわかって、息が苦しくなる。
* * *
放課後。
いつものように席を立ったふたりは、
もう隠す気すらないように並んで教室を出ていった。
俺は鞄を閉じて、無意識のまま、その背中を追っていた。
理由なんてなかった。
ただ、“見なきゃいけない”気がした。
――けじめをつけるために。
校舎裏の自販機前。
ふたりは、肩を寄せ合って並んでいた。
「これ、半分こしよっか」
「いいの?」
「いいよ。昔もやってたよね。ジュース1本を、ふたりで」
「……うん。覚えてる」
ペットボトルの蓋を開けて、彼が一口飲む。
そして、蓋を閉めずに彼女に手渡す。
澪は、何も言わずに――そのまま口をつけた。
――間接キス。
そんな言葉すら、今となっては古臭いけど、
それでも、“俺とはしなかったこと”を平然とやっているのが、辛かった。
ふたりはベンチに腰かけ、
彼の手が、そっと彼女の手の上に置かれた。
一度だけ、澪が驚いたように目を丸くする。
でも。
彼女は――その手を、払いのけなかった。
それどころか、自分から握り返した。
「……っ」
この瞬間、俺の中で何かが完全に折れた。
“まだ間に合うかもしれない”
“彼女は迷っているだけだ”
そんな希望は、すべて潰えた。
もう、言い訳はできない。
澪は選んだんだ。
“俺じゃないんだ”、もう。
* * *
その夜、澪からLINEが届いた。
《ちゃんと話さなきゃと思ってる。明日、時間もらえない?》
今さら、なんの話だよ。
もう終わったじゃないか。
手を握った瞬間に。
あの柔らかい笑顔を、俺に向けなくなった時点で。
……でも。
既読をつけて、返信した。
《わかった。昼休み、屋上で》
《ありがとう。ごめんね》
何度目の“ごめん”だよ。
そのたびに、俺は許すふりをして、
少しずつすり減って、気づいたときには空っぽになっていた。
きっと、明日が――
“最後の会話”になる気がしていた。