第97話 量子真空の沸騰
光が波打ち、空間が歪む。
ふたりの間に、見えない力が充満する。
空気が震え、静寂が痛いほどの緊張をはらんで膨れ上がる。
「じゃ、始めるよ」
レイの右手に、青白い光が宿った。
その光は徐々に大きくなり、やがて巨大な槍の形を取る。
光の槍は、空間を切り裂くような鋭い輝きを放っていた。
「まずは、これなんてどう?」
言葉の軽さとはうらはらに、レイの声は氷のように冷たい。
光の槍が、一瞬で巨大化する。
長さは優に三メートルを超え、先端は針のように鋭く尖っている。
シュンッ!
光の槍が、アルドベリヒに向かって放たれた。
空気を切り裂く音。
白い光の軌跡が、空間に一直線を描いた。
槍はアルドベリヒの胸を貫いた。
完全に。
だが――
「やっぱり」
レイは冷静に呟く。
アルドベリヒの身体には、傷ひとつない。
光の槍は、まるで幻を貫いたかのように、そのまま後方の壁に消えていった。
「君は、実体じゃないんだね」
アルドベリヒは無表情のまま、レイを見据えている。
「その通りだ」
低い声が響く。
「だが、だからといって、私が何もできないと思うな」
アルドベリヒが右手を上げた。
その瞬間。
ピシッ!
空間中の光が、一斉に収束し始めた。
無数の光の粒子が、アルドベリヒの周囲に集まる。
そして、それらが鋭い刃の形を取った。
光の刃。
数十、数百という数の光の刃が、空中に浮かんでいる。
それぞれが、レーザーのような鋭い輝きを放っていた。
「へぇ、すごいじゃん」
レイが眉を上げる。
シュシュシュシュッ!
光の刃が、一斉にレイに向かって飛来する。
四方八方から、同時に。
逃げ場はない。
だが、レイは動じない。
左手を軽く振る。
瞬間、レイの周囲に光の壁が出現した。
透明な、しかし確実に存在する壁。
光の刃は、その壁に当たって砕け散る。
キンキンキンッ!
金属がぶつかり合うような音が、空間に響く。
光の破片が、宝石のように舞い散った。
「君の攻撃は、とても綺麗だ」
レイが口元に薄い笑みを浮かべる。
「でも、僕には少し刺激が足りないかな」
レイが両手を広げる。
空間の光が、突然暗転した。
いや、正確には――光が闇に変わった。
真っ黒な闇の粒子が、空間を満たしていく。
光と闇が、まだら模様を描いて混在する。
異様な光景だった。
「光を闇に変換する、か」
アルドベリヒが呟く。
「面白い発想だ」
「お褒めの言葉、ありがとう」
レイが右手を振り下ろす。
ザシュッ!
光と闇の斬撃が、同時にアルドベリヒに向かって放たれた。
白い光の刃と、漆黒の闇の刃。
ふたつの刃が、螺旋を描きながら飛んでいく。
アルドベリヒは、一歩も動かない。
だが、その身体が突然分裂した。
二体、三体、四体――
無数のアルドベリヒが、空間に現れる。
光と闇の斬撃は、分身の一体を切り裂いた。
だが、切り裂かれた分身は、光の粒子となって消えていく。
本体は、別の場所に立っていた。
「分身もするの?」
レイが舌打ちする。
「それとも、鏡像?」
「どちらでもいいだろう」
アルドベリヒの声が、四方から響く。
複数の分身が、同時に口を開いているのだ。
「お前が知るべきは、私を倒すことなど不可能、ということだけだ」
分身たちが、一斉に手を上げる。
空間が、突然鏡のように変化した。
壁も床も天井も、すべてが鏡面になる。
レイの姿が、無数に映し出される。
アルドベリヒの分身も、無数に映し出される。
どれが本物で、どれが偽物なのか、判別がつかない。
しかし、レイは動じない。
「視覚を惑わせる気? あんまり意味ないと思うけど」
その時――
ヒュンッ!
