第88話 譲れない理由
夜の帳が荒野を覆い始めた。
焚き火の炎が揺れ、三人の影を地面に踊らせる。
ジークは意識を失ったまま、ミリアの膝の上で静かに息をしている。
青年は無表情のまま、カインとミリアを見下ろした。
その灰色の瞳には、一切の感情がない。
「それで、君たちの話って?」
青年の口調は、まるで天気の話でもするかのような調子だ。
カインは慎重に言葉を選ぶ。
ミリアはジークの傷を確認しながら、青年を警戒していた。
「……まずひとつ、確認させてほしい」
カインが立ち上がる。
「君は本当に『魔王』なのか?」
青年は小さくため息をつく。
まるで面倒な質問をされたかのように。
「さあ? それってそんなに重要なこと?」
その投げやりな態度に、ミリアの怒りが爆発した。
「あなた……魔王軍のせいでたくさんの人たちが犠牲になったんですよ!」
その声は夜の静寂を切り裂く。
「もしあなたが本当に魔王なら、私はあなたを絶対に許しません!」
青年はミリアを見つめる。
その視線に感情はない。
「その人たちを見殺しにしたって意味なら、確かに僕も同罪かもね」
青年が淡々と答える。
「それで、君たちは僕を断罪しに来たの?」
ミリアはハッとした。
思わず口をつぐむ。
違う、聞くべきことは他にあるはずだ。
カインが口を開いた。
「質問を変えよう。血紅公ヴァルターと鱗王グラドラスを殺したのは君か?」
風が吹き抜ける。
焚き火の炎が大きく揺れた。
「その通りだね」
青年が肩をすくめる。
「僕が彼らを殺したよ」
「…………!!」
カインとミリアは息をのんだ。
目の前の青年は、やはり『魔王』なのか?
だが、その行動が全く理解できない。
ミリアが呻くような声で問いかける。
「どうして、自分の部下を平気で殺せるんですか……?」
「……別に彼らは僕の部下じゃないけど?」
青年は首をかしげる。
「え……?」
ミリアが困惑する。
「じゃ、じゃあ、大勢の人たちを苦しめていたのは……?」
「そんなことして僕に何のメリットがあるの?」
青年の問いかけに、ミリアとカインは思わず顔を見合わせた。
どこかで話が食い違っている。
カインは慎重に問いかけた。
「三将軍のひとり、冥将軍アルドベリヒが『次は自分の番かも知れない』と言っていたが、君は彼も殺すつもりなのか?」
「アルドベリヒ?」
青年が首をひねる。
「誰のことかわからないけど。そもそも魔王軍とか三将軍って何?」
「何って……」
ミリアが絶句する。
「あなたの部下じゃないですか!」
「さっきも言ったけど、彼らは別に僕の部下じゃないし、従えたつもりもないよ」
青年は面倒そうに答える。
「アルドベリヒなんて名前にも聞き覚えはない。そいつが何を言ったかは知らないけど、僕の邪魔にならない限り、わざわざ誰かを殺すことはしない」
青年の声に、わずかな変化があった。
ほんの少しだけ、感情が垣間見えたようだった。
「血紅公と鱗王を殺したのは、彼らが結衣に害を加えようとしたからだ」
「…………!!」
カインとミリアは驚愕した。
もし今の彼の言葉が真実なら、これまで掲げてきた『魔王討伐』の意義が、根底から覆ってしまう。
だが、青年は微塵も興味なさげに続けた。
「話ってそれだけ? じゃあ僕は帰らせてもらうよ」
青年が踵を返そうとした時、ミリアが慌てて声を上げた。
「待ってください!」
ミリアの声が夜空に響く。
「結衣さんはどこにいるんですか!? 私たちは結衣さんを助けに来たんです! 結衣さんに合わせてください!」
青年が振り返る。
その表情からは、相変わらず何も伺えない。
「最初からそう言えばいいのに……」
青年がため息をつく。
「結衣は無事だよ。彼女の安全は僕が保証する」
ミリアはほっとした。
が、次の瞬間、再び耳を疑った。
「だけど、君たちの元に帰すことはできない」
「なっ……どうしてですか!?」
ミリアの訴えを、カインが手で制した。
そして青年に向き直る。
「結衣が無事でいるのは間違いないのか?」
カインが冷静に問う。
「彼女の安全を保証するものは?」
「それは信じてもらうしかないけど」
青年が肩をすくめる。
「いずれにしろ彼女が君たちに会うことはもうないよ。彼女は僕が、元の世界に帰す」
「元の世界って、そんな……」
ミリアが絶句する。
その目に涙が浮かんだ。
「……それは結衣の意志なのか?」
カインが鋭く問いかける。
「彼女が元の世界に帰りたいと、確かに願ったのか?」
「そうだよ」
青年はさも当然のように答えた。
「君たちは結衣から聞いていないの? 彼女の意思は、最初から元の世界に帰ることだよ」
ミリアが思わず反論する。
「でも……でも、結衣さんは『魔王を倒して元の世界に帰る』って言ってました!」
「わからないな。どうしたら『魔王を倒せば元の世界に帰れる』って話になるの? 誰がそれを保証するの?」
青年が首をかしげる。
ミリアは言葉に詰まった。
「それは……その……わかりません……」
口をつぐむミリア。
これまで、疑問を抱いたことはなかった。
当たり前のように、魔王討伐が全ての問題を解決すると思い込んでいた。
「なぜ俺たちを結衣に会わせない? 何か不都合でもあるのか?」
カインの言葉に、青年の眼差しが、ほんの少しだけ動いた。
「あるよ」
そして静かに答える。
「結衣は君たちのためにいつも無茶をして、自分の身を危険に晒してきた。君たちと再会すれば、彼女は君たちの元に戻り、また同じことを繰り返すだろう」
心なしか青年の声に、わずかな熱が宿る。
「結果的に君たちの存在は結衣の身を危険に晒す。僕はそれを容認できない。だから――」
そして、決定的な一言。
「だから彼女を、君たちに会わせるわけにはいかない」