表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
90/97

第90話 路地裏の少年

 暗闇の中、ジークは夢を見ていた――


 月も星もない、物乞いと盗賊が蠢くラグナスの路地裏。

 吹き込む風は、痩せた体を骨の髄まで冷やす。

 遠くで犬が吠え、どこかで誰かが泣いている。


 腐ったゴミの匂い。

 濁った水たまり。

 鉄と血の混じった空気。


 幼いジークが、膝を抱えて座っている。

 背中には、年老いた男の、大きな手の温もり。


「寒いか?」


 低く、しわがれた声。

 男が古びたマントをジークの肩にかける。


「……平気だ、ハラン」


 ジークは強がって答えた。

 ハランは笑う。


「強がりもいいが、風邪はひいてくれるなよ。血の繋りはなくても、お前はワシの自慢の子だ」


 焚き火の炎が、ふたりの顔を照らす。

 深いシワがいくつも刻まれたハランの顔は、どこか優しい。

 ジークは俯いたまま尋ねる。


「なあ、ハラン。どうしてオレを拾った?」


「お前は生きることを諦めていなかった。ただそれだけだ」


 ハランはジークの肩を抱く。

 筋肉質なその腕は、ごつごつしていて温かい。


「生きるってのは、簡単じゃない。だがな、ジーク。生き抜いた奴だけが、何かを変えられる」


「……オレにも、できるかな」


「できるさ、お前は強い。だが、強さを履き違えるなよ。誰かを傷つける力は、ただの暴力だ」


 ジークはその言葉を、胸の奥に刻み込んだ。


---


 その夜、路地裏は異様な雰囲気に包まれていた。

 怒号、足音、鉄のきしみ。


 ギャングたちが現れた。

 その数、ざっと数十人。

 ハランの顔が、険しくなる。


「来たか……」


 ジークの心臓が跳ねた。

 ギャングのリーダーがハランを指差す。


「ようハラン。あの時は俺たちを痛い目に合わせてくれたよなぁ?」


 手下たちが下卑た笑い声を上げる。


「なんだよ、老いぼれジジイじゃねーか!」


「ギャハハハハハ!」


 ハランは立ち上がる。

 震えるジークを背後にかばう。


「確かにワシは見ての通りの老いぼれだが、そう腕は鈍っちゃおらんぞ。お前らのうちの何人かは今夜、地獄を見るだろうさ」


 そして小声でジークにささやく。


「ジーク、お前は逃げろ。絶対に振り返るな」


「でも、ハラン!」


「いいから行くんだ!」


 ギャングのリーダーがニヤリと笑う。


「相変わらずの減らず口だな、ハラン。だが今夜は借りを返させてもらうぜ。お前ら、やれ!」


 ジークは走った。


 だが、背後で響く怒号と殴打の音が、耳に焼き付く。

 振り返ると、ハランがギャングたちに囲まれていた。

 鉄棒、ナイフ、鈍器。

 それらが全て、ハランに向けられる。


 ハランは一人で十人以上を相手にしていた。

 その動きは、老いた体とは思えないほど鋭い。

 拳が唸り、敵の顎を砕く。

 足払いで二人を転がし、ナイフを持つ手を肘で砕く。


「この野郎……!」


 ギャングたちが叫ぶ。

 ハランは全く怯まない。


「どうした! 群れることしかできんクズどもが!」


 怒号と悲鳴が交錯する。

 血が飛び、骨の折れる音が響く。


 しかし、数の暴力は容赦がなかった。

 ハランの肩に、鉄棒が叩きつけられる。


「うぐっ……!」


 直後、膝を蹴られ、ハランが地面に倒れる。


「やめろ!」


 ジークが叫んだ。

 だが、怒声の中でその声は届かない。

 ギャングのリーダーが、倒れたハランの頭を踏みつける。


「老いぼれが正義ヅラしやがって……これが現実だ!」


 ハランは顔を上げ、血まみれの口元で不敵に笑った。


「現実を変えるのは、決して諦めない奴だけだ……」


「寝言は地獄でほざけ!」


 リーダーがナイフを振り上げる。

 ジークは叫んだ。


「やめろおおおおお!!」


 だが、ナイフは振り下ろされた。

 ハランの体が、動かなくなった。


 ジークは茫然と立ち尽くした。

 ハランの死体を踏みつけるギャングたち。

 その中で、ギャングのリーダーがジークを見つける。


「おいガキ、お前もこうなりたいか?」


 ジークは逃げた。

 血の匂い、泥の冷たさ、心臓の鼓動。

 全身が震えた。


 背後からリーダーの高笑いが聞こえる。