レイの背後から、光の矢が飛んできた。
鏡の死角から、突然現れた攻撃。
だがレイは振り返ることなく、その矢を左手で受け止める。
光の矢が、レイの手の中で砕け散る。
「背後からの奇襲は卑怯じゃない?」
レイが振り返る。
そこには、何もない。
ただ、鏡があるだけ。
「なるほど、鏡にはこういう使い道もあったんだね」
レイは理解した。
そして、面白いといった表情で笑った。
「それで君は、そんな小細工で僕を倒すつもりなの?」
レイが両手を合わせる。
空間の光子が、一斉に逆流し始めた。
光の粒子が、まるで時間を巻き戻すように、元の位置に戻っていく。
鏡面が消える。
分身が消える。
空間が、元の白い光に戻る。
アルドベリヒが、ひとりだけ残っていた。
「……光の粒子を逆流させたのか。確かに効果的な手段だ」
アルドベリヒが感心したような声を出す。
「だが、それでも私には届かない」
アルドベリヒが手を振る。
空間の一部が、突然歪んだ。
重力が変化し、レイの足元が不安定になる。
「君は空間の歪曲もできるの?」
レイが苦笑する。
「でも残念ながら、僕の目的は君を倒すことじゃない」
レイの瞳が、鋭く光る。
「君の本体を見つけること」
レイが右手を突き出す。
空間中の光子が、一斉に同じ周波数で振動し始めた。
共鳴現象。
光の粒子が、まるでひとつの生命体のように動く。
「情報の抽出だと?」
アルドベリヒの表情が、わずかに変わる。
「なるほど、本体への経路を探ろうというのか」
「正解」
レイがニヤリと笑う。
「君がどこにいるか、見つけ出してあげるよ」
レイの手から、無数の光の糸が伸びる。
それらの糸は、アルドベリヒの身体に絡みつく。
情報を抽出するための、見えない杭。
アルドベリヒの身体が、わずかに震える。
「……なかなか、やるな」
その声に、少しの感情が混じる。
「だが、私に届くことはない」
漆黒の甲冑から迸る白光が、空間を歪ませながら収束する。
直径十メートルの太陽が出現した。
その中心温度は恒星の核融合反応を遥かに凌駕する。
「え、マジで? すごいことするね、君」
レイの声が、ほんの少し焦りを帯びた。
とっさに右手をかざす。
光の粒子が逆回転を始めた。
周囲の温度が指数関数的に低下し、青白い霜が空中に浮かび上がる。
絶対零度の領域が、灼熱の太陽を飲み込もうとする。
ふたつの極限が触れた瞬間。
キィィィン!
金属を引き裂くような高周波が空間を貫いた。
衝突点が光を吸い込み、虹色の亀裂が走る。
その亀裂から無数の光の結晶が噴出し、互いに衝突して新たな微小ブラックホールを生成する。
突如、アルドベリヒが纏う甲冑の表面が氷結し、同時に内部から炎が噴き出した。
灼熱と絶対零度が交わった、その狭間で生じた必然。
誰も触れてはならない領域。
量子真空の沸騰――
それはまるで宇宙そのものが崩壊し、異次元に飲み込まれるほどの力。
光と闇が煮え立つように爆ぜ、空間が剥がれていく。
「チッ――」
レイは素早く後退した。
眼前で、光の結晶が爆発的な閃光を放ちながら、負の温度領域を形成する。
熱エネルギーが逆流し、アルドベリヒそのものが燃料となって増幅され始めた。
「やはり、イレギュラーの力は侮れない」
甲冑から漏れる声には、驚嘆の響きが混じっていた。
彼の身体が光の粒子に分解され始める。
「だが、お前は打つ手を間違えた」
剥がれた空間の亀裂を通じて、アルドベリヒはすでに本体への情報転送を完了させていた。
幻影が自爆するように輝き、レイの視界を光で満たす。
「私は去る。イレギュラーよ、いずれまた会おう」
残響だけが残り、光の檻に静寂が戻った。
レイは、一人で立っていた。
「……あーあ、逃しちゃったか」
レイが拳を握りしめる。
そこにはもう、アルドベリヒの気配はない。
「でも、次は思い通りにはさせない」
レイの瞳が、不敵に光った。
「必ず、ヤツの本体を見つけ出す」
ひとつの戦いは終わった。
真の戦いは、これから始まる。