第93話 荒野の取引
夕暮れの荒野。
地平線の彼方、空気が歪んで見える場所。
ヴォイドクレイドルの見えない壁が、陽炎のように揺らめいている。
ジークは岩陰に身を潜めていた。
手のひらで、結衣の赤石と青石を転がしていた。
カチリ、カチリと小さな音が響く。
石の表面は滑らかで、ほんのり温かい。
結衣の温もりが、まだ残っているような気がした。
その時だった。
遠くから、馬の蹄の音が近づいてくる。
規則正しいリズム。
一頭だけだ。
ジークは身を低くする。
岩の隙間から、音の方向を見つめた。
現れたのは、黒い甲冑に身を包んだ騎士。
漆黒の馬にまたがり、ゆっくりとこちらに向かってくる。
夕日を背負ったその姿は、まるで死神のようだ。
冥将軍アルドベリヒ。
ジークは舌打ちする。
厄介な奴が現れた。
手のひらの小石を懐にしまいこむ。
馬は砂を蹴り上げながら、ジークの前で止まる。
砂埃が舞い上がり、鉄の匂いが鼻をついた。
アルドベリヒは馬上からジークを見下ろし、皮肉げな声で語りかける。
「まだ諦めていないのか、少年」
その声は低く、どこか嘲るような響きがあった。
「その執念だけは、見上げたものだ」
ジークはアルドベリヒを一瞥して、吐き捨てるように言った。
「……てめぇに用はねぇ。失せろ」
アルドベリヒは笑う。
甲冑がカチャリと音を立てた。
「相変わらずだな。だが、勝算はあるのか?」
「失せろと言ったはずだが、聞こえなかったか?」
ジークはスクラマサクスを抜く。
刃が夕日を反射し、オレンジ色に光った。
アルドベリヒは馬から降りる。
「以前も言った通り、君に敵意はない、少年」
重い甲冑が、砂を踏みしめる音。
ジークとの距離を詰めながら、ゆっくりと歩いてくる。
足音が、ザクザクと乾いた音を立てた。
「私は自分の脅威を排除したい。それだけだ」
「偽の冥将軍が偽の魔王と内ゲバか」
ジークの表情が侮蔑で歪む。
「お前らで勝手にやってろ。オレを巻き込むな」
「君にどう理解されようと構わない」
アルドベリヒは肩をすくめる。
「だが私たちの目的は、案外近いところにあるのではないか?」
ジークがアルドベリヒを睨みつける。
「……何が言いたい?」
「君は娘を取り戻したい」
アルドベリヒが一歩近づく。
「私は君に協力できるかも知れない」
ジークは鼻で笑った。
「協力? 利用の間違いだろ」
「言い方などどうでもいい」
アルドベリヒがまた一歩近づく。
甲冑の隙間から、冷たい視線が覗いていた。
「君も私を利用できる。そうだろう?」
ジークは警戒を解かない。
スクラマサクスの柄を握り直す。
「……何が狙いだ?」
「わずかの間、魔王に隙を作ってほしい」
アルドベリヒが切り出す。
「その隙をついて、私がヴォイドクレイドルの内部に侵入する」
ジークは疑いの眼で睨みつけた。
「そんなことができるとは思えねぇな」
「ヴォイドクレイドルの壁は、外からの力では破れない。だが内側からなら、話は別だ」
「内側だと?」
ジークが眉をひそめる。
「君が持っているその娘の石が、特別な力を秘めていることは知っているだろう」
アルドベリヒの視線が、ジークの懐に向けられた。
結衣が残した、赤と青の小石。
「ヴォイドクレイドルの内側にその石の気配を流せば、娘は必ず動き、魔王に隙ができる」
「……胡散臭ぇな。方法は?」
「ふたつの月が重なる今夜、全ての魔力は増大する」
アルドベリヒが空を見上げる。
うっすらと、ふたつの月の影が見えていた。
「その小石も、わずかだが存在感を放つ。月が中天に達した瞬間に、壁に向かって石を投げろ。娘にも、その気配が届く筈だ」
ジークの視線が鋭く光る。
「……お前、何を知っている? 何を企んでいる?」
「君が知る必要はない」
アルドベリヒが冷たく答える。
「娘を取り戻したければ、取り得る選択肢はそう多くない」
「……結衣の安全を保証するものは?」
「私は娘に興味はない」
アルドベリヒが断言する。
「さっさと連れて逃げろ。娘の無事は君の実力と覚悟次第だ」
ジークの拳が震えた。
「……オレが、お前の思い通りに動くとでも?」
「他に手立てがあるかどうか、よく考えてみるといい」
アルドベリヒの声に、わずかな嘲笑が混じった。
ジークは無言で睨みつける。
その眼差しに、怒りと迷いが入り混じる。
ふたりの間に、重い沈黙が流れた。
甲冑がカチャリと音を立てる。
遠くで、夜鳥が鳴いた。
「君が決断するか、しないかだけだ」
アルドベリヒは静かに言った。
そして、踵を返す。
馬に跨り、手綱を引いた。
馬は砂を蹴り上げながら、闇の中へ消えていく。
蹄の音が、次第に遠ざかっていった。
ジークはその後ろ姿を、いつまでも睨みつけている。
やがて、アルドベリヒの姿は完全に見えなくなった。
荒野に、再び静寂が戻る。
ようやく戦闘体制を解いたジークは、懐の赤石と青石を強く握りしめた。
結衣の温もりを、確かめるかのように。
「……利用できるものは、何でも使う」
ジークが呟く。
その声は、獣の唸りのように低かった。
空を見上げる。
ふたつの月が、少しずつ近づいている。
ジークの眼が、闇の中で獣のように光る。
諦めることを知らない執念。
結衣を取り戻すためなら、悪魔とでも手を組む覚悟。
それらが、ジークの心を支配していた。
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夜が深くなる。
重なる月の光が、荒野を銀色に染めていく。
ジークは岩陰に身を潜め、時を待った。
手の中の石が、微かに光を放っているような気がする。
(結衣、必ずお前を取り戻す――)
その想いだけが、ジークを突き動かす。
遠くで、夜鳥が鳴いた。
その声は、どこまでも悲しく響いていた。