 だが、ジークは泣かなかった。

 涙は、もう出なかった。


---


 ギャングたちは、ハランの死で調子づいたようだった。

 徒党を組んで平然と強盗や略奪を繰り返し、弱い者たちに暴力を振るい始めた。

 人々は慄いた。


 だが、その陰で復讐の牙を研ぐ子供がいた。

 ジークだ。


 ハランの死後、ジークはひとりで生き抜いた。

 誰も信じなかった。

 誰にも頼らなかった。

 ただ黙々と、己を鍛え続けた。


---


 数年が過ぎた。

 少年に成長したジークは『狩り』を始めた。


 闇に紛れてギャングを背後から殴り倒し、ダガーを首筋に突きつける。


「……ハランを覚えているか?」


 ジークの声は低く、冷たい。


「知らん……! 助けてくれ! 頼む!」


 ギャングが怯えた声を上げる。


「……お前はハランを助けたか?」


「…………!!」


 ジークはダガーを引く。

 血飛沫が舞い、声もなくギャングは崩れ落ちた。


 仲間を殺されたギャングたちは、最初こそ怒り狂ってジークを探した。

 だが仲間の数がひとり、またひとりと減るにつれ、次第に彼を恐れ始めた。

 ジークはギャングたちを相手に、容赦なく復讐を続けた。


 ジークの仕返しは、徹底的だった。

 もう復讐など、考える気すらも起こさせないように。


 「ジークに恨まれたら終わりだ」

 「奴は狂ってやがる」

 「アイツには決して手を出すな」


 そんな噂がラグナス中を飛び交った。


---


 そして、ついにその夜がきた。


 ジークはギャングのアジトに乗り込んだ。

 かつてハランを殺したリーダーとその取り巻きが、酒を飲み騒いでいた。


 ドゴッ!


 ジークは無言で扉を蹴破った。

 ギャングたちは驚き、武器を手に取る。


「ガキが! ひとりで何しに来た!」


 ギャングのひとりが飛びかかってきた。

 だが、ジークはそれをいとも簡単にかわす。

 そして、相手の腹を拳でしたたか殴りつけた。


「ゴフッ……!」


 ギャングが血を吐いて倒れる。

 さらにもうひとりがナイフで切りかかる。

 ジークは身をひねり、その腕を掴んでへし折った。


「アギャアアアッ! 痛ぇ! 痛ぇよぉ!」


 ナイフを取り落としたギャングの悲鳴が響く。


「……おいおい、ハランはそんな情けねぇ声は出さなかったぜ」


 ジークは鼻で笑う。


「ふざけやがって! やっちまえ!」


 ギャングたちは一斉にジークへと飛びかかった。

 だがジークは俊敏な動きで攻撃をかわし、反撃する。


 拳が鳴る。

 骨が砕ける。

 血が飛び散る。


 あっという間に、取り巻きたちのほとんどが倒された。

 リーダーの顔色が変わる。


「……オメェ、あん時のガキか。あの場で始末しておくんだったぜ」


 リーダーが鉄棒を振り上げる。

 ジークは床を転がり、足払いで倒す。


 ガンッ! ゴンッ!


 鉄棒を奪い、リーダーの顔面に叩きつける。

 何度も、何度も。


「……これが現実だ、そうだろ?」


 言葉は返ってこない。

 リーダーはとっくに意識を失っていた。


 残ったギャングたちは、這うように逃げ出した。

 ジークは一人立ち尽くす。

 血まみれの拳が微かに震えていることに、ジークはようやく気がついた。


 ハランの仇を討ったはずなのに、心は空っぽだった――


---


 夢が終わる。


 ジークは焚き火の明かりで目を覚ました。

 いつの間にか、あの銀髪の青年の姿は消えていた。


 カインとミリアが、焚き火のそばで身を寄せ合って眠っている。

 よほど消耗したのだろう。

 ミリアの頬には、涙の跡がくっきりと残っていた。


 ジークはふたりを見つめた。

 胸の奥が、冷たく締めつけられる。


「……すまない。オレ個人の問題に、これ以上お前たちを巻き込めない」


 荷物をまとめ、そっと立ち上がる。

 焚き火の炎が、ジークの影を長く伸ばす。


 カインとミリアの、安らかな寝息。

 ジークはふたりに背を向け、夜の闇へと歩き出す。

 誰にも気づかれぬよう、音を立てずに。


「お前たちと出会えて良かった。だから、ここでお別れだ」


 ジークの姿は、闇に溶けて消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