第90話 路地裏の少年
暗闇の中、ジークは夢を見ていた――
月も星もない、物乞いと盗賊が蠢くラグナスの路地裏。
吹き込む風は、痩せた体を骨の髄まで冷やす。
遠くで犬が吠え、どこかで誰かが泣いている。
腐ったゴミの匂い。
濁った水たまり。
鉄と血の混じった空気。
幼いジークが、膝を抱えて座っている。
背中には、年老いた男の、大きな手の温もり。
「寒いか?」
低く、しわがれた声。
男が古びたマントをジークの肩にかける。
「……平気だ、ハラン」
ジークは強がって答えた。
ハランは笑う。
「強がりもいいが、風邪はひいてくれるなよ。血の繋りはなくても、お前はワシの自慢の子だ」
焚き火の炎が、ふたりの顔を照らす。
深いシワがいくつも刻まれたハランの顔は、どこか優しい。
ジークは俯いたまま尋ねる。
「なあ、ハラン。どうしてオレを拾った?」
「お前は生きることを諦めていなかった。ただそれだけだ」
ハランはジークの肩を抱く。
筋肉質なその腕は、ごつごつしていて温かい。
「生きるってのは、簡単じゃない。だがな、ジーク。生き抜いた奴だけが、何かを変えられる」
「……オレにも、できるかな」
「できるさ、お前は強い。だが、強さを履き違えるなよ。誰かを傷つける力は、ただの暴力だ」
ジークはその言葉を、胸の奥に刻み込んだ。
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その夜、路地裏は異様な雰囲気に包まれていた。
怒号、足音、鉄のきしみ。
ギャングたちが現れた。
その数、ざっと数十人。
ハランの顔が、険しくなる。
「来たか……」
ジークの心臓が跳ねた。
ギャングのリーダーがハランを指差す。
「ようハラン。あの時は俺たちを痛い目に合わせてくれたよなぁ?」
手下たちが下卑た笑い声を上げる。
「なんだよ、老いぼれジジイじゃねーか!」
「ギャハハハハハ!」
ハランは立ち上がる。
震えるジークを背後にかばう。
「確かにワシは見ての通りの老いぼれだが、そう腕は鈍っちゃおらんぞ。お前らのうちの何人かは今夜、地獄を見るだろうさ」
そして小声でジークにささやく。
「ジーク、お前は逃げろ。絶対に振り返るな」
「でも、ハラン!」
「いいから行くんだ!」
ギャングのリーダーがニヤリと笑う。
「相変わらずの減らず口だな、ハラン。だが今夜は借りを返させてもらうぜ。お前ら、やれ!」
ジークは走った。
だが、背後で響く怒号と殴打の音が、耳に焼き付く。
振り返ると、ハランがギャングたちに囲まれていた。
鉄棒、ナイフ、鈍器。
それらが全て、ハランに向けられる。
ハランは一人で十人以上を相手にしていた。
その動きは、老いた体とは思えないほど鋭い。
拳が唸り、敵の顎を砕く。
足払いで二人を転がし、ナイフを持つ手を肘で砕く。
「この野郎……!」
ギャングたちが叫ぶ。
ハランは全く怯まない。
「どうした! 群れることしかできんクズどもが!」
怒号と悲鳴が交錯する。
血が飛び、骨の折れる音が響く。
しかし、数の暴力は容赦がなかった。
ハランの肩に、鉄棒が叩きつけられる。
「うぐっ……!」
直後、膝を蹴られ、ハランが地面に倒れる。
「やめろ!」
ジークが叫んだ。
だが、怒声の中でその声は届かない。
ギャングのリーダーが、倒れたハランの頭を踏みつける。
「老いぼれが正義ヅラしやがって……これが現実だ!」
ハランは顔を上げ、血まみれの口元で不敵に笑った。
「現実を変えるのは、決して諦めない奴だけだ……」
「寝言は地獄でほざけ!」
リーダーがナイフを振り上げる。
ジークは叫んだ。
「やめろおおおおお!!」
だが、ナイフは振り下ろされた。
ハランの体が、動かなくなった。
ジークは茫然と立ち尽くした。
ハランの死体を踏みつけるギャングたち。
その中で、ギャングのリーダーがジークを見つける。
「おいガキ、お前もこうなりたいか?」
ジークは逃げた。
血の匂い、泥の冷たさ、心臓の鼓動。
全身が震えた。
背後からリーダーの高笑いが聞こえる。
だが、ジークは泣かなかった。
涙は、もう出なかった。
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ギャングたちは、ハランの死で調子づいたようだった。
