第92話 シミュレーションの世界
風が頬を撫でていく。
カフェテラスの心地よい空気の中、レイは静かに口を開いた。
「じゃあ、話を始めようか」
結衣はベリータルトのフォークを置く。
レイの表情が、真剣になる。
「僕たちがこの世界に呼ばれた理由は、まだわからない。でもこの世界の正体なら、おおよそ見当がついている」
レイがアイスティーを一口飲む。
氷がカランと音を立てた。
「この世界の正体は、おそらく誰かに作られた、小規模なシミュレーション世界だと思う」
「シミュレーション世界? 何それ」
結衣が首をかしげる。
聞き慣れない言葉だ。
「コンピュータやシミュレーション装置の中に作られた、人工的な世界だよ」
レイが説明する。
「ゲームの世界みたいなものかな。でも、もっと精巧で、リアルに作られている。一番の特徴は、何らかの目的をもって、意図的に作られた世界、ということ」
「ゲームの世界? 私たち、ゲームの中にいるってこと?」
確かに、この世界はどこかゲームっぽい。
レイは続ける。
「三年間実際に歩いてみて、この世界のサイズが小さすぎることに、僕は気づいた」
そして、結衣にも分かりやすく説明してくれた。
「僕たちの元いた世界はもっと広大だよね。地球はとても広いし、さらに外には銀河や宇宙がある。でもここは、世界と呼ぶには狭過ぎる。まるで何かの実験や観察に最適なサイズに調整されてるみたいだ」
結衣は想像した。
確かにこれまで冒険してきたこの世界は、地球に比べれば遥かに狭い。
「それに、人種や文明のバリエーションがない。代わりに、亜人種や知的モンスターが存在する」
「確かに!」
結衣が声を上げる。
「人も言葉もみんな同じだけど、獣人とかエルフとかはいるもんね」
「うん。意図はわからないけど、この世界はそういうふうに『作られている』んだと思う」
「さっきも言ったけど、ゲームのファンタジーみたいな世界だよね」
結衣はそこだけ納得したように言った。
レイが微笑む。
「まあ、その理解で構わないよ」
結衣はストロベリーラテを飲む。
甘い味が口の中に広がった。
「で、不可解なのは」
レイが考え込む。
「僕たちの世界と同じように、この世界にも『魔法』がない。だけど僕たち異世界人は『魔法』を使える。つまり、物理法則の上書きができるということだ」
レイは指先に、小さな光を灯した。
「意図したものかどうかはわからないけど、これは僕たちが呼ばれた謎を解く『鍵』になるんじゃないかと、僕は考えてる」
結衣は自分の手のひらを見つめる。
「確かにレイはすごいよねー。なんでもできて。こんなオシャレなカフェまで作っちゃって」
結衣が少し羨ましそうに言う。
「私なんて、小石がないと魔法も使えないよ。しかもショボい攻撃魔法だけだし」
レイは結衣に質問した。
「そういえば君は、どうやってこの世界に来たの?」
結衣は思い出す。
この世界に来た日のことを。
マッチングアプリで出会った、怪しいイケメン。
「蒼っていう男の人に連れてこられたの」
結衣は遠い目をする。
「蒼は自分のこと、神様だって言ってた。この世界に来てすぐに、力が使えないからって青い鳥になって。それからずっと一緒にいたんだよ」
結衣は空を見上げる。
青い鳥の姿は、どこにも見えない。
「そういえば蒼、いまどうしてるのかな……」
「待って」
レイの表情が変わった。
身を乗り出す。
「君の話が本当なら、その『蒼』って奴は、この世界と元の世界を自由に行き来できるんだよね」
「そう……なのかな?」
「そいつを探し出せば、君を元の世界に帰す方法、ほぼ解決するんじゃない?」
結衣はハッとした。
だが、すぐに首を横に振る。
「蒼は私にしか見えないんだ……レイひとりで探すのはたぶん無理だよ」
「それは君と一緒にいた間の話だよね」
レイは指摘する。
「君と離れた今、そいつは自分の姿を隠す必要があるのかな?」
結衣は考え込むような顔をした。
「でも蒼は、この世界では神の力を使えないから鳥になったって……」
「それはおかしい」
レイは首を横に振る。
「元の世界から君を連れてこられるほどの力を持っていて、この世界で僕にも存在を一切悟らせなかったのに、力が使えないっていうのは不自然だ」
疑念が込められた声。
「力がないから鳥になるって意味もよくわからない。むしろ存在を隠したいから変身したって方がよほど納得できる」
そして結衣に質問した。
「いずれにしろ、そいつの言ってることを鵜呑みにはできないね。そいつ、他にも何か言ってなかった?」
「うん、『魔王』を倒せば元の世界に帰れるって。ちょっと胡散臭かったけど。それにレイのことすごく嫌ってて、絶対近づくなって……」
「……そう、なるほどね」
それを聞いて、レイはいろいろと腑に落ちたようだった。
その反応に、結衣の目が見開かれる。
「えっ、もしかして……じゃあ私、今までずっと蒼に騙されてたってこと?」
結衣の声が上ずる。
「あんのクソ鳥……! やっぱり唐揚げにしとくんだった!!」
結衣が拳でテーブルをドンと叩く。
頬が怒りで赤くなった。
「まあ、実際のところは、直接そいつに聞いてみないとわからないけど」
レイが苦笑する。
「ただ今のところ、最も重要な手掛かりであることは確かだ。探してみるよ」
「待って! またひとりで行くの!?」
結衣は慌てた。
さっきの不安が蘇る。
「大丈夫、君を不安にはさせないよ」
レイは結衣の手を取った。
「君を絶対ひとりにはしない。さっき約束したからね」
その手を優しく握る。
「それに、そいつを探すのにわざわざ外に出る必要はないよ。ここからでも、見ようと思えば僕にはこの世界のどこでも見えるから」
「えっ!?」
結衣は驚いて身を乗り出す。
「レイのチートってすご過ぎない!? レイの方がよっぽど神様だよ!」
「ただ向こうも僕に察知されないよう、これまで以上に気配を隠して行動するだろうね」
レイが真剣な表情に戻る。
「今までこの僕を欺き続けていたんだ。相当手強いと見て間違いない」
パラソルが軽く揺れた。
「じゃあ、どうやって蒼を探すの?」
「それについては、ちょっと考えがある」
レイが立ち上がる。
そして不敵な笑みを浮かべた。
「そいつのことは、僕に任せてくれないかな」
そこにいるのは、全てに飽きた無気力青年などではない。
世界に挑戦しようとする者の姿だった。
「……わかった。レイを信じるよ」
結衣は、頷いた。
ふたりの間に、新しい風が吹いた気がした。