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第91話 スイーツなひと時

 空間が歪んだ。

 まるで水面に石を投げ込んだように、リビングの空気が波打つ。


 次の瞬間、レイが現れた。

 霧のように薄れていた輪郭が、徐々にはっきりとしてくる。


「ただいま」


 気の抜けた声。

 いつもの無表情、いつもの無気力な調子。

 だが、結衣の心には安堵が広がった。


「レイ!」


 結衣は駆け寄る。

 スリッパの音がフローリングに響いた。


「どこ行ってたの!? 心配したんだからね! もう!」


 結衣は頬を膨らませる。

 その仕草は、まるで怒った子供のようだ。

 レイは驚いたように目を見開いた。


「心配? してくれてたの? 僕を?」


 結衣の言っている意味が、レイにはうまく飲み込めなかった。

 神にも匹敵するチート持ちで不死身の自分を、心配する必要なんてどこにもないのに。


「当たり前でしょ!」


 結衣が即答する。


「レイだって大事な友達なんだから!」


「友達……?」


 大事な、友達……?

 だから、心配してくれたの……?


 レイはますます結衣の言葉に驚く。

 やがて、その意味を把握する。


 口元が緩むのを、抑えきれなかった。

 思わず、ふふ、と小さな笑い声が漏れる。


 そして、レイの胸の奥で、理解できない感情が爆発した。

「……ふっ、あはははははははっ!」


 どうしてだろう、笑いが止まらない。

 まさか、自分が心配されていたなんて。


 ただそれだけのことで、どうしてこんなに笑っているのか、自分でもわからない。

 ただ、胸の奥がじんわりと温かくなって、止められなかった。


 レイは笑いながら、思わず目を細め、胸を押さえる。

 こんな感情、初めてだった。


 レイは天を仰いで笑い続ける。

 いつもの無気力青年の面影は、どこにもない。

 子供のように感情を開けっぴろげにして無邪気に笑う青年が、そこにいた。


 結衣はぽかんと口を開けてレイを見た。


「え、ちょっとレイ、どうしちゃったの? 私、なんか変なこと言った?」


 ひとしきり笑うと、レイは涙を拭って結衣を見た。

 優しい眼差しで、結衣の頭を撫でる。


「……そっか、心配させてごめんね」


 そして、見たこともないような笑顔を見せた。


「もう君を不安にさせるようなことはしないから」


 結衣の表情が、少し和らいだ。


「もー、びっくりしたよ。レイがあんなに大笑いするなんて。それで、何があったの?」


 結衣が心配そうに尋ねる。


「大したことはないよ、ちょっと厄介ごとを片付けてきただけ」


「厄介ごとって?」


「君が不安に思うようなことは何もないよ、大丈夫」


 レイは結衣の髪に触れ、優しく指を通した。


「分かった……」


 結衣は気が抜けたように返事する。

 さっきのレイの笑いで、完全に毒気を抜かれてしまった。


 結衣は話題を変える。

 