徒党を組んで平然と強盗や略奪を繰り返し、弱い者たちに暴力を振るい始めた。
人々は慄いた。
だが、その陰で復讐の牙を研ぐ子供がいた。
ジークだ。
ハランの死後、ジークはひとりで生き抜いた。
誰も信じなかった。
誰にも頼らなかった。
ただ黙々と、己を鍛え続けた。
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数年が過ぎた。
少年に成長したジークは『狩り』を始めた。
闇に紛れてギャングを背後から殴り倒し、ダガーを首筋に突きつける。
「……ハランを覚えているか?」
ジークの声は低く、冷たい。
「知らん……! 助けてくれ! 頼む!」
ギャングが怯えた声を上げる。
「……お前はハランを助けたか?」
「…………!!」
ジークはダガーを引く。
血飛沫が舞い、声もなくギャングは崩れ落ちた。
仲間を殺されたギャングたちは、最初こそ怒り狂ってジークを探した。
だが仲間の数がひとり、またひとりと減るにつれ、次第に彼を恐れ始めた。
ジークはギャングたちを相手に、容赦なく復讐を続けた。
ジークの仕返しは、徹底的だった。
もう復讐など、考える気すらも起こさせないように。
「ジークに恨まれたら終わりだ」
「奴は狂ってやがる」
「アイツには決して手を出すな」
そんな噂がラグナス中を飛び交った。
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そして、ついにその夜がきた。
ジークはギャングのアジトに乗り込んだ。
かつてハランを殺したリーダーとその取り巻きが、酒を飲み騒いでいた。
ドゴッ!
ジークは無言で扉を蹴破った。
ギャングたちは驚き、武器を手に取る。
「ガキが! ひとりで何しに来た!」
ギャングのひとりが飛びかかってきた。
だが、ジークはそれをいとも簡単にかわす。
そして、相手の腹を拳でしたたか殴りつけた。
「ゴフッ……!」
ギャングが血を吐いて倒れる。
さらにもうひとりがナイフで切りかかる。
ジークは身をひねり、その腕を掴んでへし折った。
「アギャアアアッ! 痛ぇ! 痛ぇよぉ!」
ナイフを取り落としたギャングの悲鳴が響く。
「……おいおい、ハランはそんな情けねぇ声は出さなかったぜ」
ジークは鼻で笑う。
「ふざけやがって! やっちまえ!」
ギャングたちは一斉にジークへと飛びかかった。
だがジークは俊敏な動きで攻撃をかわし、反撃する。
拳が鳴る。
骨が砕ける。
血が飛び散る。
あっという間に、取り巻きたちのほとんどが倒された。
リーダーの顔色が変わる。
「……オメェ、あん時のガキか。あの場で始末しておくんだったぜ」
リーダーが鉄棒を振り上げる。
ジークは床を転がり、足払いで倒す。
ガンッ! ゴンッ!
鉄棒を奪い、リーダーの顔面に叩きつける。
何度も、何度も。
「……これが現実だ、そうだろ?」
言葉は返ってこない。
リーダーはとっくに意識を失っていた。
残ったギャングたちは、這うように逃げ出した。
ジークは一人立ち尽くす。
血まみれの拳が微かに震えていることに、ジークはようやく気がついた。
ハランの仇を討ったはずなのに、心は空っぽだった――
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夢が終わる。
ジークは焚き火の明かりで目を覚ました。
いつの間にか、あの銀髪の青年の姿は消えていた。
カインとミリアが、焚き火のそばで身を寄せ合って眠っている。
よほど消耗したのだろう。
ミリアの頬には、涙の跡がくっきりと残っていた。
ジークはふたりを見つめた。
胸の奥が、冷たく締めつけられる。
「……すまない。オレ個人の問題に、これ以上お前たちを巻き込めない」
荷物をまとめ、そっと立ち上がる。
焚き火の炎が、ジークの影を長く伸ばす。
カインとミリアの、安らかな寝息。
ジークはふたりに背を向け、夜の闇へと歩き出す。
誰にも気づかれぬよう、音を立てずに。
「お前たちと出会えて良かった。だから、ここでお別れだ」
ジークの姿は、闇に溶けて消えた。