「この世界を調べるって言ってたけど、何か分かったこと、ある?」


「うん。説明するから、ちょっと気分を変えようか」


「え、どこ行くの?」


 レイが指を鳴らす。

 パチンという小さな音が響いた。


 その瞬間、世界が変わった――


 マンションのリビングが消え去る。

 壁も天井も、すべてが溶けるように消えていく。


 代わりに現れたのは、オシャレなカフェのオープンテラスだった。

 青い空が広がっている。

 白い雲がゆっくりと流れていく。


 パラソルが日差しを遮り、風が頬を優しく撫でていく。

 鳥のさえずりが遠くから聞こえ、花の香りが鼻をくすぐった。


 服装まで変わっている。

 結衣は水色のワンピースと白いカーデに身を包み、レイはシンプルなグレーのシャツに細身の黒いパンツを合わせていた。


 そして、結衣の前にはピンクのストロベリーアイスラテ。

 泡立てたミルクの上に、いちごのシロップがハート型に描かれている。

 グラスの縁には、砂糖でコーティングされたいちごが飾られていた。


 レイの前には涼しげなアイスティー。

 氷がカランと音を立て、ミントの葉が浮かんでいる。

 レモンのスライスが、グラスの縁に挟まれていた。


 テーブルの中央には、色とりどりのスイーツ。

 きれいに並べられた、パステルカラーのマカロンたち。

 チョコレートがかけられ、白いクリームを挟んだ小さなエクレア。

 カスタードプリンは、表面がカラメル色に輝いている。

 ティラミスの小さなカップからは、コーヒーの香りが漂ってくる。

 その隣には、ベリーのたっぷり乗ったタルトが置かれていた。

 どれも宝石のように美しく、見ているだけで心が躍る。


「なにこれ、すごい!」


 結衣は目をキラキラさせる。


「こんなこともできるの、レイ!?」


 結衣は興奮して辺りを見回す。

 オシャレなカフェの雰囲気。

 可愛らしいスイーツ。

 全てが夢のようだ。


 結衣はマカロンに手を伸ばす。

 ピンクの小さなお菓子を、そっと口に運んだ。


 サクッ。


 軽やかな音が響く。

 甘いアーモンドの香りが、口の中に広がった。


「んー! 美味しい!」


 結衣が感激する。

 子供のような笑顔は、太陽よりも眩しい。

 レイは幸せそうに、ずっとその様子を見つめていた。


「他にも行きたいところがあれば、連れていってあげるよ」


「本当に?」


 結衣の目が輝く。


「どこでも?」


「どこでも」


 レイは笑顔で頷く。


 結衣はストロベリーラテに口をつける。

 甘いいちごの香りと、まろやかなミルクの味が舌を包んだ。


「美味しい……」


 結衣が幸せそうに呟く。


 レイもアイスティーを飲む。

 爽やかなミントの香りが鼻を抜け、レモンの酸味が口の中をさっぱりとさせた。


 風がそよぎ、パラソルが軽く揺れる。

 遠くで教会の鐘が鳴った。

 平和で、穏やかな午後のひととき。

 結衣の髪が揺れて、甘い香りが漂う。


 レイは結衣を見つめた。

 彼女がいる、この空間がとても温かい。


(こんな時間が、ずっと続けばいいんだけどな……)


 そんな思いが、レイの心を満たす。


 結衣はエクレアに手を伸ばす。

 口の端にクリームが付くが、気づいた様子はない。

 レイは手を伸ばし、ナプキンでそっと結衣の口元を拭いた。


「あっ……」


 結衣が恥ずかしそうに笑う。


「ありがとう、レイ……」


 その笑顔に、レイの心も温かくなる。


 結衣はカスタードプリンをスプーンですくう。

 なめらかな食感と、優しい甘さ。

 カラメルのほろ苦さが、甘みを引き立てている。


「ねぇ、レイ」


 結衣がプリンを口に運ぶ。


「異世界に来てずっと忘れてたけどさ。こういう平和な時間、すごく大切なんじゃないかな」


 レイが結衣を見つめる。


「大切?」


「うん。一緒にお茶して、美味しいものを食べて、のんびり話をする時間」


 風が運んでくる花の香り、鳥のさえずり、遠くの街の音。

 全てが穏やかで、心地よい。


 結衣はティラミスに手を伸ばした。

 コーヒーの苦みとマスカルポーネの甘み。

 ココアパウダーの香りが鼻をくすぐる。


「レイはさ、カフェとかよく行ってたの? 元の世界で」


 レイは頷いた。


「うん、行ってたよ。ひとりで時間を過ごすには、うってつけの場所だからね」


 そして続けた。


「だから、君と一緒だと、なんだか新鮮」


 結衣は少し驚いた顔をする。

 そして、無邪気に笑った。


「じゃあ、また一緒に来ようよ!」


 その言葉に、レイの心が再び揺れた。

 また、一緒に来てくれる。

 そう言ってくれた。


「そうだね」


 レイは穏やかに頷いた。


 結衣はベリータルトを一口食べる。

 甘酸っぱいベリーと、サクサクのタルト生地。

 カスタードクリームがまろやかで、口の中で溶けていく。


「ああ、幸せ過ぎる……」


 結衣が目を細める。


 その表情を、レイはいつまでも見ていた。

 結衣が幸せだと、自分も幸せになれる――

 そんなことを、レイはぼんやりと考えていた。


 風が吹く。

 木々の葉がさらさらと音を立てる。

 遠くで鳥が鳴いていた。


 ふたりだけの、特別な空間。

 甘いスイーツと、温かい気持ちに包まれて、レイはもう少しだけ、この時間を楽しみたかった。

 結衣と一緒にいる、この幸せな時間を。

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